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いったい今年でいくつだっけ?

作者: 戦場太郎

「君さあ、一体今年でいくつだっけ?」

「さ……三十二です」

 大柄な男が、うわずった声で答えてた。でっぷりふくれた頬肉がけいれんしてて、まるで何かの動物のように見える。

「三十二歳ねえ。あのさあ、三十二ったらさ、こんなところで泣き言言ってるような歳じゃないでしょ。君今年で何年目?」

「十年……十年です」

「へえ、じゃあ新卒でストレートで入ったんだ。エリートじゃん。賢いじゃん。それなのになんでこんなとこで泣いてんの? おかしいでしょ? 君の同期とか、もうちゃんと部下を持ってさ、いろんなプロジェクト任されたりしてるじゃん」

 男の目尻から涙が流れ出して、あっという間に頬肉をぬらしてた。鼻水も垂れ流してるから、ズルズル言ってうっとうしいことこの上ない。

「ぞれは……それは……」

「事務室のガラス、壊したからでしょ? それぐらいわかってるよね?」

「はい……はい……」

 この大柄なバカは、三十二にもなって、事務室の窓ガラスをたたき割りやがったのだ。直前、チームを組んでいた若手に説教されてるところを、みんなが目撃していたから、おおかたそれが原因だろう。

「かんしゃくを起こしてやっちゃったわけだ。三十二にもなって」

「仕方ないんです! あいつが……アイツが僕をプロジェクトから外すって……!」

 バカが泣き叫ぶ。鼻水や涙がこっちに飛んでこないか、心配で仕方ない。

「何、人のせいにすんの? いい大人なのに?」

「か、課長はアイツの評判を知っててそんなことを言うんですか!」

「知ってるけど、それとこれとは別の話でしょ。君さあ、外されるって話をされる前に、ちゃんとベストを尽くした? 結果が出なくてもさあ、がんばってる姿が見られればさ、誰もプロジェクトから外そうとなんかしないって。はっきり言うけどさ、君に落ち度があると思うよ」

 べつにきついことを言ってるつもりじゃあない。事実だ。このバカは入社十年経っても、部下を持つわけでもなく、ただのんべんだらりと会社に来て帰ってるだけだ。そんな奴にプロジェクトをやらせるなんて、俺だって嫌だ。

「……そう、ですか。僕はいらない人間なんですね」

「ま、現時点ではね」

 本音を言えば、その通りだと力説してやりたかった。おまえなんかいらないからさっさと身支度して出てけ、と言ってやりたかった。でも俺はそうしない。曲がりなりにもこいつは俺の部下で、やめられると俺の評定に響くからだ。どうしようもない愚図であっても、放逐するにはそれなりのリスクを取らなきゃならない。

「そう、現時点では、だ。問題は君がこれからどうするかでさ……」

「辞めます」

「は?」

「仕事……辞めます」

 どうせこうなるだろうとは思ってた。キレて物を壊すようなバカは、何かあればすぐこういうことを言い出す。

「あのさあ、それじゃ問題は解決しないんだって」

「僕が辞めればいいじゃないですか! 僕は仕事が出来なくて根暗で、ろくにコミュニケーションも取れないんだから、いなくなった方がいいに決まってる!」

 そうだよ、その通りだよ。でも俺がそう言えないってわかってるだろ、クソが。曲がりなりにも俺は課長で、おまえは部下だ。おまえなんか死んでしまえ、なんて今のご時世に言ったらどうなる? 即、破滅だ。

「そんなことは無い。悲観的に考えすぎだ」

「みんなそう思ってる! 僕なんか辞めればいいって思ってる! 僕だってそうだよ! 僕なんか辞めてしまえば良いと思ってるんだ!」

 隣の部屋に聞こえるぐらいの大声で叫ばれると、聞いてる方だっていらいらしてくる。でも俺は上司だから、表面上は平静を装ってなきゃいけないし、こんなバカでもコントロールしてやらなきゃいけない。

「ああ、そうかもしれない。でもさ、君自身は……本気で辞めたいと思ってるわけじゃない。違う?」

「……」

 そりゃ、そうだ。会社を辞めて次がある保証なんかない。誰だって、辞めずに状況を改善できるなら、そっちの方がいい。

「今の君はさ、いろいろあって取り乱してるんだよ。有休、何日残ってたっけ?」

「……十三日です」

「今日は午後はもういいから、半休取って、よく考えておいで。明日、また話をしよう。来られる? 大丈夫?」

「……はい」

 半休と言わず、百年ぐらい休みを取って欲しかった。でも、そういうわけにはいかない。俺は上司で、こいつを教育する義務がある。そう言うものだ。社会とはそうやって回っていくものなのだ。

