夕凪ハートブレイク (1)
「暑いよー、死んじゃうよー」
放課後の天文部部室にて、同部唯一の女子部員が心底気怠げに呟き落とした。
七月六日、金曜日。二人の一年生が天文部に入部してから今日で二回目の活動日である――と言っても、部活動らしいことはまだ何一つとして手つかずのままだ。長らくまともに活動していなかったこともあり、慧は部長として自分自身が何をすべきなのか、それすら模索の最中であった。
「クーラーないんですかー?」
「ない」
「じゃあ、扇風機はー?」
「ない」
「ふぁーっく! ふぁっくふぁっくふぁっくふぁっくふぁっく……」
友好関係にある古典部の面々から先日譲り受けたばかりの合成皮革の二人掛けソファの上では、トモこと橘智美がティーン向けファッション誌を広げながら、溶けかけの棒アイスを咥えている。その左方数センチの距離では、彼女と中学時代からの親友だという美少年が、つまりは溝口誠が、部室の片隅で何年も放置されていた「天文ガイド」なる雑誌を興味深げに耽読している。
そんな中、名ばかり部長はというと開け放った窓から顔を半分だけ覗かせ、グラウンド脇を走る女子陸上部のなまめかしいヒップを無心で眺めているだけだ。
午後四時。校舎時計の大きな針が、その時刻ちょうどを指し示した頃だった。突如として、乾いた音と共に部室の戸が開かれた。慧が変質者の如き視線をヒップから音の出所に転じると、そこには百八十センチオーバーの巨漢が一人、ずしりと威圧感たっぷりに屹立していた。
「やあやあ」
もう幾度となく聞き慣れた、深みのある低音が響く。
「相変わらず暇そうだね」
天文部副部長、平澤祐二である。
直後、新入部員らがはっとした表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間には祐二に向かって会釈していた。図書室のヤクザとして校内にその名を轟かせている顔面凶器を前に、さすがに怯えているのだろうか。心なしか表情が硬い。
一方で祐二はというと、相変わらずいつもの調子を崩さない。マイペース。至ってマイペース。日に焼けた無骨な右手で首から上を扇ぎながら、
「あ、君ら新入部員だよね? 慧から話は聞いてるよ、よろしく」
などと二人の新入部員に向かって、その危険度SSランクの顔をにんまりと綻ばせてみせたではないか。
ほどなくして部室に足を踏み入れた祐二が、ゆっくりと慧の元へ歩み寄る。
「珍しいな、お前がここに来るなんて」
部員が部室を訪れることに疑問を持つのもおかしな話だが、何せ祐二が天文部に顔を出すのは今年の四月以来なのだ。新入生向けの部活動合同説明会の打ち合わせで慧と二人、ここに集ったのが最後だった。
「何か用でもあるのか?」
「まあ、ちょっとね」
「金なら貸さないぞ」
と顔を合わせて早々に冗談めかしてみせるが、もちろんそのような用件でここを訪れたわけではないらしく、
「そんなんじゃないよ」
ほら、これ、と徐に差し出された掌サイズのそれは、よく見ると先月発売されたばかりの最新型スマートフォンだった。CMに人気若手俳優を起用し、昼夜問わずテレビでひっきりなしに宣伝している国産メーカーの最新機種だ。
艶めくパールホワイトが美々しい、海外の若手気鋭デザイナーが考案したというスタイリッシュなボディのスマートフォンを祐二から受け取るや否や、慧は様々な角度からそれを凝視した。まるで骨董品でも鑑定するかのように。ミキモトモモコがSNS上で機能性を絶賛していたということもあり、以前から密かに目をつけていた機種なのだ。
ちなみに、売れ行きは絶好調で、初期ロットは即日完売。依然として絶望的なまでの品薄状態が続いているという。
「羨ましい……羨ましいぞ、祐二! くれ! いや、売ってくれ! 三千円でどうだ?」
「定価八万だよ、これ」
「え」
「それに、俺は別にスマホを自慢しに来たわけじゃなくて……画面見てよ、画面」
そして、慧は促されるまま四・七インチの傷一つない液晶に視線を放る。するとそこには、出店や神輿などの風情溢れる写真の数々と共に、でかでかと「弁登良祭り 今夏も堂々開催!」などというキャプションが躍っていた。
