キレッキレお爺ちゃん
三日後。
西門から少し離れた草原にて。
適度な間隔を空け、シルティとヴィンダヴルが向き合っていた。
幸いにして、雨は降っていない。かつてのマルリル戦と同じように、レヴィンはシルティの後方上空に珀晶の足場を生成し、その上に姿勢よく座って観戦に臨んでいる。
「よろしくお願いしますッ!!」
シルティはこの上なく威圧的な笑みを浮かべながら、左腰の〈永雪〉を滑らかに抜刀した。その刀身は当然のように虹色に揺らめいている。つまり、生命力がギンギンに迸っているということだ。
右足を前に、両足を拳四つ分ほどの間隔を空けて広げる。体重を蹴り足にかけつつ、重心は正中線上。両手で握る〈永雪〉の切先を相手の額へ向け、中段に構える。
「おう。まあ、気張れよ」
対するヴィンダヴルは巌のように落ち着いた様子で、黄褐色の革鎧と兜で身を包んでいた。長い年月を感じさせる戦装束。シルティの人生よりも長く使い込まれているのではないだろうか。
防具は鎧兜のみで、盾のようなものはない。両手で中段構えに保持するのは、全長がシルティの身長ほどの長大な湾刀だ。ヴィンダヴルはシルティよりも頭半個分ほど小柄なので、ヴィンダヴルからすれば自分の身体よりも大きい得物ということになる。
(ああ、あの子も綺麗だなぁ……)
シルティはヴィンダヴルの得物へ向け、じっとりとした物欲しげな視線を送っていた。
刀身は真珠を思わせる淡い白銀色。シルティの〈永雪〉と同じ輝き。つまり、真銀製だ。
ヴィンダヴルはこれを『長巻』と呼んでいたが……シルティの主観的には、長巻と呼ぶよりは太刀の変種と呼ぶべきように思えた。
長巻とは、単純に表現すれば著しく長い柄を持った大振りの湾刀である。一般的には柄の長さが全長の五割から六割ほど。つまり、刀身と同じか少し長い程度の柄を持っていて、鍔が全体の真ん中辺りに位置する『刀』である。
しかしヴィンダヴルの得物は、柄の長さが全長の四割弱しかなかった。長巻と呼ぶにはかなり控えめな姿だ。
とはいえ、ヴィンダヴル本人が長巻と呼んでいるので、それに倣うべきだろう。
嚼人と鉱人では骨格の比率が違うので、あのくらいの柄が使い易いのかもしれない。
(長巻と斬り合うのは粘り強くて楽しいから好き……)
一見すると柄の短いグレイブや薙刀のように見えなくもないが、長巻の柄というのは間合いに加算するためではなく、取り回しの向上を目的として延ばされたものだ。無論、いざとなれば柄頭付近を握って大きく振り回すことも可能ではあるが、基本的には両手のどちらかが鍔に程近い位置を握る。長柄武器に分類したくなるその外観とは裏腹に、基本の間合いは意外なほど狭い。
その分、両手で梃子を存分に利かせられるため、同じ刃渡りの太刀とは比べ物にならないほど腰強だった。勢いや遠心力ではなく、筋力そのものを存分に乗せられる。切先の粘りも桁違い。微妙な手業にも鋭敏に反応してくれるので、とにかく根性のある立ち回りができるのだ。
〈虹石火〉、〈紫月〉、そして〈永雪〉。シルティの愛刀たちの柄が標準より長く作られているのも、実のところこの取り回しの良さを獲得するためである。
ヴィンダヴルの得物は柄の短い長巻。
シルティの得物は柄の長い太刀。
「んふふふ……」
得物が似ている。
さらに、上背も似ている。
多分、自信のある性能も似ている。
これが笑わずにいられようか。
息を静かに吸い。
止めて。
跳び出す。
全身全霊、鋭利な跳び込み。
シルティの足元が爆発したように抉れ、根に土塊を保持した草本がばら撒かれる。
静止状態からただの一挙動で最高速度に達し、シルティは全く躊躇なくお互いの間合いを重ねた。
落雷のような速度で振り下ろされる、ヴィンダヴルの脳天を狙う唐竹割り。
白銀の剣閃が、ヴィンダヴルの頭頂に割り込み、股下から抜ける。
斬った。
(ぇあっ!?)
