第十二回水精霊探索旅行
第十二回水精霊探索旅行。
フェリス姉妹は今日も今日とて雲の中にいた。
「んんんんんんん……」
両胸の飛麟〈瑞麒〉嘉麟で雲を切開し、当てもなく雲の中を彷徨いながら、悩ましげな唸り声を上げるシルティ。
以前レヴィンが仕留めた宵闇鷲の死骸はなかなかの金額で魔術研究者に買い取って貰えたし、宵天鎂は宵天鎂として高値で売却した。また、先日槐樹のエアルリンからの依頼があったので、一度だけ鷲蜂の巣を壊滅させ、女王蜂一匹と働き蜂四十匹を納品している。おかげで現在のシルティの懐は随分と暖かい。無収入だとしてもあと三か月くらいは水精霊を探し続けられるだろう。
だが果たして、このまま探索旅行を継続していいものか。
初春から始まった雲への旅路だが、成果のないまま夏に突入してしまった。
精霊種とは出会うことすら稀である、ということは理解しているつもりだったが、さすがに停滞感を覚えずにはいられない。
(こんなに濃い雲なんだから、居ても良さそうなんだけどな……)
現在、シルティたちは足場換算で二千五百段ほどの高さで雲に潜っている。シルティの主観では充分に濃密な雲であるし、地面からは充分な距離を置いているはずなのだが……これでは契約を結ぶ以前の問題である。まずは出会わなければ何も始まらない。
(見逃してる、とか。……ないとは言えないよね……)
不安になっているからだろうか。もしかしたら擦れ違っていたのに気付いていなかったのかも、という考えがどうしても振り払えない。
マルリルのお墨付きは貰っているが、シルティには実際に精霊種を見た経験はないのだ。考えたくはないが、シルティの霊覚器の感度ではまだ精霊を捉えられない、などということであれば、どれだけ雲の中を彷徨っても徒労に終わってしまう。
(感度……。感度、か。そう言えば、精霊を見るだけなら紅狼もできたりして?)
紅狼がその身に宿す『生命眺望』は生命力そのものを視認すると言われる魔法だ。厳密には相違点も多いが、単純な働きとしては精霊の目によく似ている。これまで思い至らなかったので調べたことはなかったが、紅狼ならば精霊を目視することも可能なのではないだろうか。もちろん、残る二種の霊覚器がないため紅狼単独で精霊種と意思疎通するのは不可能だが、ただ見るだけで良いならば。
(手伝って貰えたら、もうちょっと探し易くなったりしないかな)
シルティの脳内に思い浮かんだのは、同じく『頬擦亭』を定宿とする紅狼、ルドルフだった。生来の能力である『生命眺望』は後付けの霊覚器などとは比較にならない高い感度と長い視程を誇る。もし紅狼が精霊種を目視できるという仮定が正しいならば、彼の助力を得ることで何倍も広い範囲を探ることができるだろう。
(でも、ロロ、でっかいしなー。重いし、ご飯も……)
ロロの愛称で知られるルドルフ。彼は紅狼としては突出した巨躯を誇っている。もし同行するとなれば、レヴィンの生命力の消耗率も食料の消費率も一気に跳ね上がってしまうだろう。しかし、小柄な紅狼の知り合いはいない。いや、そもそも紅狼を高所に連れていくべきではないか。琥珀豹と違って彼らの肉体は上下の移動に強くないのだ。落下した時、シルティとレヴィンだけなら生還できる目もあるが、紅狼と同行していたらどうなるか。
かと言って、『生命眺望』を再現する魔道具も存在しない。かつては紅狼の魔法も盛んに研究されていたのだが、残念ながら実を結ばなかったのだ。全ての魔法が魔道具で再現できるわけではないのである。
シルティは雲を切開しつつ『生命眺望』の活用をしばらく検討していたが、やがて小さく溜め息を吐いた。
(無理か。やっぱり、地道に跳び回るしかないな)
頷いて、足を止める。前方の雲をサクサクと切開。
「レヴィン。ちょっと休憩しよっか。仮眠室お願い」
シルティの要望を受け、すぐさまレヴィンが仮眠室を生成した。もう結構な時間、雲の中を歩き回っている。シルティは仮眠室に跳び移ると、いつものように〈冬眠胃袋〉の脱着機構を操作して鞄を降ろした。
二枚の飛鱗を定位置に戻し、魔術『操鱗聞香』を解除。
両手をぐーっと伸ばして胸を反らし、はしたなく大口を開けて欠伸。
目尻に浮かんだ涙を指で弾いた。
その瞬間。
殺意と憤懣に満ち溢れた声が、シルティに叩き付けられた。
(うッ)
生物としての根源を害意で犯されるような異常な感覚。
本能的な反応なのか、体幹筋が勝手に引き攣り、シルティは己の重心を見失った。
加えて、全身に曖昧な疼痛がある。頭か、耳か、背中か、あるいは下腹部なのか、どこが痛みの発生源なのかわからない。
なんだ、これは。
生涯で初めて味わう奇妙な死の気配に、身体が否応もなく硬直する。
異常の仔細を把握する間もなく、シルティの視界は雲より濃密な純白に染め上げられ。
ぐぶッ、と、肺腑からの空気の漏出に伴って喉が奇妙な音を鳴らし。
そして気がついた時には、なんの支えもない雲の中に放り出されていた。
(なんっ!?)
