時間の分解能
「やめた方がいいんじゃないかしら……」
いまいち乗り切れないマルリルを他所に、シルティは全身に生命力を滾らせ、両の拳を握り締める。
「どうしても」
シルティはかつて雷に負けた。瞬時かつ一方的に瀕死に追い込まれた。
以来、シルティは雷を『強者』と認識し、強烈な憧憬を抱きながら生きてきた。
アルベニセに辿り着いてからも、それは変わらなかった。
削磨狐のクソ痛い目潰しに苦しんだことで、長年の目標だった形相切断に至った。
そうして、雷への憧憬に挑戦の色が混じった。
「どうしても、斬りたいんです」
雨天の際には空を見上げて雷を探し、いつか斬ってやると息巻いていたのだ。
水精霊を探すという目標からは外れてしまうが、雷に雪辱を果たせる折角の機会。これを逃すなどシルティには考えられない。
「……あなた、もしかして……天雷の動きが見えたり、するのかしら」
どこか恐る恐ると言った様子で問いかけるマルリル。
シルティは輝くような笑顔を浮かべた。
「はいっ!」
「嘘ぉ……」
マルリルとしてはもう、笑うしかない。
自身が『不可能』と断じている天雷の目視を、シルティはあっさり『見える』と答えた。
どうやら目の前の少女は、主観時間の引き延ばしという技能において、自分には想像もつかない遥かな領域に到達しているようだ。
「見えなきゃ斬りたいなんて言いませんよっ」
「……そうね」
マルリルは柔らかい愛想笑いを浮かべた。
シルティならば見えないものを斬りたいと言い出しても何らおかしくはない、と彼女は普通に思っている。
「まぁ、初めてはっきり見えたの、ほんのちょっと前なんですけどね。ほら、十日前ぐらいに大雨があったじゃないですか?」
「ああ。ちょうど授業が休みの日だったわね。空がずーっとゴロゴロ鳴ってたわ……」
「はい。それで、雷落ちないかなーって窓から空を見てたら……感動するくらいはっきりと見えました。んふふふふ……」
当時を思い出して興奮しているのか、艶やかに笑うシルティの両の眼球には生命力が集中し、虹色に揺らぎ始めた。
「なんだか最近、目が良くなったんですよね。今ならなんでも見える気がします」
最近と言うのはここ一月ほど、具体的に言えばヴィンダヴルとの模擬戦を経験して以降だ。
世界最強の一角である重竜を殺したという輝かしい実績は、シルティの自信をこの上なく補強し、生命力の作用を格段に引き上げている。そしてその飛躍に被せるように、シルティはヴィンダヴルの神業を、人類種の速度の極致を経験した。
自信と目標、二つの燃料を与えられた蛮族の肢体は赫赫と燃え上がり、速度とキレへの最適化あるいは特化をますます深めていく。
「さすがに、雷を見て斬り払うのはまだ無理ですけど……こう、待ち構えておいて、刃筋を合わせるくらいなら! できる! 気がします!」
「……。あなた……前々から思ってたけど……ほんとに凄いわね……。……なんというか……いろいろと……」
「んふふふ! ありがとうございます!」
尊敬する先生に褒められたシルティは、この上なく嬉しそうに、誇らしげに胸を張った。
「じゃあ先生、多分これも知りませんよね」
びしり、と人差し指を伸ばすシルティ。
この仕草、言うまでもなくマルリルの癖の真似である。
普段マルリルには教えて貰ってばかりだからか、逆に教えられる事柄ができて嬉しいらしい。
「雷ってよく見ると、光り方が二段階あるんですよ」
「光り方が、二段階?」
「はい。最初に雲から、木の根っこみたいな細い雷が何本も、枝分かれしながらジグザグに落ちて来るんです」
「……細い雷? が、何本も? なんだか想像がつかないわね……」
「普段見る雷よりずっと暗い雷なんですよ。それで、そのたくさんの根っこのうちの一本が地面に着いたら、その一本だけが一瞬で太くなって、めちゃくちゃ眩しくなって……そんな感じで、よく見る雷に成長するんです」
「へぇー……?」
