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再来



 五十二日後。

 フェリス姉妹は雲の中に居た。

 幸いにも今回の雲の内部は安定しており、高さの割に風は穏やかだが、全身がしっとりと湿気を帯びているため防寒具があってもやはり寒い。


(んん……雲が濃いのは……あっち? かな? もー、ぜーんぜんわからん……)


 射出した両胸の飛鱗〈瑞麒(みずき)〉〈嘉麟(かりん)〉を自身の周囲に公転させつつ、シルティは視線を巡らせ、小さく溜め息を漏らす。

 直線距離で十五歩も離れれば視界が不明瞭になってしまうほどに濃密な雲の中。前後左右上下、自身の周囲が全て真っ白に染まっている。肉眼でも霊覚器でも、視界に映る動物はレヴィンのみだ。太陽の光も散乱されてしまうため、方向感覚にいまいち自信が持てなかった。


「レヴィーン! あっちに行ってみよっかー!」


 腕での方向指示、そして叫ぶような宣言の(のち)、シルティは二枚の飛鱗を先行させた。呼吸同然の()()に落ち着いた形相切断が濃密な雲をするりと引き裂き、間髪入れず、切り開かれた無垢な空間に黄金色の足場が出現する。

 シルティが軽やかに跳躍、危なげなく着地し、その後ろをレヴィンがぴょんと追従する。もう一度先行させた飛鱗で雲を切開し、足場が作られ、着地。さらに前方へ向かう。

 淀みなく繰り返される跳躍と切開、そして人工的な雲間(くもま)を狙った『珀晶生成』による足場の生成。フェリス姉妹は地上を散歩するのとそう変わらない速度で雲の中を跳び回れるようになっていた。空への旅もこれで六度目なのだ。シルティもレヴィンも慣れたものである。


 雷斬りおよび墜落による負傷の影響で、第一回水精霊(ウンディーネ)探索旅行は雲にすら届かず終わってしまったが、おかげで魔法『珀晶生成』についての新しい事実が発覚した。『珀晶の強度は生成座標での空気の薄さに影響を受ける』『空気の薄さは純粋に珀晶の強度にのみ影響を及ぼし、体積上限や維持可能時間はほとんど変わらない』の二点だ。シルティはこの新情報を港湾都市アルベニセの行政へと伝え、多少の謝礼金を受け取っている。


 空へ登り始める前、シルティはとにかくレヴィンの生命力を節約しなければならないと執念深く準備していたのだが、いざ登ってみるとレヴィンとしてはかなり余裕のある旅路だったらしい。レヴィンの生命力の量と回復力は、シルティが思うよりもずっと上の段階に到達していたようだ。

 第二回以降はレヴィンの生命力と安全を考え、千段目以上の高さでは足場の体積を三割増しに、千五百段以上で六割増しに、そして千八百段以上では十割増しにしたところ、無事に二千段ほどの足場を登り切ることができた。第一回から数えれば五十日以上も経過した今、レヴィンの生命力もさらに濃密になっている。もう少し体積を削っても大丈夫そうだ。わざわざ削る必要もないが。

 なお、マルリルとの約束があるためあれ以来雷斬りには挑んでいない。旅路の最中に雷の気配を感じたら、レヴィンとくっついてやり過ごしてきた。家宝〈虹石火(にじのせっか)〉を引き上げた(のち)に改めて挑戦する気概である。


(うーん……なんにも居ない……)


 残念ながら水精霊(ウンディーネ)とは(いま)だ出会えていない。

 運搬できる荷物(食料)の関係上、空に滞在できるのは長くて十日間ほど。往復路にそれぞれ一日かかると見れば、水精霊(ウンディーネ)を探し回れるのは八日間だ。

 当たり前だが毎日が曇り空というわけではないので、気持ちよく晴れ渡った空にポツリと浮かびながらひたすら時間が過ぎるのを待つ、ということも多かった。立派な雲が見えたとしても物理的に遠過ぎれば突入はできない。本当の意味で水精霊(ウンディーネ)を探せる時間はそう長くはないのだ。

 ちなみに、今日は地上を発ってまだ三日目だが、明日の朝から帰路に就く予定である。なぜなら明明後日(しあさって)はレヴィンと出会ってちょうど一年の記念日。絶対にお祝いをしなければ。


(雲に来るのも果てしなかったけど、来てからも果てしないなぁ……)


 まだ探し始めてたったの五十日だが、シルティは霊術士が少ない理由というものを深く実感していた。第一段階である精霊の耳の構築が肉体的にも精神的にも恐ろしく(つら)いため、初っ端から挫折者が続出するということも大きい。しかしやはり最大の理由は、精霊と契約できるかどうかがあまりにも運任せであるという点なのだ。出会うことすら非常に稀。出会えたとしても、その個体がこちらを気に入ってくれるかどうかはわからない。

 金鈴(きんれい)のマルリルが霊覚器を構築してから九十年以上経っているのにも関わらず、精霊との契約を果たせていないのも頷けるというもの。……まぁ彼女は、精霊術を習得できたからといって急にモテるようになる可能性は低い、ということに気付いてから、あまり積極的に精霊種を探し回っていないのだが。


 幸いにも、今回の旅路では昨日の昼頃から巨大な層積雲に包まれることができた。しばらくは晴れそうにない。絶好の機会である。シルティは霊覚器を全開にして周囲へ視線を飛ばしつつ、可能な限りの速度で雲の中を駆け回る。

