自販機の小銭
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自販機の返却口に100円や50円、小銭が入っていたら、それが実際は端金だとしても一日が終わるころに振り返ってみれば確実に自販機で小銭拾ったというのは今日嬉しかったことベスト3には入るだろう。
道端に財布が落ちていたり、鍵、スマホなどが落ちていたら、そこに悪意と呼ばれるものが無い限り、自然な流れで交番に届け出るだろう。しかし、自販機の小銭のように、道端に100円、50円が落ちていたら馬鹿正直に交番には届けず、ラッキーと懐にしまうだろう。
このように、人には無意識の常識のようなものが働いていてその裁量によって人は行動を決定する。
また、人は難しい数学の問題を解いた時や提出物を出した時、大抵は達成感を覚え充実するだろう。しかし、充実というのはいろいろな種類があると私は思う。
例えば、さっきの自販機の小銭のように不意に予想しないところで自分の努力を対価とせずに手に入る充実と提出物を出した時の達成感のように自らの努力を持って得た充実とに充実は分けることができると思う。この二通りの充実は私の主観たっぷりの意見だが、何となく、この二つはそれぞれ得たときに違う感触を持つものと思う。
ここで一つの仮定として、人はそれぞれ一定の充実を一定期間生きている上で得ることができれば自分を不幸ではないと感じるとする。
そして、この二通りの充実を人はまた個人ごとの割合で得ているだろう。勿論同じ人でも、ある月と次の月ではその割合は変わる。その割合は自販機の小銭を得たときの充実のように偶然の充実は自分で図って得ることは難しいのだから(宝くじのように偶然の充実を自ら得ようと働ける場合もある。)、人は努力して得られる必然の充実を一定量得なければいけない。
なお、偶然の充実は一定量しか得られない。日頃から、道端で運よく100円などを拾える人はまた100円が落ちていたのを見つけて拾ったとしても本当にたまにしか拾えない結果的に運のない人よりも充実は味わえない。更に、切り株にたまたま兎が衝突して死んで食料が偶然手に入った農家がそこからひたすらに狸の皮算用をして農作業もせずに待ちぼうけをして笑われる話があるように偶然の充実だけを求めていると却って充実を得られなくなることになってしまう。
だが、必然の充実ばかりでもつまらない。勤勉な人はつまらくないかもしれないが、私はつまらない。よって、一部の人にしか当てはまらないことは必定だが、偶然の充実と必然の充実にも適正な割合の範囲があるかもしれない。もし、あるとすれば、得ようとして得られるものではない偶然の充実をどうやって手に入れられるのだろうか。
それには次善の考えがある。それは陳腐だが行動することだろう。自販機の小銭を拾うには自販機の返却口に手を突っ込む必要がある。当たり前だが、自販機の返却口の中に小銭があるかのみを探しに自販機を練り歩くことを行動とはしていない。また、行動とは外に出て歩きましょうとアウトドア派なことを言っている訳でもない。ネットサーフィンをしたり、漫画を読み漁ったり、本を読むこと、テレビを見ること、電子工作をすること、ガチャを引くことなんでもありだ。小説の一節に、たまたまくすっと笑ってしまうところを見つけたりすることだって偶然の充実だ。
読んでいてわかったかもしれないが、必然の充実を求める行動にも副産物として偶然の充実が発生する。自販機の返却口を漁るように偶然の充実を求めて、それで小銭を見つけたとしてもそれはもはや必然の充実だろう。ただ宝くじを買って偶然の充実を待ち続けるよりか何か行動するほうがよっぽど充実の生産性は高いことは明瞭だ。
ただ、宝くじを買うことは、当たることも当然嬉しいに決まっているのだが、わくわくしながら宝くじを買うこと自体に充実を感じることはできる。それは旅行にも言えることだろう。目的地に着いて楽しむこともこれまた楽しいことだとは思うが、旅行の日付が決まってから、それを待つことや、目的地に着くまでの移動もわくわくすることができ、充実を得ることができる。これは偶然の充実や必然の充実とはまた違うものだがこれも人生では欠かせないものだと思う。
宝くじを買ってわくわくするように、勿論、充実は偶然の充実と必然の充実以外にもそれはたくさんある。旅行の前、移動の時に感じたり、釣りで魚がかかるのをじっと待つときに感じる期待による充実や、本を夢中で読んだり、趣味に没頭することによって得られる没入による充実、異性と交際することによって得られる充実や、ペットを飼って世話をすることにより得られる充実、子を育むことによって得られる充実など、実にさまざまある。ここに書いてある充実や、それ以外の自分自身が開拓して発見した充実を得られれば、一概に幸福とは言えないかも知れないが、不幸ではなくなると私は思う。
読んで頂きありがとうございました。