 


 バカの面談にだって時間はかかる。バカの愚痴につきあっている時間は、当然仕事は進まない。俺は管理職で、毎日そこそこの仕事を抱えていて、少しイレギュラーな事が起これば、すぐ何時間も残業するハメになる。まあ、残業代は出ないんだけど。管理職だから。

「じゃ、俺は今日は上がるわ。おまえらも早めに帰れよ」

「お疲れ様でした」

 そんなやりとりをして、会社を出たのは、夜の十時を過ぎていた。普段ならあと二時間ぐらいは早く帰れるが、今日は仕方なかった。

 バカが問題を起こさなければ良かった。仕事中、その考えはずーっと頭の中に残ってた。可能ならアイツに最大限の苦しみを与えた上で殺してやりたいが、俺は社会人なのでそういうわけにもいかない。

 もちろん、帰りの電車の中でだって、その考えは頭の中を巡ってた。何でも無い状態ですらやたらと不快だってのに、あいにく電車は満員で、すぐ隣に腋臭のデブが乗り込んでくる始末だった。

 長い人生だ、こういう日もある。そう考え続けることでやっと、俺は電車を乗り切った。駅前のコンビニでビールを買って、気晴らし代わりに一気に飲み干す。残念ながら、大してうまくなかった。



 家に帰る頃には、もう日付が変わりそうな時間になっていた。酒の入った体で、アパートの階段を駆け上がり、我が家の前にたどり着く。築二十年の家族用アパート。ローンで買ったは良いが、いざ住み始めると良くない点ばかりが目につくようになった、平均的な都会人の住宅だ。

「ただいま」

 鍵を開けて家に入る。リビングから銃撃戦の音がする。まだ息子が起きていて、ゲームをやっているのだ。

「……まだ起きてたのか。母さんはどうした?」

「帰ってきてない」

 ぶっきらぼうな答えだった。こっちを向こうともせずに、テレビの中の敵を撃ち殺すのに夢中だ。

ケータイを取りだしてメールを確認するが、嫁から「遅くなる」との連絡は無い。

ようやく忘れかけていた怒りが、ふつふつと沸き立つのを感じた。

 バカな部下に悩まされ、満員電車に揺られて帰ってくれば、愛想のない子供と連絡一つよこさない妻だ。怒鳴り散らしたくもなる。

 でも、俺はそうしない。俺は社会人で、良き夫で、父親だからだ。腹の中で沸き立つ怒りを抑え、スーツの上着を脱ぐ。

「晩飯は? 食べたのか?」

「食べた」

「宿題はちゃんとやったのか?」

「……」

 息子は答えなかった。どうせ、そんなこったろうと思っていた。ちょっと前の誕生日で、十歳になったこいつに、俺はあろう事か、ゲーム機を買い与えてしまった。それからという物、暇さえあればこいつはゲームばかりしている。育て方を間違えたのかもしれない。

「なあ、聞いてるのか? 宿題は?」

「うるさいなあ、やったよ」

「おい! こら! 親に向かってその口の利き方はなんだ!」

 思わず怒鳴っていた。仕方なかった。ありとあらゆる身の回りのことを俺の金に頼っている息子が、「うるさい」と反抗するのだ。直後に後悔したが、時には強い態度に出ることも必要だと思い直した。

「遅くなるって連絡も入れない人間の、どこが親だよ」

 息子はこっちを向きもしなかった。相変わらずゲームに熱中している様子で、俺を完全に無視しようとしていた。それは明らかな敵対行為だった。親である俺を馬鹿にして、子供を持つ資格などないとあざけったのだ。

 そういう年頃なんだろう。そんなことはわかっていた。だけど、わかってたからどうだというんだ? 目の前にいる、ふてくされて反抗するガキをどうにかしようってときに、それがわかってるかどうかなんて、一体どれだけ関係あるってんだ?

