予約
マルリルへの模擬戦の申し込みを素気なく断られたシルティだったが、もちろん授業は真面目に受ける。
繰り返し浴場で暗唱していたおかげか、教わった定型文についてはしっかりと記憶できていたので、マルリルに誉めて貰えた。
嬉しい。
喉の構築も順調に進んでいるようで、授業中に何度か声を出すことに成功し、マルリルにとても誉めて貰えた。
凄く嬉しい。
随分上達したわねとマルリルに驚かれたので、シルティは笑顔で『声帯に珀晶の刃を刺し込んだ状態で練習したんです』と笑顔で伝えたところ、ドン引きされた。
少し悲しい。
一か月半ほど前のシルティの精霊の耳が完成した日、マルリルは『言語学習は半月に一回くらいで』と言っていたが、二十四日間でここまで喉を仕上げてきたシルティの熱意に引っ張られたらしい。授業の頻度をぐんと上げることになった。今後しばらくは三日間の授業と一日の休みを繰り返す予定だ。
一日の休みでは狩猟に出るのは難しいが、優先すべきは狩猟よりも最後の霊覚器の獲得である。
ただ、現実的な問題として先立つものがなければ何事も立ち行かない。シルティに後悔の念など塵芥ほども存在していないが、客観的事実として、〈永雪〉の発注費用はあまりにも高すぎた。鷲蜂と重竜のおかげで潤沢にあったはずの資金も、今では薄っすらと底が見えてきている状態だ。
すぐに食い詰めるということはないが、定宿としている『頬擦亭』の宿泊費は決して安いものではないし、声帯を切開するために公衆浴場も利用したいし、マルリルへの授業料の支払いもある。
いよいよとなれば、授業日程を変更して貰ってでも狩猟に出なければならないだろう。
できれば春までには構築を完了させ、水精霊を探しに雲の中へ行きたい、とシルティは考えている。
そんなこんなで二十四日ぶりの授業を終えたシルティは、そのままの足で魔道具専門店『爺の店』を訪れた。
「こんにちはっ!」
店仕舞いを始めていた店主ヴィンダヴルが、慌ただしく突入してきた蛮族に目を向ける。
「よぉ。来たか嬢ちゃん」
「お久しぶりです!」
「いいとこに来たな。鬣鱗猪の補修材、ちょうど昨日入ったぜ」
「えっ? 補修ざ……あっ。そうでした。それもあったんでした」
すっかり意識の外にあったが、気が付けば飛鱗の補修材を注文してから一月ほど経過している。依頼を受けた狩猟者が無事に鬣鱗猪を狩り、死骸を調達することができたようだ。
ちなみに、シルティが鬣鱗猪を狩って食べたのは初夏の頃で、肉は結構美味しかったのだが、冬場の鬣鱗猪の肉は臭くて食べられたものではないらしい。特にオスは。
「あん? 補修材の確認に来たんじゃねえのか?」
「いえ、今日はシグちゃん……あ、いや、シグリドゥルさんへの口利きに、改めてお礼をと思いまして」
「おお。そっちか。おめえら、気が合っただろ?」
「はい!」
満面の笑みを浮かべ、シルティは肯定した。
武具強化の対象となる得物に対し、狩猟者というのは大なり小なり愛を持ち合わせるものだが、シルティほどの愛執を抱ける者はかなり珍しい。戦闘能力至上主義の蛮族ですらだ。
自身が垂れ流した愛に引くことなく、それどころか追い抜かんばかりの愛を垂れ流してくれたシグリドゥルを、シルティは既にかけがえのない友人だと考えていた。
「この度、無事に完成しました!」
腰を捻り、左腰で剣帯に吊った〈永雪〉を見せびらかす。
「凄くいい刀を作って貰いました。私のためだけの……ふふ……本当に最高なんです、この子」
「そりゃあなによりだ」
かっかと笑いながら、ヴィンダヴルは戸棚から口の大きな濃褐色のガラス瓶を取り出した。軟膏あるいは蝋のようなものが充填されていて、しっかりと固まっている。鬣鱗猪の補修材だ。使うときは適量を削り、火や湯で軟化させてから損傷部に塗り込むのだが、日光に晒していると劣化しやすいため有色ガラスで保護している。
鬣鱗猪一匹分の鱗をほぼ全てつぎ込んだのだろう、かなりの量だ。これで一安心である。
シルティは割符と料金の残りを支払い、感謝を告げて補修材の瓶詰を懐に仕舞った。
「どれ。ちょっとそいつを見せてくれっかい」
「もちろんです」
シルティは剣帯から〈永雪〉を外し、両手で支えてヴィンダヴルへ差し出す。ヴィンダヴルは丁寧な手つきでそれを受け取り、慣れた動きですらりと抜いた。揺らぎを孕んだ白銀の刃が姿を晒し、シルティの目が途端に蕩ける。自分が握っておらずとも惚れ惚れしてしまう美しさだ。
「ほおん……」
ヴィンダヴルは手や指を細かく操作しながら、〈永雪〉の柄や刀身などをじっと眺めた。ヴィンダヴルにとってシグリドゥルは可愛い可愛い孫娘だ。血の繋がった正真正銘の身内であり、初孫ということもあって割と溺愛しているという自覚もある。
しかし、孫娘の仕事を検めるその表情に、甘さなど微塵も感じられない。
