未樹との遭遇 (3)
二人が視界から見えなくなった後、慧は幽鬼のようにふらりと自宅二階の自室へと戻った。その青白い顔に表情はなく、眼球からは一切の輝きが消え失せていた。
時刻は深夜十一時三十分。自室のドアを開けてすぐ、ミキモトモモコのポスターと目が合った。名ばかりの勉強机の隣に飾ったB2サイズのそれは、つい最近、彼女のオフィシャルウェブサイトを介し定価二千円で手に入れた、複製サイン入りの限定品であった。慧はほとんど無意識のうちに壁に歩み寄ると、ただただじっと無心でそのポスターを眺め入った。
五秒、十秒、そして二十秒が経った頃だろうか。ポスターの中で小憎らしくも愛らしい笑みを浮かべる弱冠十七歳の少女が突然、慧に短い言葉を投げ掛けたのだ。
「わたしは幻なの」
それは、いわゆる幻聴といった類のものではなかった。少なくとも慧には、少女の声がはっきりくっきりと聞こえていた。
「わたしは幻なの」
もちろん……わかっているさ、モモコ。君はアイドル。偶像。偽りの夢を鬻ぐ罪深きファントム。
「わたしは――」
やがて、慧の耳にミキモトモモコの無機質な声は届かなくなっていた。
ポスターの前で直立不動を保っていた慧は、ぼんやりとした意識のまま、ほどなく傍のシングルベッドに倒れ込んだ。
メタルフレームの眼鏡を外し、くたびれたマットレスに顔をむずと埋めながら、慧は思う。一生交わるはずのない、遠い世界の美少女アイドルに熱を上げる前に、まずは現実、つまり半径数メートル圏内の身近な異性に目を向けるべきなのではなかろうか、と。
乾慧十七歳は生まれてこの方、恋愛経験がない。誰かに告白をしたこともなければ、誰かに告白をされたこともなかった。小学校、中学校、高校と、慧の心を射止める異性は、いつだって液晶の向こう側にいた。そして、そんな彼女たちと結ばれ、つつましくも愛に溢れた生活を送っている自分自身を妄想、空想する日々に純度百二十パーセントの幸せを感じていた。無論、桑野進に恋人が出来るまでは。
物心がつくずっと以前から慧は、桑野を心のどこかでライバル視していた。あいつにだけは負けたくない、と執着していた。
実際、慧は自他共に認める凡人でありながらも、学校の成績やスポーツで桑野に負けたことは一度だってなかった。唯一負けたことと言えばジャンケンくらいのものだろうか。だが、今や慧はライバルに完全敗北の状態にあった。認めたくはないが、認めざるを得なかった。
「…………」
気づけば、慧は深い眠りに落ちていた。瞼の裏側には憧れのアイドル、ミキモトモモコの姿があった。
照りつける真夏の太陽の下、イメージDVDで観たような壮大な海を背景に、少女はなぜか瑞々しい裸体を恥ずかしげもなく晒しながら、真っ白な砂浜を無邪気に駆け回っていた。釣鐘型の双丘がブルンブルンと豪快に揺れていた。きっと中には甘いカスタードクリームが、あるいは限りなくそれに近い何かが、たっぷり詰まっているに違いない。確信しつつ、慧は心底からの多幸感に包まれている。
しかし、しかしだった。その幸福も長くは続かなかった。突然、どこからともなく裸の美少年が視界に現れたかと思うと、次の瞬間には何とモモコに抱き着いていたのだ。片や抱き着かれたモモコもまんざらではない表情で、名も知れぬ美少年の華奢な身体を抵抗することもなく受け入れている。言わずもがな、慧はそのショッキングな光景を直視することが出来なかった。
わなわながたがたと小刻みに震え始めた身体は、意識とは別に海へと向かっていた。圧倒的な絶望感を薄っぺらい胸に抱いたまま硬い砂浜を一歩、また一歩と、耄碌老人のような足取りで歩き進む。
途中、抱き合う美男美女の真横を通り過ぎるも、二人は慧の存在などこれっぽっちも認識していない様子で、果ては愛の言葉を囁き合い、お互いに強く求め合うのだった。
ほどなく辿り着いた海は穏やかに凪いでいた。入道雲が立ち上る青空には一羽のカモメが飛んでいて、遠い水平線にはいくつかのヨットが揺れていた。
透き通るエメラルドグリーンに肩まで浸かりながら、慧はこのまま海の藻屑となることを決意し始めていた。
さよなら、モモコ。さよなら、俺――。
「そろそろ起きなさーい」
母、美津子の声で目覚めた時、時刻はもうすでに午前十一時を回っていた。
半開した両目からうっすら涙が滲んでいる理由を、慧は自分自身でも理解することが出来なかった。いや、理解しようともしなかった。それよりも何よりも頭が痛い。どうやら寝過ぎてしまったようである。偉く深い眠りだった。
ベッドから上体を起こした後、慧は何げなくスマートフォンのホーム画面を開いた。
六月二十四日、土曜日。今日の日付を確認した後に繋いだ大手ニュースサイトには、「UFOの日に未確認飛行物体現る!」といった見出しがトップに掲載されている。
UFOの日? 未確認飛行物体? なんじゃそりゃ。寝起きの頭で思いつつも、慧がその記事に目を通すことはなかった。どうせくだらないニュースに決まっている。そもそも慧はUFOに代表されるような科学的根拠のないものに対し、いささか懐疑的な人間なのだ。
スマートフォンをベッドに放り投げ、こめかみの辺りをさすりながら、慧はそのままベランダへと歩を進めた。もっとも、ベランダに出たからといって特別何をするわけでもない。それは、言わば起き抜けの日課のようなものだった。
途中、モモコと期せずして目が合った。真新しいポスターにでかでかと写る金髪ショートヘアの美少女は、やはりいつもの小憎らしく、それでいて愛らしい笑みを浮かべていた。