「おい! 誰に食わせてもらってると思ってるんだ! ああ!?」

 気がついたときにはもう、ゲーム機を踏みつぶしていた。テレビ画面がブラックアウトして、うっすら、俺と息子の姿を反射する。

「おまえな! 父さんだってな、失敗することはあるんだよ! 常々完璧な父親じゃいられないんだよ! おまえもいい加減物心ついてきた年頃なんだから、それぐらい理解しろ!」

「だったら子供にだって完璧求めんなよ! 宿題しなくたっていいだろ! ゲームやってたっていいだろ! お互い完璧じゃないんだから、それで十分じゃねえか、クソオヤジ!」

「なめたことぬかすな、クソガキが!」

 言い争ってる時間は短かった。その後すぐ、俺は拳で息子の顔面を殴っていた。力の加減はしなかった。息子の前歯が拳にめり込んで、俺の手の肉をいくらかえぐっていった。

 息子は吹っ飛んで、リビングの壁に頭からぶつかった。

鈍い音がして、一瞬、息子がうなだれた。

やっちまったと思った。子供を殺してしまったと思った。

でも、幸いなことに、息子はすぐ起き上がった。カッと目を見開いて、信じられない、と言った様子で、こっちを見ていた。鼻血が流れて、口の周りは真っ赤になっている。前歯がすっかり折れていて、俺が見ている間に、ぽろりと床の上に落ちていった。

息子の前歯がえぐったところから、どくどくと血が出始めた。

背筋が寒くなった、何が起こるか想像して、怖くなったのだ。

「う……ああああああああああああああああっ……!」

 俺がひるんでいる間に、息子は泣き叫びながら、玄関へ走っていった。すぐ、ドアが開き、閉まる音がした。

 息子は逃げ出したのだ。俺という外敵から身を守るために。

 それは仕方ないことだった。誰だって、自分よりでかい奴に、いきなりぶん殴られたら、逃げ出すに決まってる。

 そうだ。仕方の無い事だったのだ。息子が逃げ出したのは。

 俺が息子をぶん殴ったことが、仕方なかったかどうかは、わからんが。



 息子を追おうとは思わなかった。自分がやってしまったことが恐ろしくて、すぐさまアイツを追いかけることが出来なかったのだ。

 俺は息子を殴った。それ自体は、そこまでおかしいことじゃない。だが、俺は本気で殴っていた。前歯をへし折って、殴った側の拳にもダメージが行くようなパンチだ。それを、俺は、息子の顔面にたたき込んでいた。

 激しく後悔した。シャレにならないことをしてしまった。現実は取り返しがつかない。ゲームと違って、リセットはできないのだ。

「……クソッ」

 洗面所で拳を洗った。血で洗面台が真っ赤になってしまった。ずきずきと襲って来る痛みをこらえながら、消毒液を塗りたくり、ガーゼを張って包帯を巻く。それを終えると、急に、後悔に替わって、怒りが沸き立ってきた。

 こんなバカな状況に追い込まれたことに、俺は腹を立てたのだ。

笑い出してしまいそうだった。いや、実際笑ってしまった。今日は、何から何までけちがつく一日だ。

疲れ果ててソファに座ったところで、玄関の扉が開いた。

「ただいま。あれ、今帰ったところ?」

 妻が帰ってきていた。今年で結婚十年目の、最愛の妻。

頬を少し赤くしていて、酒を飲んでいたのは明らかだった。

「……いや」

「どうしたの、その手。何かあった?」

「……殴ったんだよ」

 隠し立てするつもりもなかった。

勘ぐられればすぐにわかることだったからだ。

俺の返答と、疲れ果てた様子から、妻も何があったか察したようだった。

「ど、どうして……?」

「宿題やったのか、って聞いたら、うるさい、って返してきたから、つい」

 無意識のうちに、目がゲーム機に向いていた。踏みつぶされて、哀れにも内部機構を露出させた、気の毒なゲーム機。金を出して買った最新機器も、今や置物にすらならない有様だ。

「そんなことで?」

「親に向かって、うるさい、だぞ?」

「子供には良くあることでしょ! たったそれだけで、自分もケガするぐらい殴りつけるなんて……それで、どうしたの?」

「外に逃げていった」

「どうして追わなかったの!」

「殴りつけといて追っかけられるか!」

「それでも父親なの!?」

「おまえが言えた義理か! ろくに連絡も入れず、酒飲んで帰って来やがって! ああ!? それでも母親か! 妻か! なんとか言えよ!」

 疲れ切っていたわりに、俺の動きは素早かった。すっくと立ち上がって、力任せに妻の髪の毛をつかみ上げた。甲高い悲鳴が聞こえても、俺はろくに構わなかった。

「痛い、やめてよ!」

「なんか文句あるのかよ! 父親が子供を殴るなんて良くある話だろうが! 非難がましく言うな、バカ女が! 気に入らないならおまえが探しに行けよ! 行きゃあいいだろ! けなげな母親面してさあ、さっさと探しに行けよ! ボケが!」