わけもわからず液晶を見つめたまま、慧は疑問たっぷりに尋ねる。
「何だよ、これ?」
すると、
「弁登良祭りの公式ホームページだよ」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「一緒に行かない?」
「……祐二、お前正気か? 男二人で夏祭りだと? その字面だけで涙が出そうになるぞ」
地元弁登良商店街一帯を会場とした、この弁登良祭りと呼ばれるイベントは、夏の風物詩として古くから親しまれている伝統行事である。近辺住民を中心に例年まずまずの人出があり、昨年は開催二日間で延べ五万人以上の集客数を上げている。もっとも、客層は家族連れ、カップルが主で、ナンパ目的の輩なんかを除くと、それこそ男同士での来客は稀だ。
液晶にじっと視線を据えたまま、慧が眉間に渓谷のような縦ジワを寄せていると、
「実のところ、桑野が提案者なんだけどね」
と苦く笑いながら、祐二が意外な言葉を口にした。
「桑野が?」
「うん。本当はつき合ってるコと……明日菜ちゃんだっけ? あのコと行く予定だったみたいなんだけど、どういうわけか駄目になっちゃったらしくて」
「ほう」
「で、代わりに俺らを誘ったみたいなんだ。何ていうか、ちょっと自棄になってた」
「あいつらしいな」
慧が呆れ半分で呟いた時だった。
「あのー」
真っすぐに切り揃えられた前髪を爪の長い指先で弄りながら、智美がはたと口を挟んだ。
「今のお話に出てきた桑野さんって、下の名前は何ていうんですかー?」
「進だけど、それがどうしたよ?」
「おー、やっぱり」
やっぱり? と眉をしかめる慧のことなど一切気に留める様子もなく、智美は至って飄々と続ける。
「トモ、桑野さんとバイト先が一緒なんです」
「マジで?」
「マジでーす」
桑野がこの春から地元駅前複合商業施設内の大手CDショップチェーンで週三日のアルバイトを行っているということは本人の口から直接聞いてはいたが、まさかこんな身近に奴の知り合いが存在していたなんて――。
慧が世界の狭さを一人思い知らされていると、
「そういうことなら、君たちも一緒にどう?」
などと祐二が、いささかフランクな語気で新入部員を誘い始めたではないか。
「三人だと盛り上がりに欠けるし、それに君ら入部したばかりだろう? 親睦会みたいなものだと思ってさ」
「おいおい、勝手に話を――」
「行きたーい!」
一対の瞳の隅々までシリウスの輝きを宿らせながら、童顔少女がそのアニメ声を弾ませる。
「誠も行くよねー?」
すると、
「うん」
美少年が頷いた。それはもう、あまりにあっさりと頷いた。天文雑誌「天文ガイド」三月号のページをぺらりと捲りながら、嫌味なほど爽やかな笑みと共に。
「よし、決まりだね」
「いやいや、ちょっと待てよ。部長は俺だぞ? 大体、まだ行くなんて一言も……」
気の知れた内輪だけで、という話ならまだしも、未樹の恋人と一緒に夏祭りだなんて、そんな酷な仕打ちが許されて堪るものか、と慧は思う。しかも会場となる弁登良商店街は先日、肩を並べ仲睦まじく歩く二人、つまりは未樹と誠を見掛け、絶望の淵に追いやられた曰くつきの場所でもあるのだ。楽しめるわけがなかろう。内心で呟くも、もちろん心の声が祐二の耳に届くはずもなく、
「そんな堅いこと言わずにさ。それとも、当日何か予定でもあった?」
「それは……」
「じゃあ、せっかくなんだし楽しもうよ」
「…………」
「それに、慧を連れて行かないと桑野がうるさいからさ。何だかんだ言ってあいつ、慧のことが好きだから」
「やめろよ、顔面にゲロぶっ掛けるぞ」
弁登良祭りは毎年七月の第一土曜日、日曜日と計二日間に渡って行われるのが通例であり、つまり明日七月七日が開催初日ということになる。
二十四時間以内に、どうにかして不参加の理由を捻り出せないものか。慧は大仰に頭を抱え、
「はあ……」
とわざとらしく青息吐息。
和気藹々とした雰囲気に満ち始めたカビ臭い天文部部室にて、部長ただ一人だけが陰鬱な表情を浮かび上がらせていた。