夕凪ハートブレイク (4)
◇
唸るようにケラが鳴き続けている。
排気ガスに塗れた不快な微風が頬を撫でると同時に、額から大粒の汗の玉がつうっと滴り落ちた。気温は昼間から一向に下がる気配を見せず、まさに熱帯夜と呼ぶに相応しい夜である。
午後八時。弁登良祭りなる通俗フェスティバルから無事解放され、今しがた天文部の面々と別れたばかりの慧は、呪いにかけられてしまったかのようなプルシアンブルーの空の下をたった一人で歩いている。
歩きながら、しかし自宅出発時とは打って変わり、その足取りはやけに軽い。気を抜いたら最後、職務質問必至の奇々怪々なステップと共に調子外れなハミングを口ずさんでしまいそうな気さえしていた。
未樹と、その恋人と信じて疑わなかった人物、誠が親戚同士だという驚天動地の事実を知ったのは今からほんの小一時間前のことである。
「僕の父親と、姉さんのお母さん……僕の叔母なんですけど、二人が兄妹で。自宅が近所ということもあって、小さい頃から仲良しなんです」
マグニチュード9・5のエネルギーでもって脳天をぐわんぐわんと揺さぶられた直後、僅か数秒にも満たないであろうか。どこからともなく射し込んだ極彩色の光が、まるでスポットライトの如く慧を四方八方から照らし出した。
果たして、俺はこれほどまで色彩に満ち満ちた世界を知っていただろうか。言い知れぬ高揚感に包まれながら、慧は改まって自己に問う。
弁登良祭りからの帰り道、辺りはもうすっかり夜の暗がりに沈んでいるというのに、喜悦に溺れた十七歳には眼球に映るもの全てが眩いばかりに光り輝いて見えた。
毛穴という毛穴から幸せホルモンを大放出。のっぺりとした顔面いっぱいに薄気味悪い笑みを湛えつつ、道すがら慧は、何気なく目についたコンビニにふらりと立ち寄った。今日という素晴らしき日に、夜に、大量のドリンクとつまみでもって盛大に祝杯を挙げてやろうではないか。ふとそんなことを思い立ったのだ。
「エロッシャイマセマセェッ!」
「マセマセ!」
「マッゼマゼーィ!」
冷房がこれでもかと効いた店内は、祭り会場からほど近いということもあり、偉く混雑していた。
三台が横並びに配置されたレジにて接客を行っているのは、キテレツな言語を口にする(おそらく日本語なのだろう)年増のネパール人トリオ。有線からは人気シンガーソングライター、木田ユーマのデビューシングル「ミキとの遭遇」が慎ましやかに流れている。
ミキとの遭遇――アコースティックギターと男性ヴォーカルのみで奏でられる、数年前のオリコンチャートをにわかに賑わせた珠玉のスマッシュヒットソングである。
甘未なストリングスの調べに、胸の奥がじんわりと温かくなるような魔法の歌声。「一万年と二千年に一人の鬼才」と称される木田ユーマ切っての名曲は、こんなホットスナック臭漂う片田舎のコンビニチェーンにはあまりに不釣り合いであった。
慧は「ミキとの遭遇」のボーイ・ミーツ・ガールな歌詞に自分自身を投影させながら、一先ずお目当てのドリンクコーナーへと歩みを進める。
雑誌コーナーの前を通り過ぎ、突き当りを左に折れ、一歩、二歩。
「…………」
そして次の瞬間、まるでバッテリーが底をついた人型ロボットよろしく慧は、はたと全ての動作を停止した。理由はただ一つ。前方数メートル先によく見知ったシルエットを見たからだ。
濡羽色のロングヘアをアップスタイルで整えた美少女、三國未樹は、先ほどステージ上で着こなしていた淡い水色の浴衣に、背中にはレザー調の大きなギグバッグといった格好で、冷凍ショーケースの前に立っていた。何やら悩ましげにケースの中を覗き込んでいる。
一瞬、声を掛けようか迷い、けれどもあと一歩を踏み出すことが出来ないのは、言うまでもなく慧自身が奥手、いや根性なしの腰抜けコンコンチキだからだ。もっとも、声を掛けることに成功したところで、憧れのアイドルと瓜二つの少女に対し話を膨らませられるような自信も余裕もないのだが。