なにが起きた。わからない。わからないが、身体の背面に疼痛がある。慣性でやられたのか、首の関節にも激痛が。
頬を撫でる空気の流れから、自分が落下しつつもかなりの速度で前進していることがわかる。どうやらなんらかの力で後ろから強く突き飛ばされたようだ。
自然現象ではないだろう。攻撃か。
久々の放物落下に、シルティの主観が自動的に引き伸ばされる。油断していた自分を脳内でボコボコにしつつ空中で身体を捻り、視線を背後へ。
愛する妹はどこだ。雲が濃い。眼球の視線は通らない。霊覚器を全開にして探る。
見つけた。
濃密な白い雲の向こうで虹色に揺らぐ豹の姿。レヴィンもシルティ同様に足場から弾き出されていたらしい。尾を伸ばし、四肢を柔らかく広げ、着地に備えるような体勢を取っている。きょろきょろと頭を振っているが、恐慌に陥っている様子ではない。落下しつつも冷静にシルティの姿を探しているのだろう。
妹の成長を感じつつ、シルティは目を凝らした。この瞬間、彼我の距離は……多分、二十歩ほどか。相変わらず霊覚器の視界は遠近感が計り難い。
だが、こうして見ている間にもどんどん遠ざかっていく。シルティが背後から突き飛ばされたのに対し、レヴィンは真正面から吹き飛ばされたようだ。正反対の向きの初速度を与えられてしまった。状況を放置すれば時間が経てば経つほど合流は難しくなる。
対処は。
まずはレヴィンに足場を与えるべきか。
飛鱗を伸ばしてレヴィンの周囲を形相切断で――いや、駄目だ。周囲の雲が濃すぎる。目視できずとも飛鱗は操作できるが、視線が通らねば斬るべきものを認識できない。認識できねば形相切断は叶わない。飛鱗を一直線に飛ばしながら雲を斬っても、レヴィンに届く前に物性是正が失われ、無形に戻った雲に視線を遮られてしまうだろう。
どうにかして、近付かなければ。
レヴィンに合流すれば、〈永雪〉なり〈銀露〉なりで周囲を切開し、足場を再生成することができる。
やるべきことを決めたシルティは、この上なく嬉しそうな笑みを浮かべた。
即座に魔術『操鱗聞香』を発動。十二枚の飛鱗をいつでも射出できる状態に待機させ、レヴィンに辿り着くための道筋を素早く脳裏に描く。
季節が移り変わるほどの間、シルティは死と隣り合わせの環境で、仮眠中以外は常に自らの体重を軽量化していた。ほとんど毎日がこの状況では嫌でも身体が慣れるというもの。増やせる体重はせいぜい二割が限度だが、軽量化する方は装備込みで七割弱に到達している。
つまり今この瞬間、シルティの体重は素の状態の三割程度。
この状態で飛鱗を革鎧から分離せずに操作すれば、シルティは空中にふわりと浮かぶことすら可能なのだ。
ただし、浮かべると言っても革鎧だけが宙に吊られたような状態なので、動きの自由度は最低である。首根っこを掴み上げられて振り回される猫のようなものだ。動きのキレも、両足で地面を蹴るそれとは比べものにならない。
さらに言えば、浮遊できるのは非常に短い時間に過ぎなかった。魔術『操鱗聞香』で操作できる飛鱗は瞬発力には優れるが持久力には乏しいらしく、重量物を一瞬だけ支えるような挙動は容易なのだが、軽量物でも長く支え続けるような挙動をさせると生命力の消費量が加速度的に増加してしまう。
多分、体重三割の今でも、心臓の鼓動で二十回分も浮かんでいれば生命力が枯渇するだろう。つまり、死ぬ。辟易するような燃費の悪さである。同じ距離を移動するにも、非分離操作で浮かんで移動するより、飛鱗を足場にして一気に跳躍した方が圧倒的に楽なのだ。
要するに、空中を鋭く長く走るならば、やはり飛鱗を足場として確と踏み込む必要があるということ。
さて。
シルティの全力の踏み込みを空中で支えるのに、かつては八枚の飛鱗が必要だった。
今ならば、もっと少なくていいはず。
まだ試したことはないが、きっと。
いや、絶対に。
(いけるッ!!)
ぶっつけ本番。
シルティの好きな言葉の一つだ。
彼女は嬉々とした表情で四枚の飛鱗を足元へ射出した。




