第6話
彼女の姿は、2人の前から忽然と消え。
「どこに消え...いや、何に化けやがった?」
まだ馨のSIは解かれていない。しかし、いかにSIが人智を越えた力だとしても、発動には条件がある。馨の場合、対象を視認していなければならないのだ。だから、今、馨が木下に『SIを解け』と命令したとしても、それは何の意味も持たない。
となると、手は一つ。
馨はちらりと翔馬を見る。翔馬は何も言わず、右手の指を3本立てた。
3__2__1__
1本ずつ、指が折りたたまれていく。
ゼロ、と翔馬の口が動くと同時に、馨はSIと解く。足元に現れていた円が、地面に溶けていくように消えた。
「準備しとけよ、あれ」
あれ、というのは政府が開発した『SI抑制薬』_通称『S-081』のことだ。一定時間、SIの力を封じることができる。
馨が『THS』に入ったばかりの頃にはこんなものは無かったのに。気が付いたら、これを使うことが当たり前になっていた。
ずしり、と制服のポケットに入れていた注射器が、存在を主張してくるかのように、何故か重く感じた。
「大人しく捕まってればさっさと済んだってーのに...。《Shadow》」
翔馬の影が一瞬揺らめいたかと思うと、変幻自在に動き出す。
影は自分で、自分は影。
言うなれば、影はもう1人の自分だと、いつの日か翔馬が言っていたことを思い出す。
つまり、木下が何に変化しようとも、彼女が『木下咲』である以上、影はそのものが『木下咲』であることを示す、ということだ。
「_見つけた」
翔馬の影が彼女の影を地面から引きずり出す。それにつられるように、彼女の身体が宙に浮く。
蟻、だろうか。
彼女の身体は非常に小さくなっており、目を凝らさなければ見えないほどだった。
「おい、元に戻れ。今更もがいたってどうしようもねーだろ」
彼女はぱたぱたと必死に足を動かしていたが、その一言で諦めたのか大人しくなった。
彼女の身体が元の_恐らく木下咲本人の_身体へと変化する。
馨はその腕に注射器を刺す。木下が、小さな痛みに顔を僅かにしかめた。
「...No.67、68、18時09分、木下咲の捕縛を完了しました。回収のため、No.51の応援を要請します」
カチャン、という音と共に、木下の手首に手錠がかけられる。
木下の目には、もう絶望しか映っていなかった。
『ご苦労だった。準備が整い次第、そちらに向かわせる』
「はい」
ご苦労だった、か。
馨はこれほど心のこもっていないやつらの激励を知らない。
馨は問う。
「...私達のことが憎い?」
木下は何も答えない。
馨は言葉を続けようと口を開きかけたが、すぐに閉じた。
_知らないほうがいい。
『THS』は、1度狩られたSI所有者達で構成されている国家機密の組織であることを。
自分の全てを差し出す代わりに、自分自身の存在を、SIを持つことを認められる、唯一の場所であることを。
知らないままの方が、中途半端な希望を抱かなくて済むのだから。
パキ、と音がした。
視界の端で、風景が歪む。
「...遅いよ」
「ごめんね、色々立て込んでて」
歪みから現れた、ブロンドの髪を持つ女性。
彼女の名は、武内都。
《Teleport》のSIを持ち、馨達と同じ第3小隊に所属している。
「...私は、どうなるの...?」
絞り出したような声で、木下が言った。
「さあ」
彼女の未来を決めるのは馨ではなく、政府だ。
馨がどうこうできる問題ではない。
「一般人に見つかる前にさっさと戻るぞ。...都」
「はーい。_《Teleport》」
都の手が、馨の肩にそっと触れた。
その瞬間、馨の視界が歪み始める。
掠れゆく視界の中で、馨が最後に見たのは、木下の頰を流れた一筋の涙と、翔馬のどこか寂しそうな表情だった。
▷▷▶︎
コンコン。
控えめなノックと共に、扉が開かれる。
薄暗い部屋に、淡い光が差し込んだ。
「...No.67、68が無事木下咲を捕まえたようです」
「そのようだな」
大きな回転椅子に座っていた男性が、くるりと向きを変え、報告に来た部下の方を見る。
その男性の目は、緋く染まっていた。
「...また、ご覧になられたのですか?」
「ああ。つい、な」
ふっ、と口角が上がる。
「好きで、こんな力を得た訳じゃない、か...」
「...ご覧になるのはあなたのご勝手ですが、もう少し自重なさって下さい。_長谷川総理」
長谷川は何も言わず、笑みを浮かべたまま、グラスに注がれていた水を一気にあおる。
氷がグラスの中でカラン、と音を立てた。