爺の教え・神髄
「まぁ、確かに身軽になんのも大事なんだけどよ」
ヴィンダヴルは長巻を鞘に納めながら言葉を繋ぐ。
「これの一番の肝は足の裏の感触だ。今は気にすんな」
「わかりました。……足の感触、ですか」
「嬢ちゃんその靴、強化できんだろがよ?」
「はい」
シルティの足を覆う半長靴は革職人ジョエル・ハインドマンの作品だ。港湾都市アルベニセに辿り着いたその日に購入し、丁寧に手入れをしながら使用すること七か月強。もう完全にシルティの足の一部である。
「それが肌だっつーことをもっと意識しろ」
「肌。はい」
「んでだな。こーやって」
ざり、ざり、という微かな軋轢音。
ヴィンダヴルが両足の裏で地面を踏み躙っていた。
「足の裏をしっかり確かめんだ。ほれ、嬢ちゃんもやってみろ」
「はい」
自己延長感覚を確立して生命力を導通させた物品には、触覚、痛覚、温覚・冷覚などの感覚が備わる。岑人の天峰銅などは特に鋭敏だった。彼らは伸ばした触手で掴んだものの形状をしっかり把握できるし、重さも硬軟も温度も全て感じ取れる。
しかし、日常生活に使われる岑人の触手はともかく、武具類に鋭敏な感覚が備わっているのはよくない。素手で殴ったような反動を感じてしまう武器や、素肌で受けるのと大差ない衝撃を感じる防具では不便すぎる。ゆえに、武具強化の際は意識して感覚を鈍らせるのが普通だ。あまりに鈍らせると今度は繊細さが欠けてしまうので、その辺りの調整は個々人の匙加減である。
シルティはどうしているのかと言うと、戦闘に支障がない限界ギリギリまで、感覚を鋭敏な状態に保っていた。
殴られたときはある程度痛い方が血が滾って興奮できるし、なにより、刃物が獲物の血肉にするりと割り込んでいく感触が堪らなく好きなのだ。
今回は皮膚感覚が重要らしい。シルティは普段にも増して触覚を強く意識し、半長靴に生命力を通した。
ヴィンダヴルに倣って地面を踏み躙る。
ざり、ざり。
素足で地面を踏むのと変わらない感触だ。少しこそばゆい。
「ほんだら、ここも自分だと思っちまえ」
ずどん、と下腹部に響く音を立て、ヴィンダヴルが地面を踏んだ。
「……。ああ。なる、ほど」
そこまで言われればシルティにも理解できた。
要するにヴィンダヴルは、足元の地面を自らの身体の延長と見做し、生命力を導通させ、武具強化の対象として固めているのだ。超常の強化が乗せられた地面はただの土壌とは比べようもないほど強固になり、全力で踏み込んでも崩れることなどない、ということなのだろう。
初めて聞く術理だ。蛮族の集落でも、ノスブラ大陸でも、この技法は概念すら存在しなかった。サウレド大陸では有名な移動術なのだろうか。いや、ヴィンダヴルが『特別に教えてやる』と言ったのだから、知っている者はそこまで多くはないはず。
もしかしたら、ヴィンダヴル自身が長年の研鑽の末に編み出した奥義のようなものかもしれない。
「地面を自分だと思う……」
理屈は理解できた。
理解は、できたが。
「うーん……」
地面を、自分の身体の延長と見做す?
しかも、彼我の位置が目まぐるしく移り変わる戦闘の最中に?
死ぬか殺すかの舞台で、踏み締めた地面を、その都度、かつ瞬時に、自分の身体の延長と見做す……?
「んんん……」
控えめに言ってもめちゃくちゃイカれているのでは……?
