未樹との遭遇 (7)
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月曜日の四限目。まるで威厳のない軟弱体育教師が受け持つ授業を何の躊躇いもなくサボタージュした慧は、鉛でもぶら下げられたかのような重たい瞼を薄ら開きながら、校舎一階の保健室へと向かっていた。目的はただ一つ、惰眠を貪る為だ。
土曜日、日曜日と、珍しく熟睡出来なかった。ただただ自室のシングルベッドの上で横になっているだけだった。閉め切った雑然とした六畳間の中、慧は規則的に刻むアナログ時計の秒針の音だけを鼓膜で感じながら、瞼の裏には三國未樹の姿を浮かび上がらせていた。
果たして、あの少女は一体何者だったのだろうか。夜通しまんじりともせず、慧はそんなことを考えていた。年はいくつなのか、どこに住んでいるのか、名前は本名なのか、どうなのか――。
気がつくと、世界は静かに朝を迎えていた。水色のカーテンの隙間から漏れる、溢れんばかりの陽射しに目を眇めながら、慧はそれを理解した。
「失礼しまっす」
やがて保健室に辿り着くと、慧はそのまま真っ白な室内に足を踏み入れた。
「一人……か」
今日は珍しく他に来客はないようだ。その上、よくよく見ると、本来いるはずの養護教諭の姿もない。まあ、所用で席を外しているのだろうが、慧は僅かながら落胆していた。
何を隠そう、ここ私立美宇宙高校の養護教諭は美人なのだ。それはもう、なかなかの美人なのだ。顔立ち、プロポーション、声質、そのどれを取っても絶賛することが出来る。もっとも、彼女目当てで保健室を訪れたわけではないのだが、やはり拍子抜け感は否めなかった。
肩を落とし、元より猫背な体型を更に丸めながら、傍の簡易ベッドに歩み寄る。徐に眼鏡を外し、そしてそのまま仰向けで寝転がると、慧はほどなく瞼を閉じた。
一人取り残された空間は物音一つせず、それはまるでこの世界の何もかもから遮断されてしまったかのような、そんな奇妙な錯覚さえ覚えた。
それにしても、相変わらず刺激のない、退屈で凡庸な一日だ、と慧は思う。クラスに絶世の美少女が編入してくるわけでもなく、だからといってトーストを咥えた美少女と曲がり角で衝突、だなんていう展開に恵まれるわけでもない。まあしかし、これが日常なわけで、何かを期待するだけ無駄だということくらい、もちろん承知している。
乾慧十七歳、誰が何と言おうとも、一介のさえない眼鏡男子である。没個性的量産型男子高校生である。間違ってもラブコメ漫画や恋愛ドラマの主人公ではないのだ。
悲観主義全開でベッドに寝転がっていた時、
「……ん?」
突如として、入り口の戸がスライドした。ガララと乾いた音が響く。養護教諭だろうか。睡魔に従順していた瞼を開き、慧は何気なく視線を音の出所へと転じた。
数メートル先、そこにいたのは養護教諭――ではなく一人の少女だった。裸眼のせいで視界は曖昧模糊としているが、その人影が少女と呼べる存在だということくらいはさすがに認識出来た。痩身の、髪の長い少女だ。このコも四限目の授業をすっぽかし、仮眠でも取りに来たのだろうか。ぼんやりとした頭で考えていると、
「すみませーん」
鈴を転がすようなその瑞々しい声は、間違いなく慧に向けられていた。
慧は仕方なくベッドから上体を起こすと、
「何?」
と務めて短い言葉で返した。
「ええと、先生は……」
少女の言う「先生」とは、つまりは養護教諭のことなのだろう。
「さあ。職員室にでも行ってるんじゃないか?」
「職員室……ですか」
少女はこちらを見ながら、ほとんど呟くように言うと、そのまま傍のボックスソファに腰を埋めた。慧はその様子を特に気に留めるわけでもなく、再度ベッドに全体重を預けた。とにかく眠りたい、その一心で。
「あの……」
そんな声が鼓膜を揺すったのは、慧が瞼を閉じてから、まだ一分と経たぬ頃のことだ。今更ながら、慧は仕切りのカーテンを閉めなかったことを後悔し始めていた。
「ああん?」
不機嫌丸出しの、全くもって穏やかじゃない声。しかし、そんな礼を欠いた態度に窮する様子もなく、少女は続けた。
「もしかして……一昨日、ライブハウスにいませんでした?」
一瞬、慧の呼吸が乱れた。激しく乱れた。
「あの後大丈夫だったのかなあって、ちょっと心配してたんです」
あの後、と聞いて思い浮かぶ出来事は一つしかなかった。三國未樹なる少女のライブ直前、予期せぬ腹痛に見舞われ、そして結果として晒し者になってしまった、あの忌まわしき大失態のことである。意味深な発言を受けてすぐ、慧は少女の正体を推測し始めた。
思えばあの時、女子高生グループがフロアにいくつか固まっていた。加え、その中には美宇宙高校指定の夏服に身を包んだ人物もちらほらと見受けられ、顔さえ記憶してはいないものの、目の前の少女と雰囲気が似ている者の姿にも僅かながら心当たりがあった。
推測が確信に変わった頃、慧はどこぞの名探偵にでもなったつもりで、外していた眼鏡にひょいと右手を伸ばした。保っていた仏頂面が崩壊し、そしてそれが楳図かずお風タッチでもって再現されたのは直後のことだ。