斬れてしまった。
まさか、避けないとは。
そう思った。
(んっ!?)
一瞬遅れて気付く。手応えがない。
空振りだ。
理解不能なことはなにも起きていない。シルティの真向斬りに対し、ヴィンダヴルは右足を拳一つ分だけ右方へ滑らせ、左足を引く、そんな素直な体捌きで回避した、それだけのこと。
ただ一つ、ヴィンダヴルのキレが超常的だった。
斬ったのに手応えがない。そう錯覚してしまうほどの、神懸った体捌きだった。
物凄く強いだろうと思っていたが、とんでもない。このお爺ちゃん、想像を遥かに超える。
あまりの感動に思わず硬直したシルティの耳に、ヴィンダヴルの足が土を踏み躙る音が届く。
我に返ったシルティは前傾した重心を根性で引き戻し、両腕を高く畳んで〈永雪〉に右肩を添えた。直後、凄まじい衝撃がシルティの身体を襲い、至近距離で発生した轟音が右耳を蹂躙する。甲高い金属音による眩暈を感じる間もなく、身体が流れ、目線が沈んだ。
「ぐッぅ」
肺腑が潰れ、掠れた吐息が口から洩れる。
凄まじい剣だ。角度の付いた左袈裟が〈永雪〉越しにシルティの重心を捉え、身体を地面へと押し付けてくる。まるで山が圧し掛かってきたような重さだ。
小柄なシルティは上から潰されるのには慣れている。だが、まさか自分より小柄な相手に上から潰されるとは思わなかった。
咄嗟に両脚に力を込め、硬い地面を担保に重圧に対抗――その瞬間。
生み出した抗力が、ぐるりと体内で空転した。
(んぁっ!?)
二刀の相互束縛を介してシルティの上体がぐいと持ち上げられ、地面が遠のく。つい一瞬前までシルティを上から圧し潰さんとしていた刃筋が、気が付けば反転し、下から粘り強く持ち上げている。
シルティは驚愕に目を見開いた。
なにがどうなっていつの間にこうなったんだ。
無論、剣理を学ぶ暇などない。あっけなく踏ん張りを奪われる。もはや対抗できない。体重差が諸に出る。
受け切れない。
咄嗟に重心を浮かせて脱力、ヴィンダヴルの威力を利用して後方へ弾かれ、距離を取らんとする。
が。
押し付けられた後方への跳躍は、ふわりとした放物線を描き、欠伸が出るほどに鈍かった。
(この下手くそ!!)
シルティの脳内で自らへの罵倒が響く。どうやらヴィンダヴルは、シルティの脱力を見越してわざと振り切らなかったらしい。
着地が遠い。足裏が頼りない。
のんびりと流れる時間の中、ヴィンダヴルが長巻を悠然と右肩に担ぐのが見えた。
瞬間、長年の戦闘経験と勘が確度の高い未来を算出する。シルティには死なされる手順が見えた。
ここを何とかしなければ死ぬ。
だが、シルティの身体はまだ空中にあるのだ。重力では鈍い。間に合わない。
(下ッ!)