落雷という現象ではまず、雲から地表へ向かってステップトリーダと呼ばれる先駆放電が伸びていく。この先端が地表へ充分に近づくと、地表からもストリーマと呼ばれる迎合放電が伸び、ステップトリーダと結合する。こうして雲と地表が一本の経路で結ばれると、蓄えられていた膨大な正電荷が地表から雲へと一気に流れ込み、主雷撃、いわゆる雷となって大気を轟かせるのだ。
シルティはもちろん落雷の発生機序など理解していなかったが、ステップトリーダと主雷撃については、純粋無垢な眼力によって存在を認知していた。
「最初から太くて眩しい雷が落ちてくるわけじゃありません。細いのが落ちてから太くなるんで、真向から斬れるのは細い雷ですね。太い雷も横からなら斬れるかもしれませんが……やっぱり、ふふ、襲ってくるのを斬りたいじゃないですか」
シルティは、逃げるのを斬るのも横合いから斬るのも好きだが、なにより自分に向かってくるものを斬るのが大好きである。
「うぅん……」
マルリルはお茶を一口飲み、目を閉じて記憶を呼び起こした。
あと一か月ちょっとで二百五十一年になるこれまでの生涯、数えきれないほど目撃してきた空の罅割れ。目を眩ませるあの現象の直前に、シルティの言う『細い雷』があるのだろうか。
「……思い返してみても、私にはいきなり眩しい光が落ちてきてるようにしか思えないわねぇ……」
「んふふ。見えるようになると、すごく綺麗ですよ? 細くてキラキラの線が、雲からぱらぱらぱらーって落ちてくるんです」
「私には絶対無理だわぁ……。……はぁぁ」
天真爛漫な笑顔を浮かべるシルティを前に、マルリルは大きな溜め息を吐いて、諦めた。
自分が何を言ってもこの娘は考えを改めないだろう。
ならばせめて大人として、少しでも安全を確保させなければならない。
「いいかしら、シルティ。精霊術の先生として厳命するわ」
びしり、と人差し指を伸ばすマルリル。
「な、なんでしょうか」
「雷を斬ろうとするのはもう止めないわ」
「! はい!」
「けれど、挑戦するのは一回だけにして。それで斬れなかったら、今は諦めなさい」
「一度だけですか? わかりました。そういうのも好きです」
シルティは野蛮な笑みを浮かべた。
一発勝負。シルティの好きな言葉の一つである。
「それと、この〈雷避け〉はあなたじゃなくてレヴィンと血縁を結んだ方がいいわね」
「ですね」
本来であれば、シルティが〈雷避け〉と血縁を結んで装備するべきだ。
魔道具七つの持続的な使用、これに必要な生命力は決して無視できない量になるだろう。雲に到達するまでには何百回と魔法『珀晶生成』を行使しなければならないのだから、レヴィンの生命力は可能な限り節約する必要がある。レヴィンは足場の生成に専念し、有り余る生命力を備える嚼人が〈雷避け〉を発動するのが合理的というもの。
だが、シルティがどうしても雷斬りに挑戦すると言うならば、合理性を捨てなければならない。
背乗燕の魔道具〈雷避け〉は雷を遠ざけるため、発動したままでは雷斬りに挑むこと自体が不可能である。この原始的な魔道具には有効無効を切り替えるスイッチもないので、魔術『雷斥翼套』を途切れさせるためには物理的に距離を置く必要があった。
シルティが血縁を結んだ場合、〈雷避け〉をレヴィンに預け、距離を取って雷斬りに挑戦することになるが、この間背乗燕たちは単なる剥製に成り下がる。今から雷を斬るという姉の至近で、レヴィンは無防備な姿を晒してしまうのだ。
どう考えても焼かれる。
安全のためには、レヴィンが〈雷避け〉と血縁を結ぶしかない。
「それから、すぐ食べられるご飯をいっぱい持って行って、雷を斬ろうとする前にたくさん食べること」
「もちろんです」
存分に食べたあとの嚼人のしぶとさは虫の類にも迫る。身体を臍で上下に分断されても即死はしない。処置が迅速であれば五体満足にまで再生できるのだ。森人、鉱人、岑人ではこうはいかない。
当人が自信満々で言うように、満腹のシルティは落雷一発くらい余裕で耐えるだろう。
「あとは、強い気付けね。薬は持ってるわよね?」
「えっ。気付け……あっ」
途端に、シルティは表情を硬くした。




