後編
◆
出来たばかりの手書きの第一稿を、今は本郷が読んでいた。手書き故に回し読みするしかなかったが、ちょうど風見と結城が読み終わったところに本郷がやってきたのだ。
窓の外には闇が降りはじめていた。
「面白かった! 面白かったッスよ!」
いつになく興奮気味なのは結城だった。一文字の脚本がいたく気に入ったらしい。風見もそれに同意した。
「うん、おれも好きだな。素直にいい話だ」
新作は路上シンガーと高校生の人間ドラマだ。いつもの通学路、夜になるとギターを弾いている路上シンガー。主人公の高校生はどこか冷めた目でそれを見つめていた。しかし、とあるきっかけから二人は関わり合うようになり、その関係は少しずつかけがえのないものになっていく。大きな山場はないが、心に響くような作品になればいい。
ロケは必要になるが、余分な予算は必要ない。はじめから結城と本郷のダブル主演を想定した脚本だし、他のキャストも部内だけで足りるだろう。本郷がギターを弾けることも一文字は知っていた。そもそも、たとえ弾けなくとも弾けるように練習してくるような人物だ。
短編で約三十分の想定。
「正直『拳銃嫌い』みたいなの持ってこられたらどうしようかと思いましたけど」
「あれ見たのかよ……まだ叩き台だけどな」
はにかみながらも、一文字はまだ緊張の面持ちを崩さなかった。
そう、問題は本郷だ。彼女が撮りたいと思えない脚本ならば、どんな称賛も意味をなさない。
まだ第一稿。さすがにいきなり最終稿になるとは思わないが、まずは監督に認められなくては話にならない。
本郷は難しい顔のまま脚本を読み進めている。
一文字の緊張を感じ取ってか、風見と結城もまた固唾を呑んで本郷の反応を待った。
――やがて、本郷は口を開いた。
「面白い」
結城と風見はほっとしたように顔を見合わせる。一文字も少し気が抜けたようで、ようやく息をついた。
「映研としても現実的だ。主役もおおむね決まったようなものだし、これまでに比べれば困難も少ないだろう」
「ですよねえ! 私マジでギャング役でアクションまでさせられるかもって気が気じゃなかったんですけどぉ!」
「いやいや、あれはもう書かないでしょ」
雰囲気を戻すように結城と風見が騒ぎ出す。すっかり安心した様子だ。
険しい顔つきなのは本郷だけだった。
「一文字」
本郷は低く、男の名を呼んだ。やや怯えたように一文字は応えた。
「な、なんだよ」
「これ、書いてて楽しかったか」
何を言っているのか、とばかりに、一文字はきょとんと本郷を見返した。そしてそれ以上に、返答に窮している自分に驚いて、沈黙してしまう。
「そりゃあ、まあな」
やっとのことで返した言葉は、自分でも信じられないほどそらぞらしかった。
射止めるような本郷の視線。
やがて彼女は席を立ち、彼の大学ノートを握ったまま、部室を出ていった。
「お、おい!」
「どうしたんだ、ノブ」
わけもわからず一文字は呆然と自問する。
――俺はまた何か間違えたか? 何かが気に入らなかった? 今度こそ本郷にとっても納得いく映画が撮れるはずだ。
当惑していた結城は、唐突に何かを思いついたように目を見開き、真っ青な顔になって叫んだ。
「追いかけましょう!」
唐突にそれだけ言い残して、結城は部室を飛び出していった。しかし、残された二人はわけもわからず、扉を見つめるしかできない。
「……どうした?」
「あっ」
ふと窓の外を覗いた風見が声をあげる。一文字もまたその視線を追った。
そして、その姿を見つけた。サークル棟の裏手、駐車場近くの闇に浮かび上がる黄色いキャップ。その手に持っているのは、一文字の大学ノートと――火のついたライター。
二人は青ざめた顔を見合わせた。
「ノブ! やめろ!」
窓を開けて叫んだのは風見。矢も楯もたまらずその横をすり抜け、一文字は窓から部室を飛び出した。風見も慌ててその後に続く。
夏のはじまりの生暖かい風が、阻むように身体に吹きつける。
夜にかがやく小さな光は、やがて大きくなって、線香花火のようにコンクリートに落ちた。
駆け寄る。すぐに消せばまだなんとかなる。
だが、その前に本郷が立ちふさがった。
怒りと混乱のまま、一文字は叫んだ。
「何やってんだテメエ――!」