 だが残念ながら、精霊種はやる気や気合で引き寄せられる(たぐい)の存在ではないようだ。

 なんの成果のないまま時間が過ぎてゆき、やがて雲が薄まり始める。視程距離が幾分回復し、東の地平線から月の(ふち)が姿を見せた。太陽が沈むまではまだ時間があるが、雲が薄くなってしまってはどうにもならない。

 今回も空振りだったな、とシルティがレヴィンに大休憩を提案しようとした、その時。

 シルティの感覚が、何かを捉えた。


 直感に従い、視線を左上方へ。

 薄らいだ淡い白に透けて見えるのは、凄まじい速度で飛来する巨大な黒いなにか。


(んッ)


 瞬間的に引き伸ばされた主観の中で、シルティは冷静に襲撃者の姿を観察した。

 巨大な猛禽だ。翼開長はシルティの七割増しほど。威圧的な両脚は目を見張るほどに太い。屈強な(あしゆび)が備える四本の指先からは円錐状の鉤爪がそれぞれ伸びている。先端が鉤型に湾曲した特徴的な嘴も含み、全身が赤みがかった艶やかな黒色で、唯一、虹彩だけが檸檬(レモン)のように黄色い。


(おおっ。久しぶりだ)


 間違えようもない。嘘みたいに軽くて硬い超常金属宵天鎂(ドゥーメネル)の生みの親、宵闇鷲(よいやみワシ)である。

 まさかこんな高空を飛んでいるとは。いや、彼らの体重の軽さと翼面積の広さを考えれば、このくらいの高さはまだまだ余裕なのかもしれない。

 調べた限り、宵闇鷲は人里離れた海岸に生息する魔物である。シルティの現在地は港湾都市アルベニセのほぼ直上。彼らの生息域からすれば結構な距離があるはず。

 長距離を移動するために高所を飛んでいる最中、偶然にもシルティたちを発見したので、行き掛けの駄賃とばかりに襲いかかることにした、というところだろうか。基本的に鳥は雲付近の飛行を避けるものだが、生命力の作用により素晴らしい身体能力を発揮できる魔物は、目的さえあれば雲を突っ切ることすら厭わない。

 しかし、なんというか。


(ちっちゃいな)


 前に斬った個体よりかなり小さい。年齢の違いかとも思ったが、この高さを飛べるならば成鳥であることは間違いないだろう。なら雌雄(しゆう)の違いかな、とシルティは呑気に推測した。ノスブラ大陸でもそうだったが、(ワシ)(タカ)(たぐい)はオスよりもメスの方が大柄になる傾向があるのだ。

 宵闇鷲はシルティにとって非常に思い入れのある相手である。今は亡き鎌型ナイフ〈玄耀(げんよう)〉の素材となったのも彼らの右足の鉤爪であるし、レヴィンと打ち解け始めたのも宵闇鷲のおかげだ。

 甘美に殺し合った記憶も昨日のことのように思い出せる。

 最初の入り江を出発して海岸線を辿り始めた初日、幼いレヴィンを狙って上空から襲来してきたのを返り討ちにしたのだった。


 シルティの口元が誇らしげに緩む。

 私はあの時よりも遥かに()くなった。

 かつては襲撃に木刀を割り込ませることで精一杯だったが、今はこんなことに思考を巡らせるほどの余裕があるのだから。


 主観的にはのろのろと動く宵闇鷲。進路から察するに標的はシルティではない。食欲の対象となったのは今回もレヴィンだ。

 おそらく既に宵闇鷲が好んで狙う大きさからは外れているレヴィンだが、高所は有翼種たちの独擅場。平時は狙わないような大型の獲物であっても、岸壁や急斜面に居れば積極的に襲いかかる。

 賢い彼らは知っているのだ。翼を持たぬやつらは高いところから蹴り落とせば簡単に死ぬのだと。

 太い両脚がそろりと揃えられた。覚えのある予備動作。蹴りが来る。


(ふふ)


 飛鱗を割り込ませてレヴィンを守ることは容易い。

 だがシルティは、敢えてこれを見守ることにした。

 次に宵闇鷲と遭遇するようなことがあればレヴィンに任せる。これは以前から取り決めていたことなのだ。

 かつてレヴィンはこの黒い巨鷲(おおわし)を心の底から恐怖した。あの屈辱をそのままにしておくのは今後の成長に良くない。払拭しておかなければ。まさか空中で戦うことになるとは思いもしなかったが、約束は約束である。

 ここに居る限り、レヴィンはほとんど魔法を使えない。昼間に比べれば随分と希薄になったとはいえ、雲の中は琥珀豹という魔物にとって非常に過酷な環境だ。

 だからこそ()い。

 望んでもなかなか得られない、貴重で美味しい戦闘経験となるだろう。


 シルティが見たところ、レヴィンはまだ襲撃者に気付いていない。おそらくこのまま一撃を貰うことになる。〈冬眠胃袋〉を背負っているおかげで脊椎を折られることはなさそうだ。攻撃を受けるのは、〈冬眠胃袋〉か、お尻か、後肢か。レヴィンの肉体も随分と頑強になっているので、ちょっと下半身を蹴られたぐらいで死ぬことはあるまい。まぁ、鉤爪で毛皮を貫かれるだろうし、筋肉も無事では済まないだろうが。最悪、骨も折れるかもしれない。

 だからこそ、最高に()い。

 鉤爪が食い込んだ激痛に耐えながら、レヴィンが冷静に相手を殺せるかどうか。楽しみだ。

 もちろん勝利を収めるのが最良だが、敗北は敗北で素晴らしい糧となる。

 物質の眼球と精霊を捉える眼球、シルティは自身の備える二種の視界を全力で凝らし、わくわくしながら妹を見守った。



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