「なに唸ってやがる。なにも地面全部っつってるわけじゃねえぜ? てめえの足元、ほんの少しだけだ」
「んぅん……」
「簡単だろがよ?」
「ふふっ……」
ヴィンダヴルの言葉を聞き、シルティは思わず笑ってしまった。
簡単ではない。簡単なわけがない。
理屈を聞いたからこそ正気の沙汰とは思えなかった。形相切断や体重操作と同様、いやそれ以上に、狂人の領域へと踏み込んだ異常の技法だ。理屈を説明して実演すれば、百人中百人が『気が狂ってる』と称えるだろう。
しかもヴィンダヴルは、これを熟しながら、並行して体重を操作していると言うのだ。
なんなのだそれは。
狂気の神業。
シルティには、それ以外の表現が見つからなかった。
「ふふふふふ……。はぁ……」
人類種の到達点のひとつを目の当たりにした感動を噛み締め、シルティは笑いながら湿度の高い吐息を漏らす。
遍歴の旅に出てよかった。
サウレド大陸に渡ることを決めてよかった。
遭難して、本当によかった。
この日、ヴィンダヴルと模擬戦に興じたことは、シルティの生涯の財産となるだろう。
「ヴィンダヴルさん。ご指導、本当に、本当にありがとうございます。今日のことは一生忘れません」
「おう」
「教えていただいたこと、決して無駄にはしません」
「せいぜい気張れよ、嬢ちゃん」
やる気に満ち溢れたシルティの言葉を聞き、ヴィンダヴルが嬉しそうに笑う。
「昔、ジョエルの野郎にも教えたんだがよ」
「えっ。じゃあハインドマンさんもこれできるんですか」
シルティの脳内に革職人ジョエル・ハインドマンの姿が浮かんだ。ジョエルは見上げるような巨躯を誇る偉丈夫である。シルティの父ヤレック・フェリスに勝るとも劣らないあの巨体が、ヴィンダヴルのようにキレッキレの動きを見せてくれるのだろうか。
それはなんとも、めちゃくちゃ強そうだ。
是非とも斬り合いたい、とシルティは目を輝かせる。
「いや、できねえ」
シルティのぎらぎらとした期待を、しかしヴィンダヴルは否定した。
「俺らと違って、あいつぁ動き回る戦い方は得意じゃねえんだ。すぐ諦めちまいやがった。俺なりに可愛がってたからよ、あんときゃ俺もがっくり来たもんだ」
ヴィンダヴルが残念そうに溜息を吐く。
今では両者とも引退した身だが、ヴィンダヴルはかつてジョエルと狩猟者のチームを組んでいた。年の離れた友人同士であり、同時に狩猟者としては師弟関係でもあった。
駆け出しの頃のジョエルは今よりずっと落ち着きがなく、経験不足のくせにやたらと向こう見ずで、とても危なっかしい少年だったのだとか。見かねたヴィンダヴルが拳骨を落として叱り、以来、先達として狩猟の基本を教え込んだのだという。
だが、鉱人と嚼人ではそもそもの骨格が大きく違う上に、ジョエルは若い頃から嚼人の中では殊更に巨大な身体を誇っていた。
弟子にいろいろと教えたがる師匠の思惑とは裏腹に、好む戦闘スタイルには大きな差があったようだ。
「まぁ、あいつぁ筋肉馬鹿だしよ。ちっとばかり、なんだ、ぶきっちょでな。できなくてもしゃあねえ」
「ぶきっ……ハインドマンさんが。ぶきっちょ、ですか」
「ああ」
「ぶきっちょ……」
それはちょっと違うんじゃないかな、とシルティは思った。
シルティは革職人ジョエルの作品をいくつも所有している。半長靴。鬣鱗猪の革鎧。今は自室に保管している〈玄耀〉の革鞘。朋獣認定証を固定するための、レヴィンの首輪やシルティのホルダー。どれも実に見事な出来栄えだった。
もちろん、物作りにおける手先の器用さと戦闘における器用さを単純に比較することはできないが……だとしてもだ。あの漢が『不器用』と呼ばれる程度のはずがない。
単純にヴィンダヴルの要求水準が高すぎるのだ。
鉱人を基準にしてしまったら、他の人類種は漏れなく全員が不器用に決まっている。
実際のところ、ヴィンダヴルが足元の地面を自らの一部と見做せるほど詳細に把握できるのは、鉱人がその身に宿す魔法『月光美髯』の効果によるところが極めて大きい。自己延長感覚の確立には対象を精密に把握することが重要である。そして鉱人は、踏みつけた一本の絹糸の太さすら肉体感覚で計測できるのだ。
嚼人であるジョエルが足場の強化を習得できなかったのも当然というもの。
鉱人と同等の皮膚感覚を身に付けろという方が土台からして無理なのである。
「まぁ、嬢ちゃんならできんだろ。見込みがあんぜ」
「んふふっ。ありがとうございます!」
ヴィンダヴルは『見込みがある』と言ったが、おそらくシルティがヴィンダヴルと同じことをするのは難しいだろう。不可能、と言ってしまってもいいかもしれない。
シルティも自身の精密な動作には並々ならぬ自信を持っているが、それは嚼人という魔物の中での話。完全な動作を体現する鉱人と比較するならば足元にも及ばないのだ。
シルティ自身、嚼人の身でこれを為すことがほとんど不可能に近いことを、なんとなくではあるが察している。
「体重操作も、足場の強化も、必ず、自分のものにしてみせます。絶対にっ!!」
だが、そんなことは心底どうでもよかった。
この技法を習得した暁には、シルティの得意は数段上の領域へ至ることになるのだ。ならば、その道程がどれほど険しくとも、諦める理由にはならない。蛮族は戦闘能力を至上とする動物である。強くなる道を歩むことを諦めていい理由など、最初から存在しないのだ。
「ふふ。んふふふふふ。なんか最近、ほんと、生きるのが楽しいなぁ……」
精霊術。体重操作。足場の強化。
強くなるための道筋が明瞭で、しかも、多岐にわたっている。
シルティは幸せだった。
「それはそうと、ヴィンダヴルさん。せっかくなので、もう一回斬り合ってくれませんか」
「……悪いがもうちっと休ませてくれや」
「もちろんいくらでも待ちます」
その後、休憩と指導を挟みつつ三回戦したが、シルティは全敗した。
 