「おまえこそ何がしたい、一文字!」
呼応するように、憤りをはらんだ声が響き渡る。本郷は歯を剥き出し、怒りのままに一文字を睨みつけた。
一文字の足が止まる。
もう脚本のことはいい。
彼女を問い質さねば気が済まない。
「面白いって言ったじゃねえかよ……!」
拳を握りしめる。あの時、本当に安堵した。ようやく本郷に認めてもらえたと思ったのだ。
「ああ、確かに面白い脚本だったさ。撮影のことを考えても現実的だし、観客も絞っている。万人受けを狙わず、サークルのメンバーの好みを考えた上で、うまく取捨選択されていた。本当に腕を上げたよ、おまえは」
怒気を収めようともせず本郷は声を荒げ、なぜか一文字を称賛した。
彼女の背後では脚本がいよいよ炎をあげようとしている。もうどうでもよかった。
皮肉げに笑って、本郷は一文字に問うた。
「聞くがな。この映画を、私が撮る必要はあるのか?」
「――は?」
一文字は瞠目した。
何を言ってる? この脚本は、本郷に撮ってもらうために書いたのだ。
他の誰でもない。
それを口にする前に、本郷が遮る。
「よくできた脚本だ。まるで完成品だよ。はじめから削るべき部分を削って、できないことはやらない。試行錯誤も最小限で済むだろうさ。――なあ、一文字。この作品、本当に書いていて楽しかったのか? この脚本を、本当に私が映画にすべきなのか?」
――それでようやく、一文字は彼女の怒りを理解した。
まるで見捨てられた子供のような、悲しみをはらんだ本郷の顔が全てだった。
一文字は決して悪い脚本は書かなかった。それは本郷も認めている。
ただ、器用が過ぎた。
「せんぱ――」
真っ先に彼女を追いかけた結城は、しかしなかなか本郷の姿を見つけられなかったのだろう。ようやくやってきたところで、けれどただならぬ空気に沈黙した。一文字の後ろにいる風見もまた、息を呑んで立ちすくむばかりだ。
「おまえがプロを目指していることくらい知ってる。あるいはプロには、こういう器用さも時に必要なんだろうさ」
涙を堪えるように、本郷の声が震える。
「だから腹立たしいんだ。誰もが認める良い脚本。私を仕事相手としてしか見ていない脚本。私と話し合うことをはじめから拒否した脚本。――おまえ自身が楽しくともなんともない脚本!」
しかし彼女は泣かなかった。それ以上の怒りで一文字さえ焼き尽くそうとしているかのように。
「こんなものは燃やしてフォークダンスでも踊った方がよほどエンタメだ! 楽しむために産まれてきたんだろう! 娯楽に取り憑かれて生きてきた私たちには初めからそれ以外の処方がないんだ! 自分を殺して楽しませようなんて驕りはやめろ!」
おじけもせず本郷は一文字に歩み寄る。それは、有り体に言えばわがままだった。一文字を同志として信頼するがゆえの。
「もっと自分に甘くなれ! そして仲間に甘えろ! 甘々のアマチュアなんだよ、おまえは! それが許される場所にいるんだよ、おまえは!」
それは、本郷にとって、ひどく特別なことなのだと、この場にいる皆にはわかった。
一文字は眼前まで迫った本郷を前に一歩も退かぬまま、彼女の怒りを受けいれる。もともとあまり背が高くない一文字と並ぶと、本郷は少しだけ目線が高かった。
ただ、炎が音を立てるのを聴いていた。彼女の背後の光がまぶしかった。
「右手を出せ、一文字」
理由はわからなかったが、一文字は従った。
そして。
その右手を同じ右手で取り、そのまま本郷は一文字の背後にまわった。
本郷を除き、この場にいる全員の脳裏に「?」マークが浮かんだ。
一文字の右手は本郷のそれと繋がれたまま彼の右肩に。左隣に並んだ本郷は、同じく彼の左手を取る。
本郷を除き、この場にいる全員の脳裏で電球が光をはなった。
あっ。わかった。
こいつ、本当にフォークダンスしようとしている。
「ちゃーららーららーららっ、ちゃーららーららーららっ」
歌い出す本郷。踊り出す本郷。そう、オクラホマミキサーである。
ふざけているわけではない。歌声は未だ怒気に満ちている。
本気で激怒しながら、本気で踊っている。それがエンタメなのだと信じて。
「ぶふぉ」
一文字の耳に、風見が思いきり吹き出した声が入ってくる。