 数回、妻の頭を揺さぶって、壁めがけて突き飛ばしてやった。

 よろめいた妻が背中から壁に倒れ込んだ。

 心臓がバクバク鳴っていた。ちょっとした言い争いだったはずなのに、気がつけばこの有様だった。一体自分が何をやっているのか、不思議でしょうがなかった。

「あなた……最低。死ね! 死んじまえ!」

「死ぬさ! 死んでやるよ! その前におまえを殺してからだ! 殺してやる! ぶっ殺してやる、クソッタレ!」

「来るな、クソ野郎! 来るな! 来るなッ!」

「待ちやがれ、クソアマ! 待て! 待てっつってんだろうが、こら!」

 金切り声を上げながら、妻も俺から逃げていった。玄関のドアを開けて、階段を駆け下りるところまでは追いかけたが、そこから先はどうする気にもなれなかった。

 

 

 一睡も出来なかった。頭がガンガン痛むし、全身に倦怠感が襲ってきていて、とても仕事に行けそうになかった。

 でも、俺は仕事に行く。それが社会人としてのつとめだから、仕方ない。管理職としてのつとめだから、仕方ない。世の中そう言うものだ。

 ふらふらになりながら電車に乗り込む。どうしても動きが緩慢になって、後ろに並んでいる連中のスムースな乗車を妨げる。申し訳ない、と思う反面、こっちだって疲れてるんだから配慮しろよ、とも思った。

「チッ、さっさと歩けよ」

「今なんつった、おい! こらあ! 誰だ! おい誰だ!」

 乗り込んだ直後に聞こえてきた声に、思わず怒鳴り返す。列車の中の誰一人として、俺の声には応えなかった。誰だってそうする。俺だって立場が違えばそうする。

 トロトロ歩いてるリーマン風のオヤジには、文句の一つも言いたくなる。

 いきなりキレて怒鳴り出すオヤジとは関わりたくない。

「クソッタレが……」

 またしても、誰も答えなかった。静まりかえった電車内に、発車メロディが鳴り響く。満員電車のドアが閉まった。これから小一時間は、これに揺られなきゃいけない。

 他人の体臭や息の臭いを浴びながらも、俺は身動きが取れなかった。動くことが出来ないから、後は考えることしか出来ない。

 息子も、妻も、俺から逃げていった。昨日、出社したときは、こうなるなんて考えもしなかった。毎日毎日満員電車に揺られて、ろくでもない人生だなあ、とかしか考えちゃいなかった。

 でも、妻も息子ももういない。その気になれば探し出すことは出来る。電話で連絡する事だって出来るだろう。

 だが、俺には出来なかった。俺が二人を家から追い出したからだ。二人がどんな風に俺を糾弾するか考えただけで、恐ろしくなった。

 普段通りなら、あんなバカなことにはならなかったはずだ。だけど昨日は、普段通りじゃなかった。クソデブがガラスをたたき割って、俺が説教するハメになったのだ。


 あの野郎のせいだ。そう思った。


 あの野郎が問題を起こさなければ。

俺はこんなバカな状況に追い込まれることもなかったのだ。


 殺してやる。本気でそう思った。


だが、すぐに思い直すことが出来た。

だって、あの野郎がガラスを割ったことと、俺が妻と息子を殴ったこととには、全く関連性がない。

それに、殴ったのは俺だ。あの野郎じゃない。実質的な責任は俺にある。

そう考えて、俺は自分をいさめた。ガンガンに痛む頭の中で、俺が俺を精一杯押さえつけていた。

誰だってそう考える。俺はまともな社会人で、管理職で、夫であり、父親だったから、常識的に振る舞い、常識的に考えることができる。



出社時間はいつもと同じだった、熱心な社員の何人かは、もう仕事を始めている。俺も適当に挨拶をして、自分の席に座った。やれやれと仕事場を見回すと、例のクソデブの姿が見える。俺が出勤したことを確認したデブは、所在なさげに立ち上がって、重い足取りでこっちに近づいてきた。

「あの、課長、昨日の……」

「わかってる。会議室、行こうか」

 出社の疲れが抜ける間もなく、俺はデブと連れだって、すぐ隣の会議室に移動した。社員連中が、興味深そうな視線でこっちを見ている。

 心配しなくても、おまえらが気にしなきゃならないようなことは起こらない。そう言ってやりたかった。

「……で、どう? 一晩考えて」

 会議室の椅子に、向き合って座る。俺が疲れ果てている事は、デブにもよくわかっている様子だった。何かを口に出そうとして、何度も何度も、ため息をついている。要するに、こいつはろくでもないことを考えついて、それを俺に言おうとしてるってわけだ。