思わぬ形で未樹との接近遭遇を果たした慧は、心拍数の急激な上昇を自覚しながら凝然とその場に立ち尽くし、彼女の横顔だけにじっとピントを合わせ続けている。
その尋常ではない熱視線を本能的に察知したのだろうか。やがて未樹が、不意にこちらを振り向いた。
脊髄反射的に上体を仰け反らせ、半歩ほど後ずさった慧。この状況下において、もう逃げも隠れも出来ないということは誰の目にも明らかである。もはや逡巡している暇などない。
ついに心を決めた慧は、二十六点の作り笑顔と共に恐る恐る未樹に歩み寄る。
「やあ」
物の見事に上ずった第一声。しまった、と悔いる間もなく返事はすぐに返ってきた。
「天文部の部長さん、ですよね?」
「ど、どうも」
「こんばんは」
一対の宝珠のような瞳が三日月形を作ると同時に、小さな口元から白く艶やかな前歯がちらりと覗いた。直後、勢いよく心臓が飛び跳ねる。言葉にするとまさに「ドクン」という音が鼓膜を貫く。
至近距離で確認する未樹は、慧が想像していたよりもずっと小柄だった。ステージ上での圧倒的存在感から勝手に長身だと思い込んでいたのだが、百七十センチジャストの目線から確認すると、おおよそ十センチ以上もの身長差が窺える。
慧は内心、未樹の上目遣いにどぎまぎしながらも、こんばんは、と一言。そして、
「買い物中?」
「はい、アイスクリームを選んでいて……」
言いながら、未樹は冷凍ショーケースの中に視線を転じた。
「実は『美味求真キャラメルヴァニーユ』か『蓴羹鱸膾ストロベリー』でずっと悩んでいるんです」
「物凄いネーミングセンスだな……」
「あの、部長さんはどちらがいいと思いますか?」
表情から察するに、この美少女、至って真剣である。
そのあまりの真剣さを前に慧は須臾の間、押し黙った。いくらでもやり直しが効く恋愛シミュレーションゲームじゃあるまいし、こっちにしなよ、だなんて安易な選択は出来ないと考えたのだ。
思案の末に、慧はやんわりとストロベリーを推した。いささか無難な選択ではあるが「ヴァニーユ」などという都会的響きの横文字が何物かわからぬ以上、下手な冒険を試みる勇気はない。
「そうだな……俺はどちらかと言えば、ストロベリーが好みかな」
「あ、わたしもストロベリー大好きです」
「無難っちゃ無難だけど」
「うーん……」
未樹はふっくらとした唇に人差し指を添え、数秒考え込むような仕草を見せた後、冷凍ショーケースの中からストロベリーアイスのカップを一つ取り出し、
「でも、無難が一番かも」
「そ、そっか」
「これにしますっ」
そう言って、屈託なく声を弾ませた。
「すみません、つき合わせてしまって」
出会って僅か一分弱。早くも別れの雰囲気が立ち込める。
出来ることならばもう少しだけ、あともう少しだけ、この空間を共有していたいところだが――乾慧十七歳は、こんな時どう振る舞えばいいのか、その術をまだ心得ていなかった。
無情にも時は過ぎ、
「それでは……」
失礼します。未樹は軽く会釈した後、くるりと背を向け、そのままネパール人トリオが待つレジへと向かって行った。
涼しげな右近下駄がこつこつとセラミックタイルを打つ音と共に、二人の距離が徐々に広がっていく。ギグバッグのファスナーからちょこんとぶら下がった、デフォルメされたグレイ型宇宙人のストラップが、何かを訴えるかのように無言で慧を見つめている。
今ここで彼女を呼び止めなければ、俺は絶対に後悔する。心で強く思ったのは、未樹がレジの列に並び、「ミキとの遭遇」がBメロからサビに差し掛かった折りのことだ。
「み……みみっ! 三國ひゃん!」
気がつくと、そんな言葉が口をついて出ていた。それはもう、慧自身が吃驚してしまうほどの大音声で。言うまでもなく周囲の客、及びネパール人トリオが一斉に物怪顔を向けてきたが、もはや知ったことではなかった。恥も外聞もまるでなかった。
「はい?」
肺の隅々まで酸素を行き届かせ、もはや自棄っぱちで、
「あの、さ……」