長風呂
七日後の早朝、宿屋『頬擦亭』の自室にて。
ぱちりと目を覚ましたシルティは、仰向けの体勢のままパチパチと何度か瞬きをした。
右目だけを閉じて天井を見る。左目だけを閉じて天井を見る。それぞれの視界に問題なし。
両目を閉じ、床で巨大毛布をベッドにしていたレヴィンの方を見る。巨大な豹を象る虹色の塊。既に目を覚ましており、大口を開けて欠伸をしていた。精霊の目にも問題なし。
天井へ向けて両腕を伸ばし、手を開閉させる。指先の感覚に問題なし。そのまま両の手のひらをぴたりと合わせる。両腕の長さに差異なし。
「よし。……おはよ、レヴィン」
上体を起こし、身体を解す。
胡坐をかき、腰の後ろ側で手を組んで、胸を大きく張りながら手を後ろへ突き出す。次は身体の前で手を組み、背中を丸めながら前で突き出す。
右腕を頭上に、左手で右肘を保持し、身体を左へ倒す。同様に右手で左肘を保持し、身体を右に倒す。腕を真っ直ぐ前に伸ばし、逆側の腕で伸ばした腕を首元へ引き寄せる。
脚を左右に広げ、左右の爪先と膝頭が全て一直線に位置する見事な開脚。息を大きく吐き出しながら身体を前に倒し、胸をむにゅりとベッドに押し付ける。そのままの姿勢で十を数え、身体を起こす。今度は前後に開脚し、太腿の裏と鼠蹊部をゆっくりと伸ばす。
(んん……。うん、痛くない。気持ちい)
ベッドから起きる。
直立した状態から上体を左右に大きく捩り、前屈させ、後方に反らす。さらに虚空へ向けて軽くジャブや蹴りを繰り出し、身体の動きを入念に確認する。
そして、満足げに頷いた。
欠損していた左腕と左眼球の再生は完了、機能にも問題なし。肉体は万全の状態だ。
(身体は回復した。あとは精霊の喉!)
三日前、マルリルは調査団に同行して港湾都市アルベニセを発っている。この大規模調査は半月ほどかけて行われる予定だ。次の授業は余裕を見て二十五日後と決め、シルティはマルリルの出立を見送った。
現時点までで精霊言語学習に費やせたのは五日間。既に水精霊の言語については相当数の定型文を記憶したシルティだったが、しかし精霊の喉の構築が進んでいる実感は全くなかった。この三日間も自主訓練として一日中発声を試しているのだが、本当に手応えが一切感じられない。
地道な作業は好きなシルティだが、ここまで手応えがないとさすがに不安が首を擡げてしまう。
寝間着を脱ぎ、着替えながら思考を進める。
なんとかもうちょっと効率よく、というより、実感を伴った構築方法はないものか。
(うーん……。生命力……生命力かぁ……。精霊の耳の構築も、昔は耳の奥を傷付けて治しながらやってたって先生が言ってたな。……今日からは喉を斬りながらやってみようかな?)
今朝方にようやく身体が万全となったので、今まで欠損の再生に回していた生命力を別のことに使えるようになった。喉を軽く掻っ捌いても窒息する前に治せるはずだ。
とはいえ、さすがに自室内でやるわけにはいかない。
既にシルティは鬣鱗猪の革鎧を身体に馴染ませる過程で寝具を一つダメにしている(ほとんど刃物である飛鱗を身体中に纏ったまま眠っていたため)。この上で室内を血で真っ赤に染め上げたら、たとえ弁償すると言っても『頬擦亭』の主人エキナセア・アストレイリスから拳骨を貰うことになるだろう。それも、手ではなく、天峰銅による拳骨だ。岑人たちの金肉が繰り出す打撃は人類種の中で最強なのである。
自室はだめだ。もちろん、往来で自決紛いの行為をするわけにもいかない。喉を斬るなら血をぶち撒けても問題ない環境でやるべきだろう。
他人の目に付かず、血をぶち撒けても洗い流せる環境。シルティには心当たりがあった。
お風呂だ。
公衆浴場の職員に浴室内で血を流してもいいか確認する必要はあるが、返り血を浴びた狩猟者が身体の汚れを落としに来ることも多い施設なのだから、多分大丈夫だろう。