それを皮切りに、沈静化していた一文字の怒りが突如として激しくスタンピードした。
「なんで俺が女子側なんじゃあああああああッ!」
本郷の手を振りほどき、一文字は悪鬼のごとき形相で彼女に掴みかかった。
「文句があるなら口で言えやゴラァァァ! 俺のホンを燃やすなあああああッ!」
負けじと本郷も掴み返す。だが両者インドアの精神と肉体が本気の暴力に歯止めをかける。結果、服を引っ張り合う。まるで子供の喧嘩だ。
「うるさい、私に一言も相談しなかったのはどこのどいつだッ! おまえが勝手に暴走したんだ!」
「第一稿だっつってんだろうが! 監督に直せって言われれば直すわ! 何が暴走だ、お前だけは死んでも言うなッ!」
「あーッ、ちょ、ちょっと! こらーッ! 女の子の髪引っ張っちゃダメ! 男の子の股間蹴っちゃダメ!」
ようやく凍結状態から解凍された結城が慌てて駆け寄るが、もはや止まらない。地面に倒れ込み、二人して泥のように転げ回る。
「パイセンも早く止めてよ!」
助けを求めるように結城が叫んだところで、風見は腹を抱えて大爆笑していた。その手にカメラを構えたまま。
「あはははははは! ほ、ほんとに! ほんとに取っ組み合いしてる! あははははは!」
「何笑ってんですかアンタ! 止めなさいよーッ!」
燃え上がる脚本。掴み合う二人。撮影する風見。叫ぶ結城。燃え上がる脚本。
騒ぎを止めたのは、サークル棟に響き渡る火災報知器のけたたましい音だった。
◆
「座れ」
冷たい声で下を指差す後輩に従い、先輩三名は恐縮した顔で部室の床に正座していた。中央に座る本郷の首には「私は脚本を燃やしました」と書かれたボードまで吊るされている。ちなみに燃えないホワイトボードである。
あのあとノートは無事鎮火した。というより、人が集まってきたので慌てて鎮火した。周囲に燃え広がるようなものはなく、幸いなことに消防も出動しなかった。黒焦げの脚本だけは残った。
しかし騒ぎだけは明るみになり、彼らはこってり絞られた。
そして後日、つまり今、後輩が先輩をこってり絞っている。凍りつくような笑顔で。
「執行委員会の人にめっちゃくちゃ怒られました」
「はい」
上級生三名が声を揃える。
「放火同然ボヤ騒ぎです。私たちのような弱小サークルならば廃部になってもおかしくない事件です」
「はい」
「そこで機転をきかせて撮影ってことにし、先方さんの怒りを呆れで中和したのは誰でしょうか」
「可愛い亜梨沙ちゃんです」
上級生三名が声を揃える。が、そこで風見が挙手した。
「あ、ハイ。説得力ができたのはおれがカメラを回してたおかげでもあります」
氷点下スマイルのまま結城は答える。
「火も喧嘩も止めずカメラ回してゲラゲラ笑ってたのは誰でしょうか」
「あ、ハイ。おれです」
風見は手を下ろしてうなだれた。
「その後、社会性のない先輩方に代わり、粗品をもってご迷惑をかけた各方面に頭を下げに行ったのは誰でしょうか」
「可愛い亜梨沙ちゃんです」
上級生三名が声を揃える。
「結果として厳重注意のみでコトが収まったのは、いったい何が理由だったのでしょうか」
「亜梨沙ちゃんが可愛かったためです」
上級生三名が声を揃える。
まったくもってぐうの音も出ないほどの事実であった。あの後、お咎めが軽減されるよう尽力したのは他ならぬ結城亜梨沙その人。先輩がこぞって焼き尽くそうとしたサークルの地位を、入部から一年にも満たない後輩がその身一つで守り抜いたのである。
ふう、とようやく氷の女王が嘆息を漏らす。
「……よろしい。ノブ先輩以外は立ってよし」
「やったー!」
「なんでだ!?」
本郷の抗議をよそに、一文字と風見はようやく開放された。立ち上がろうとする本郷の肩を結城が抑える。
「なんでも何も、一番悪いのはどう考えてもノブ先輩だからです。イッチ先輩はちゃんと脚本を書きました。ド素人の私から見ても面白い脚本です。ノブ先輩は、それを自分が気に入らないからって火をつけたのです。自分のコミュニケーション不足を棚に上げて」
「だって……」
「だってもへちまもないッ!」
本郷はいつになく弱気に縮こまっている。数日経って、さすがに自分の行いを省みる時間もあったのだろう。