シルティは本能的に革鎧へ生命力をぶち込み、魔術『操鱗聞香』を発動した。十二枚の飛鱗全てを鉛直下方へと操作し、シルティの身体ごと革鎧を無理やり引き摺り下ろす。放物線を無視した鋭角な落下を決め、着地。偉大な大地を踏み締める。
目の前に、ヴィンダヴルがいた。
襲い来る長巻。シルティの左頸部を狙う右袈裟だ。
「ひひッ」
喉が引き攣ったような笑いが漏れた。ああ、綺麗な太刀筋。幾千幾万と振るってきたのだろう。泣きたくなるほどに美しいが、戦闘中ゆえ、蛮族の目から涙は出ない。
シルティは全力で首を傾げ、沈身と共に左方へ身を躱す。地面に左手を付くほどの低空姿勢。それでもなお、指四本分躱し切れない。
想定通りだ。体幹筋で生み出した威力を右肩に乗せ、突き出し、装甲を斜めに当てる。表面を滑らせ、なんとか上手く弾いた。
右腕一本で握る〈永雪〉に殊更の生命力を注ぎ込む。同時に、勢いよく屈曲していた左膝を酷使し、跳び上がるような逆風の一撃。
ヴィンダヴルの右脇の下を狙う、二度目の必殺だ。
それが、またしても空を切る。
切先が届かない。
なんという後方跳躍のキレ。シルティの頭が歓喜で染まる。
右袈裟を逸らし、それに被せるように放った、会心の逆風だった。
あの状況で、あのタイミングで、あの体勢で、この逆風を、なぜ横ではなく縦に躱せるのだろう。涼しい顔をしているくせに、ヴィンダヴルの動きが速すぎる。
金鈴のマルリルとの模擬戦でも、シルティは彼我の力量差に喜んだものだが。
自分の得意をこうも歴然と上回られると、もはや感動しか覚えられない。
故郷の集落でも、四年間に亘るノスブラ大陸での旅でも、ここまでキレッキレの人類種に出会ったことはなかった。
ああ、嬉しい。
突き詰めれば、人類種はあそこまで動けるのだ。
それを知れたことが、堪らなく嬉しい。
いずれ。
自分も。
左手を柄頭へ走らせつつ、左足を前に大きく踏み込む。〈永雪〉を切り返し、左袈裟。これもまた空を切る。左に躱された。さらに踏み込み、右逆袈裟で追う。ヴィンダヴルは両腕を折り畳み、一歩引いて、長巻の鍔元でしっかりと受けた。
耳を劈く金属音。
互いの得物が強固に噛み合う。
シルティは恍惚と笑った。
いやはや本当に、なんという重さだ。身の丈を超える巨大な金属塊を斬りつけたような感触。誇張抜きでビクともしない。いくら鉱人が骨太だといっても限度がある。
わかっていたことだが、ヴィンダヴルは速いだけではない。笑えてしまうほどの受けの強さだ。単純な筋力では圧倒的に負けている。刃の交点も位置が悪い。相手の長巻は粘り強い鍔元で受けているのに対し、〈永雪〉は刀身半ばだ。
刃を触れ合わせた状態での瞬きの駆け引きにおいて、鍔元は圧倒的に強い。ヴィンダヴルに都合のいいように受けられてしまった。
現状の不利を悟ったシルティは、即座に刀身を返して相互束縛を解除、腰を落とし、実現し得る最高の速度で突き込んだ。真銀の刃が滑り、交わりが鍔元へと移行する。かと思えば、ヴィンダヴルの刃が巧みに蠢き、シルティの力を上滑りさせた。
(だあクソ無理ッ!!)
