未樹との遭遇 (4)
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図書室のヤクザこと平澤祐二と出会った日のことを、慧は丸一年が経った今でも、まるで昨日の出来事のように鮮明に記憶している。
その日、慧は地元最寄り駅から電車で二駅離れた文教地区へと向かっていた。桑野進の通う高校の文化祭に招かれていたのだ。
「乾。お前、どうせ暇してんだろ?」
「暇? 笑わせんなよな。俺は今、金髪ショートの国宝級美女と尾道デートの真っさ――」
「おーおー、わーったよ。とりあえず、十二時にこっち来いよ。校門入ってすぐの露店でぼったくり価格のクレープ売ってるんだわ、俺。これがまた想像以上に売れなくてよー。いやー、困ったもんだぜ」
ミキモトモモコのイメージDVD「モモコのプルルン滞在記〜尾道編〜」のラストシーンに黒目を縫いつけたまま、慧は当時の最新型スマートフォンを耳元にあてがっている。
「来てくれたら、ついでに俺の友人一号を紹介してやるよ」
「友人?」
「ああ。確か、お前と同じ高校だったような……」
中学を卒業し、自宅から徒歩圏内の私立高校に滑り込んでから早二ヶ月。同じヒエラルキーに属する級友や先輩に囲まれつつも、しかし今一つ刺激のない、彩りを欠いた日々を送っていた慧にとって、桑野からの誘いは少なからず心浮き立つものだった。何せ友人を紹介してくれるというのだ。
仮にその友人とやらが異性で、更にはモモコ似の美少女だったとしたならば――邪な妄想が頭の中をぐるぐると駆け巡ると、それはやがて巨大な竜巻と化し、ありとあらゆる物をなぎ倒した。
ほどなく通話を終え、再生中のイメージDVDを停止した時、自室の置き時計は午前十時十分を表示していた。慧はすぐに身支度を整え始めた。父の私物である怪しいメーカーのフェロモン香水を拝借し、手首に噴射し、盛大にむせ込み、そしてその一部始終を愛猫に目撃されるという失態を演じながらも。
「おーい、乾のボンクラー」
今年で創立百周年の節目を迎えるという県立藍沼工業高校、通称沼工に着いたのは、約束の時間五分前だった。
不格好なアーチを潜り、男臭い敷地内に足を踏み入れて早々、慧はいささか軽薄な声に呼び止められた。
校門から校舎までを繋ぐ、言わばメインストリートの両脇に連なる数々の露店の中に慧を呼ぶ人物の姿はあった。
「こっちだ、こっちー」
距離にして、おおよそ二十メートル弱。簡易テントの下でクレープを売る、三角巾にエプロン姿の腐れ桑野の周りを、彼の友人と思しき生徒たちが数人で囲っている。その中には電話で聞かされていた通り、慧の通う高校の夏服を纏った人影もあり――とここまではよかったのだが、
「どうも」
「ど、どうも……」
しかし、男。男であった。そして、更に言うと柄が悪かった。
怯える慧の心など露知らず、輪に加わるや否や桑野による友人紹介が始まった。
「こいつ、平澤。中学時代に通ってた塾が一緒でな。まあ、仲良くしてやってくれや。ちなみに、こいつには年の離れた妹がいるんだけど、これがまた全然似てなくて、初めて見た時なんかもう絶対腹違いの兄妹だろとか思って、マジで信じ――」
「平澤です、よろしく」
必死に平静を保とうと努めてはみたものの、その男が放つ極めて危険なオーラの前では、どんな虚勢でさえも無意味なものに思えた。
「よろしく……」
まず体格からして規格外である。でかい。慧のクラスメイトでラグビー部のトンガ人留学生と同等か、それ以上の身体つきをしている。そして、何より顔が怖い。第一印象はヤクザ、この一言に尽きる。
黒目の小さな瞳から注がれる刃物のような視線はまさに危険度SSランクで、これでもかと逆立てられた短髪、きりりと整えられた薄眉の相乗効果でもって、そのヤバさをより一層際立たせていた。軽く成人男性の二、三人、日本海の底に沈めているのではなかろうか。慧はこの時、この瞬間、本心で思い、そして戦慄いた。
「平澤く……平澤さんは本当に一年生なの?」
「うん、一年だよ」
「へえ……随分大人びて見えるからさあ。あはは……」
「よく言われるよ、それ」
切れ切れの会話の中、慧は一刻も早くこの場所から立ち去りたいと思っていた。この男と深く関わってはいけない、と本能が告げていたからだ。いくら退屈で色のない学生生活を送っているからといって、さすがにアウトローの世界なんかに足を踏み入れたくはない。
「乾くん、だっけ?」
「え? あ、うん」
「乾くんは本とか読むの?」
「……へ?」
もっとも、この大男への誤解は思いのほかすぐに解けることになる。
ヤクザなどという存在とは限りなく無縁の、健全極まりない、文学趣味の十六歳。そんな驚愕の事実を知ったのは、顔を合わせてから間もなくのことだった。
手探りの会話の中で共に元陸上部、そして長距離ランナーだったという共通項が見つかったことが大きかった。その話題を糸口として徐々に打ち解け、心を開き、帰り際には連絡先を交換し合うまでの仲に発展した。
この日をきっかけとして、二人は廊下や昇降口など校内の至る所で鉢合わせるたび、何かしらの言葉を交わすようになった。当初は軽い挨拶程度だったものが、いつしか立ち話をするようになり、やがて学校以外で戯れる機会も増えていった。
天文部に在籍する慧からの誘いで、後に祐二が同部の一員となったことにより関係性は更に密になり、二年生に進級した今ではもうすっかり行動を共にすることが当たり前のようになっている。
というわけで、二人は今日六月二十四日も、その当たり前の日常の中に生きていた。