「レヴィン。今日はちょっと買い物に行って、お昼ぐらいからお風呂行こっか」
毛繕いをしていたレヴィンが耳介をぴくんと立て、ご機嫌な唸り声を上げた。
◆
港湾都市アルベニセの誇る七つの公衆浴場の一つ、『西区・公衆浴場』。
その設備のひとつ、個別浴室にて。
ご、ごご、る、るる、る、るるる。
全身をピカピカに磨かれたレヴィンは湯船に浸かり、浴槽の縁に寄りかかりながら遠雷の音色を反響させている。
シルティは湯船には浸からず洗い場に立ち、瞼を閉じて精霊の目の齎す景色に集中していた。
先ほど、公衆浴場の職員に『ちょっと血を洗い流してもいいですか』と確認したところ、まぁちょっとぐらいなら、と了承して貰えたので、気兼ねなく喉を掻っ捌ける。
職員とシルティの想定する『ちょっと』の間にどれくらいの開きがあるかは定かではないが、しっかりと許可は取ったのだ。
右手の人差し指をそっと伸ばし、レヴィンと自分の指先が一度に見えるように視野を調整する。
「レヴィン、ここに〈玄耀〉を作ってくれる?」
シルティの呼び掛けに応え、レヴィンが魔法『珀晶生成』を行使した。伸ばした指の先に、鎌型ナイフ〈玄耀〉を模した鋭い珀晶が出現する。
「ありがとっ」
完成したシルティの精霊の目は、レヴィンの行使した『珀晶生成』の流れを曖昧に捉えていた。
視界を効果範囲とする重竜の魔法『視経制圧』と同様に、眼球を起点として濃密な生命力が注視点まで飛ぶ。物質を生み出す森人の魔法『光耀焼結』と同様に、生命力が望みどおりの形状を象る。そうして、最後に珀晶が生み出されるのだ。
……多分。
「いやー……改めて、すっごいなぁ……」
シルティは重竜の『視経制圧』を形相切断で切開することができた。生命力が注視点まで飛ぶ速度が、シルティの剣閃より遥かに鈍かったからだ。
シルティはマルリルやエアルリンの『光耀焼結』を目視し、霧白鉄が創出される前に、創出しようとしている形状をはっきりと把握することができる。生命力が形状を象るまでにも、象ってから物質化するまでにも、充分すぎるほどの猶予があるからだ。やろうと思えばその過程を形相切断で斬り、創出を不発に終わらせることもできるだろう。
だが、琥珀豹の『珀晶生成』は……正直に言って、斬れる気がしない。
生命力が注視点へ飛び、任意の形状を象って、具現化される。一連の流れの完遂にかかる時間が、瞬き一つ分より遥かに遥かに短いのだ。もちろん、生成された珀晶自体を斬ることは簡単だが、今のシルティがどれだけ速く刃を振るっても魔法の経路そのものを斬るのは難しいだろう。
(やばいなー、レヴィン。ほんと速すぎる。やばいなー……んふふふ……)
頼もしい妹を誇らしく思いながら、シルティは目を開けた。生成された後の珀晶は精霊の目では捉えられない。今のところは単なる物質であり、生命力が介在していないからだ。
逆説的に、精霊の目で捉えられる珀晶を生成できるようになったならば、それは珀晶に遠隔の強化が乗り始めたということでもある。
琥珀豹や多尾猫のように、遠隔という性質を根本的に内包しつつ、自身の思考や想像が深く関わる魔法を宿している場合、習熟度や条件によっては距離を超越し得るのだ。マルリルは過去に二度、琥珀豹を狩るチームに参加したことがあるというが、二度目の琥珀豹は確実に珀晶を生命力で強化していたと語ってくれた。
野生の琥珀豹ですら至れる領域なのだから、勤勉な天才であるレヴィンが至らないわけがない、と姉馬鹿は信じている。
とはいえ、さすがにまだまだ先の話だろう。
(レヴィンの前足とかを模した珀晶で、なんかこういろいろと小細工したら、遠隔の強化の感覚を掴むのに役立ったりしないかな……?)