シルティにシグリドゥルを紹介した以上、この太刀の出来栄えの責任は自分にもある、とヴィンダヴルは考えていた。もちろん、ヴィンダヴルは身内贔屓でシグリドゥルを紹介したわけではない。シグリドゥルの技能を認め、ひとりの優れた鍛冶師として紹介したという自信がある。だが結局のところ、客観的に言えば客に自分の身内を紹介したという事実は変わらないのだ。身内の仕事だからこそ、その内容は特に厳しい目で見なければ示しがつかない。
矯めつ眇めつ〈永雪〉を検めたヴィンダヴルは、続いてシルティの身体に目を向けた。
シルティの頭のてっぺんから足の爪先まで、鋭い目つきで睨みつける。
じろじろと見られることを不快に思う人類種は多いだろう。シルティにも嫌な視線だと感じるものはある。だが、ヴィンダヴルのこの視線は違った。
シルティにはわかる。これは探りの目。鍛え上げられた洞察力により、ヴィンダヴルは想像上で鬣鱗猪の革鎧を透けさせ、シルティを丸裸にしているのだ。〈永雪〉を発注した際、シグリドゥルがシルティの身体に直接触れたのと同じである。シルティが習得している生物を殺すための技量と技法、その概要を、ヴィンダヴルは眼球のみで収集しようとしていた。
「んふふ……」
シルティはにまにまと笑いながら少し足を開き、僅かに重心を落として戦いに備える。
もちろん、この場この時にヴィンダヴルと戦えるとは毛ほども思っていない。いないのだが、自分の力量を測られたと感じると、頭と身体が勝手に臨戦態勢へ移行してしまうのがシルティという娘である。
ヴィンダヴルもシルティが興奮し始めたことには気付いたが、特に気に留めず、〈永雪〉を右手で静かに上段に構えた。
小さな踏み込みを経て、流れるように振り下ろす。
軽やかな動きとは裏腹に、放たれた剣閃は常人の目には全く映らないほどの速度を孕み、そして、床板すれすれでぴたりと止まった。
ヴィンダヴルは満足げに頷くと、刃をくるんと翻し、音もなく納刀する。大振りな湾刀の取り扱いが身体に染み付いていることがわかる、呼吸にも等しい自然な動きだった。
「いいじゃねえか。嬢ちゃんに合った作りだな」
「はい! ちょっと前に黒曜百足を斬ったんですけど、ほんともう、惚れ惚れするような斬り心地で……! 私、刃物に強化を乗せるのは大得意ですけど、それにしたってこんなに可愛い刃物は初めてです! 自分の手より手みたいでした!」
シルティは溢れんばかりの笑顔を浮かべながら返却された〈永雪〉を受け取り、胸に抱きしめるようにして鞘に頬擦りをする。
やっぱこいつら似てんなぁ、とヴィンダヴルは苦笑した。孫娘が一人増えたような気すらしてくる。
「それで、ですね。ヴィンダヴルさん」
シルティは媚を売るようにへらっと笑った。
「この前、約束してくれたじゃないですか」
「あん?」
「私の腕と目が治ったら、一回、模擬戦してくれるって……約束、しましたよね?」
「あー、ああ。まあ、軽くならいいがよ」
「できれば重くやってほしいです」
「やめろや。年寄りに無理させるんじゃねえ」
「んぅ……。わ、わかりました。軽くでいいです」
蛮族にも、年配は労わるべしという考えはある。
「……あの、今からとか……?」
ヴィンダヴルは、なに言ってんだこいつは、という表情をした。
「いや今からは無理だろ。得物なんかねえぞ」
「ですよね……」
シルティはがっくりと肩を落とす。
「いきなり来て模擬戦だ言われてもよ、そら、丸腰だろがよ。こちとらもう平和に生きてんだ。狩猟者ん頃の道具は家で大事に飾ってあら。外も暗えしよ」
「ぐぬぅ」
「別にやらねえっつってるわけじゃねえぜ。今日は帰れ。明日は空いてっかよ?」
「明日と明後日は夕方まで用事があって……。今日ぐらいの時間になっちゃうんですけど、どうでしょう?」
「あんま遅えのもな。俺ぁいいが、嬢ちゃん見えねえだろ」
鉱人は夜行性の魔物であり、夕暮れの中でも鮮明な視界を確保できるが、嚼人はそうではない。
「でしたら、明々後日は一日空いてます。どうでしょうか」
「んなら明々後日にすっか。昼ぐれえに西門な」
「西門!」
ヴィンダヴルの言葉を聞き、歓喜を帯びた生命力がシルティの身体を満たす。
集合場所に西門を指定してきたということは、ヴィンダヴルは模擬戦をアルベニセの外で行なうつもりなのだろう。
つまり、軽くない模擬戦をやってくれるということではないだろうか。
「明々後日ですね! わかりました! 絶対ですよ!!」
「絶対っつったって、雨降ったらやんねえぞ。俺ぁ雨嫌いだからよ」
「そんなっ……待ってください! 雨だったらレヴィンに屋根作って貰いますから! どうか!」
「……まあ、いいか」
「やったッ! 明々後日、予約しましたからね!」