「あの……ええと……」

「何? 何なの? はっきり言って」

「……やっぱり、辞めます」

「は?」

「僕、この仕事向いてないです。みんなとも折り合いがつかないし……次のアテは決まってないけど、その、やっぱり僕はいらない人間だし……」

「いやさ、昨日言ったこと忘れたの? 君が辞めても何の解決にもならないんだよ? 君は今のまま再就職戦線に放り出されるわけだしさ、こっちとしてもすごくマイナスなんだよ。君だって俺の部下の一人だからさ、ぶっちゃけ辞められると困るんだよ。俺の評定下がるし、みんなに説明するのだってすげえ面倒だしさ」

「そんなことわかってます。わかった上で僕はこの結論を……」

「わかってねえよ! クソデブ!」

 気がつけば怒鳴っていた。反射的だった。

 こいつのクソみたいな言い訳につきあわされるのは、ごめんだった。

「わかってますよ! 僕にだって考える頭が……」

「考える頭のある奴が! キレてガラス割ったりするか!」

「じゃああんたはなんなんですか! 部下を持った管理職が、疲れてるからってキレて怒鳴り散らして良いんですか!」

「ああ!? ふざけてんのか、このクソ野郎!」

 デブの胸ぐらをつかみ上げ、一気に引き寄せた。

 顔と顔がぶつかりそうなくらい、近寄る。

 クソデブの体臭も、息の臭いも、全部わかった。

すべてがあまりに不快で、どうしようもなかった。

「ぼ、暴力を振るう気か!」

「暴力!? 暴力だと!? 暴力ってのはなあ! こういうものを言うんだよぉ!」

 朝の疲れなんか、嘘のようだった。

心臓が鼓動を早め、全身に血液を供給。

体内のあらゆる器官が臨戦態勢に入る。

殺せ。俺の肉体すべてが、そう言っていた。

 俺は右拳を限界まで握りしめ、大きく振りかぶった後、デブの顔面めがけて、全力のパンチを繰り出した。

 ガツンという音がした。鼻をへし折った感触がした。

 息子を殴ったときの傷が開いた気がしたが、もうどうでも良かった。

「ふぎっ……!?」

「一丁前に理屈ばっかりこねてる暇があったら、ちっとはマトモに仕事しろよ! 俺の手を患わせんな! 恥ずかしいと思わないのか!? ああ!? 三十二歳だろ! 三十二歳だろうが! 入社して十年も経った大人が! 泣きわめいてんじゃねえ!」

 俺は、倒れたデブに馬乗りになって、顔面を激しく殴りつけていた。デブも必死に抵抗するが、俺の方が強かった。何発もの拳が顔面にめり込んで、瞬く間にデブの顔は血塗れになった。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 僕が悪かったです! 仕事辞めません! 許して! 許してください!」

「許すわけがねえ! てめえみてえなクズなんか、誰も許しやしねえ! てめえがバカな事をしでかしたおかげで、俺は何もかも破滅なんだよ! 許すか! 絶対許すか! 神が許しても俺は絶対許さねえ!」

 俺は立ち上がり、無防備なデブの腹に、何発もケリを入れた。一発ブチ込むたびに、どこかの骨が砕ける音がして、デブが嗚咽した。

「死ね! 死んじまえ、クソ野郎! 十年だぞ! 十年前の俺は! もっとマトモで、ちゃんと仕事してたんだよ! 結婚して! 子供作って! しっかり仕事してたってのに! 十年! ちゃんとやってきたってのに! てめえは! てめえはぁ!」

 さっきまで座っていたパイプ椅子を持ち出して、俺はデブの頭を殴りつけた。最初の数発は、デブも叫んで抵抗したが、それからすぐ、デブの叫び声はしなくなった。

「死ね! 死ねえ! 死ねええええ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死にやがれ! 死にさらせ! 死ね死ね死ね死ね死ね! 死ぃぃぃぃぃぃぃねぇぇぇぇぇ!」

 パイプ椅子がとうとう、デブの頭蓋骨をかち割ったところで、俺はようやく、手を止めた。カーペットの上に、デブの血と脳漿が飛び散っていた。

 俺の手も、すっかり血にまみれていた。自分の血か、デブの血か、定かではなかったが、どっちでも良いことだった。

「か、課長! どうしたんですか!?」

 叫び声を聞いたからか、社員達が会議室に駆け込んできた。

 それでもって、地べたに横たわって死んでいるデブと、血塗れの俺を見て、文字通り絶句していた。

「どうした、って……」

 俺はやれやれと、天を仰ごうとした。つきものが落ちた気分だった。

視界に入ってきたのは、血飛沫が少し飛び散った、灰色の天井だった。

「終わったんだよ」


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