シルティは妹の訓練計画をほんのりと思案したが、遠隔の強化に関しては自分自身でも未習得の状態なのだ。どんな訓練方法が適しているのかわからない。鬣鱗猪の飛鱗は例外中の例外である。
いずれ二人で、ああでもないこうでもないと仲良く試行錯誤しよう。それもまた楽しそうだ、とシルティは微笑んだ。
とりあえず今は喉の構築が優先である。シルティはレヴィンが模造してくれた〈玄耀〉の位置と角度を肉眼でしっかりと確認し、指先を伸ばして切先に触れた。充分すぎるほどの鋭さだ。これなら問題ない。
頤を上げて細い喉を露わにし、模造〈玄耀〉の切先を当てる。ゆっくり空気を吸い込み、肺腑を膨らませたあと、喉を押し込んだ。
ぞぷり。
「ん、ぁ、っぷぇ……」
鎌型ナイフの細く鋭利な切先がシルティの喉へ潜り込み、声帯を正確に損傷させる。傷口からぷつぷつと血の珠が膨らみ、やがてつうっと垂れた。深い谷底を流れて鳩尾と臍を通り、下腹部と内腿を伝って浴室の床を赤く染める。といっても、太い血管はしっかり避けたうえ、差し込んだ刃も抜いていないので、出血量は極僅かだ。
(よし)
喉元から血を垂れ流しながら、両手で耳をしっかりと塞ぐ。生命力を喉に集中させ、意図的に再生を促進させる。入浴しながらそれを眺めるレヴィンの目には、シルティの喉元が鮮烈な虹色の揺らめきを孕んでいるように見えた。
傷口に異物が入り込んだ状態で再生を促進させると、異物を吐き出すように肉が盛り上がって再生されるのだが、今のシルティは意図的に珀晶の刃を体内に留めようとしている。当然、上手く再生されるはずもない。膨大な生命力は身体の内で無為に渦を巻き、煮え滾った。
さらにそのまま、五日間の言語学習で記憶した定型文を諳んずる。
「こんにちは、ウンディーネさん」
喉の穴から空気が漏れ出し、滲む血液がこぽりこぽりと泡を孕む。空気が妙なところから逃げているし、声帯がぱっくりと分断されているので、肉声としてはほとんど成立していないだろう。これなら耳を塞ぐ必要もないかもしれないが、シルティは一応耳を塞ぎ続けた。
「あなたはうつくしいです」
ついでに、目も閉じる。その方が自らの生命力に集中できる気がしたのだ。
「わたしとおはなししません……けっぷ、っひ、ゲッホゲホげふッ!!」
噎せた。
空気が足りなくなって息を吸い込んだところ、血が肺腑に入り込んだのだ。さすがに喉に刃が刺さった状態で吸気するのは難しい。戦闘中ならばこの程度は興奮で黙殺できるのだが。
「けふっ。けっへ。ん、んンッ!」
咳き込んだ勢いで傷口が広げられ、くぱりと開いた割れ目を曝け出す。
シルティは落ち着いて刃を抜き、喉を再生させる。わざと咳き込んで血を吐き出し、一部をごくりと飲み込んだ。口から取り込みさえすれば、魔法『完全摂食』は自分の血液だろうと生命力に変換してくれる。
傷口をしっかり塞ぎ、呼吸を落ち着かせたあと、シルティは嬉しそうに笑った。
「……手応えあった! ような気がする!」
両拳をぐっと握り締める。
霊覚器構築の際は、物理的刺激と超常的刺激を混在させて知覚することで、該当の感覚に生命力への感受性を紐付けし易い。朱璃を用いる精霊の耳の構築はまさしくこれである。また精霊の目の構築に関しても、嚼人の間では『目を刳り貫いて朱璃を注いで生命力をぶち込む』という手段がとても有効だとされていた。
ただし、これは嚼人以外の人類種の間ではあまり一般的ではない手段のようである。嚼人に比べると再生力に劣るためだろう。
森人のマルリルもこの手法と有効性を知らなかったため、かつてシルティが同様のことを言い出した際はドン引きしていた。
しかし、耳と目では有効だった朱璃を用いる手法も、残念ながら精霊の喉についてはあまり意味がないらしい。
マルリルもシルティも知らぬことだが、過去にはシルティ以外にも似たようなことを考える者が何人も存在した。彼らは自らの身を以てそれを実践したが、残念ながら誤差の域を超える有意な差は見られなかった、という記録を残しているのだ。
これは、耳と目は受け取る器官だが、喉は発する器官であるためではないか、と考えられている。
朱璃を使った耳や目の構築は、朱璃を凝固させて生命力の導通を確保し、他者の生命力を注ぎ込むという流れだ。つまり、他者の生命力を受け取らせながら、他者の生命力を受け取る感覚の確立を目指す。これは実に理に適っている。
一方で喉は発する器官。
喉に朱璃を凝固させ、他者の生命力を受け取らせながら、自分の生命力を発する感覚の確立を目指すというのは、あまり理に適った方法とは言えないだろう。
翻って、今のシルティのやり方はどうか。
少なくとも、朱璃を使った方法のように他者の生命力は介在しない。外部から虹色の揺らめきが観測できるほどの密度で生命力を集中させ、声帯の再生と破壊を持続させながら、精霊言語を発声する感覚の確立を目指すのだ。
絶対に無意味だと頭から断言できるほどに荒唐無稽な手法ではない。……かもしれない。
「ふふふふふ……」
まあ、効果の程はともかくとして。
喉を傷付けるという行為が齎す痛覚は、シルティのモチベーションに直結した。
シルティは喜々として喉に刃物を入れ、耳を塞いで目を閉じ、排水溝を血で真っ赤に染め上げながら声を出し続ける。
「わたしはあなたとなかよくなりた……」
その日、シルティは昼過ぎから夕暮れまで、ずっと喉を切開し続けた。
が、残念ながら精霊の喉を確立することはできなかった。