身体をぐいと引っ張られたかのような錯覚を覚えるほどの、見事すぎる受け流しだ。二度の相互束縛とそれに続く駆け引きは、どちらもシルティの完敗だった。シルティの主観では、ヴィンダヴルの手癖の悪さは超常の領域だ。駆け引きを挑めば容易く体勢を崩され、死に近づく。
鍔迫り合いを挑むのは分が悪すぎる。
柄頭を放し、至近距離のヴィンダヴルへ向けて左肘を打ち込む。迎え撃つは左掌底の突き上げ。真下から搗ち上げられた肘が跳ね上がり、シルティの身体が伸び上がった。お互い、得物を振るうのは難しい体勢。シルティは腹筋と背筋を酷使して力を生み出し、右膝に乗せて蹴りを繰り出す。ヴィンダヴルは大人しく後退し、それを躱した。
今一度、間合いが作られる。
休む時間はいらない。
素早く息を吸う。止める。前へ。
地面が再び爆発し、足場の破壊に見合った加速をシルティに与える。瞬きよりも速く肉薄し、静止。右袈裟。冗談のようなキレで躱された。続く左逆袈裟は寝かせた長巻で浅く受けられる。相互束縛には至らない柔らかな邂逅。硬くも涼やかな擦過音と共に、〈永雪〉が長巻の刃を伝って滑る。
シルティはそれに逆らわず、流れの方向に地面を蹴った。
シルティの生み出す足音は一つ。
だが、地面に刻まれた足跡は四つ。
シルティは瞬き一つの間に直角の方向転換を二度こなし、ヴィンダヴルの背後に現れた。
あまりの速度に、地面を蹴り砕く音が完全に重なっている。
狙うは右胴だ。
手加減なしの、逆水平。
敢え無く空を切る。
見失いかけたお爺ちゃんを追いかけ、逆水平の勢いのまま自身の身体を軸として回転。腰の抜けた薙ぎ払いを背後へ放つ。
硬い感触、弱弱しい金属音。
術理もへったくれもない〈永雪〉の一撃は、しかしヴィンダヴルを辛うじて追跡することに成功し、長巻によって止められていた。
「ひひッ」
笑うしかない。
後ろを取ったと思ったら、後ろを取られていた。
脚を止めた斬り合いの最中、極限の緩急差を発揮して真正面から背後を取るのは、シルティのとっておきだ。足音が重なるほどに圧縮された方向転換は熟練の狩猟者でもそうそう追いつけるものではない。やると両脚が壊れそうになるが、格上の相手でも不意を突けるという自信と実績がある。かのマルリルですら一時は置き去りにしてみせたのだ。
だが。
シルティができることは、当然、ヴィンダヴルにもできる。
(あ)
シルティの目が、ヴィンダヴルの両手を捉えた。
長巻は左手一本で保持されている。つまり、右手が完全に自由だ。しかも拳を作っていた。
殴打が来る。
避けなければ。
だが、踏ん張りが足りない。逆水平を空振って、そのままの勢いで背後を薙いだのだ。重心がぐちゃぐちゃである。完全な死に体。こんな状態でまともに地面を踏めるはずが――
「っ、ェはッ」
その瞬間、ヴィンダヴルが噎せたように息を吐き出した。
両肩ががくっと下がり、体幹が乱れ、重心がふらつく。拳を作った右手は、動かない。
(!)
唐突に降って湧いた猶予。シルティは息を吹き返す。骨髄まで染み付いた動きを身体が自動的に再生する。両足で地面を確と掴み、〈永雪〉を切り返した。頭上で鋭い楕円を描き、左袈裟の太刀筋でヴィンダヴルの右肩へ。
ヴィンダヴルの肩口、指一本分の隙間を開け、〈永雪〉は止まった。
振り抜いていれば、間違いなく致命傷だ。
「っぜ、へぇ、だぁアぁぁ……」
ヴィンダヴルは悲鳴のような声を漏らしながら力無くへたり込み、そのまま地面に仰向けに転がった。
「もうちょいっ、動けっかと思ったがよっ、はッ。おぃ……っひふぅぅ……もう、息がよ……」
ゼェヒュウと掠れ切った音を響かせ、大口を開けて空気を貪りながら、ヴィンダヴルが弱音を吐く。筋肉よりも早く、肺腑が限界を迎えてしまったらしい。
シルティは寸止めしていた〈永雪〉を翻し、鞘に納め、深々と頭を下げた。
誰がどう見ても、この模擬戦はシルティの負けだ。技量でも、技法でも、身体能力でも負けていた。唯一勝っていたのは持久力のみ。
ヴィンダヴルがあと一歳、いや半歳でも若ければ、地に伏せているのはシルティだった。
「参りました」
「おう……。まあ、ちょっくらっ、待ってくれや……ぶ、はぁ……。わかっちゃいたがよ……年齢にゃあ勝てんな……」