「本来ならばサークル追放ものの大罪です。今こうしてなんとなく許されたよーな雰囲気になっているのは、ここにいるみんながノブ先輩のこと大好きだからです。ノブ先輩はそれに甘えているのです。甘々の甘ちゃんです」
「やめろ……恥ずかしくなってきた……」
「許されたくばもっと私を褒めそやしなさい」
「あー、お前は気立てが良いな……」
「もっと愛を込めてッ!」
結城のお説教はまだ続くようだ。一文字と風見はすでに他人事とばかりにその様子を見守った。
結局、一文字は黒焦げのノートを捨てた。そもそも真っ黒でほとんど判読不能だったわけだが、彼にはもはや未練がなかった。どのみち第一稿だったし、必要なら書き直せばいいだけだ。少なくともこのメンバーで、あの映画を撮ることはないだろう。
「……新しいの書くか」
ため息のように吐き出した独り言に、風見が振り返った。
「今から新規で?」
「うん」
「まだ学祭までは全然余裕あるし、間に合うとは思うけど……大丈夫か?」
「まあ、ネタ出しの段階からやり直すと時間はかかるな」
一文字はこの数日、考えていたことがあった。
――甘々のアマチュア、か。
本郷というライバルの存在もあって、脚本を書く時はいつも肩肘を張っていた。誰もそんなことは言っていないのに、傑作を求められている気がしたのだ。自分の力量を見せねばならないと思い込んでいた。その時点で背伸びになっていると気づきもせずに。
自分だけじゃなく、本郷だって成長している。だというのに、彼が戦っていたのはずっと一年の頃の本郷だった。
今ここにいるのは、自分の甘さをも受け止めてくれる友人たちだというのに。
緊張を握りしめた手の中に押し込んで、一文字は切り出した。
「暇なら手伝ってくれないか」
「え、おれ? 書くの?」
驚いた風見が自分を指さす。
「書いてまとめるのは俺がやるよ、もちろん。だから、話を一緒に考えてくれると助かる」
「いいけど……いいの? おれ、そのへんの知識はぜんぜんないけど」
「いいんだよ。話しながらやる方がネタも出やすいし。それに、その方が書いてて面白いんだ。俺が」
一番肝心なことを伝えると、風見は少しだけ逡巡したあと、心底嬉しそうに破顔した。
「……うん、おれでよければ力になるよー」
「それに、ノブとも連携とりながらやりたいしな。さすがに今回のことで懲りた」
未だに正座をさせられている本郷を見やると、その前で仁王立ちしている結城が代わりに深々と頷く。
「ぜひそーしてください。はっきり言いますけど、ノブ先輩とイッチ先輩が意地張らずちゃんと意思疎通してればこんなことにはならなかったんです」
「反省してるよ」
「うるさいな……」
バツが悪そうに俯く本郷に、つい苦笑する。
今日の本郷がやけにおとなしいのは、あの時、色々と一文字に向かって本音を吐き出してしまったことへの後悔なのかもしれなかった。あと、わけのわからないフォークダンス。
いまさら忘れてなどやらない。ことあるごとにネタにしてやる。
「それと、もう一つ思いついたことがあるんだ。映研の奥の手だ」
「奥の手?」
風見が首を傾げる。それを尻目に、一文字は本郷に声をかけた。
「ノブ。俺らが書いてる間ヒマだってんなら、いい編集の仕事があるぞ」
「……なに」
正座のまま、恨みがましい目つきで睨み返す本郷。
一文字は不敵な笑みを返してやる。
「喜べよ。素人映研がやればやるほど痛々しくなる地獄の特典映像――」
「ま、まさか!」
彼女は今にも逃げ出しそうなほど真っ青になった。
「メイキングだ」
数カ月後、学園祭で映研製作の映画が三作品上映された。
一作目は、一年生たちが協力して撮った作品。撮影中に監督と主演が大喧嘩し、奇しくも本郷と一文字の助力によって撮影を無事全うすることができた映画であった。
二作目は、本郷を監督、結城を主演として撮影された短編映画。内容はここでは伏そう。この物語において必要な事実は、試写直後にある男女がハイタッチを交わしていたことのみである。
そして最後の映画は、本郷と風見を監督とした、ドキュメンタリーともメイキングともつかぬ奇妙な映画だった。
風見が遊びで撮り溜めていた映像を編集して作られた、断片的で、自己満足的な、とある四人の男女の記録。
最初のカットに映し出されるのは、暗闇に煌々と燃える炎だった。