未樹との遭遇 (10)
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翌日。ここは、私立美宇宙高校第一棟三階最奥に位置する天文部部室。
もっとも、部室といっても活気はない。まるでない。何せ在籍部員数は若干二名。昨年の文化祭を最後に上級生連中が挙って引退してからというもの新入部員の獲得もなく、もうかれこれ半年以上もの間、この散々たる状態が続いている。
そんな末端文化部の、さながらプライベートルームのような部室でただ一人、慧は言い知れぬ虚脱感に見舞われていた。
現在、午後四時四十四分。この時刻きっかりに校舎第二棟四階北側に位置する男子トイレのひび割れた鏡を覗き込むと、何者かの手によって異次元に連れさらわれてしまう、だなんていう噂をオカルト趣味のクラスメイトから聞いたばかりだが、まあ今はそんなこと、お喋り糞野郎こと桑野進の生い立ちほどにどうでもいいことである。
弱小サッカー部のまるで精度のないパス回しや、落ちこぼれ野球部の単調なバッティング練習にも見飽きた慧は、開け放った窓からゆっくりと身を引き離すと、そのまま傍のパイプ椅子にだらしなく腰を埋めた。
「…………」
普通教室の半分ほどの広さしかない部室には物と呼べる物があまりなく、会議テーブルにホワイトボード、そして窓際に放置された一台の天体望遠鏡と地球儀だけが、その存在感を申し訳程度に主張しているだけだ。
まあしかし、この殺風景極まりない部室を訪れるのもいつぶりだろうか。そんなことすら曖昧になってしまうくらい、ここに足を運ぶことは珍しかった。
天体にとりわけて強い興味関心を持ち合わせているわけでもなく、だからといって意中の女子部員が在籍するわけでもない。高校入学以前から、帰宅部だけは許さない、という旨を両親に口うるさく言われ続けていた手前、仕方なく籍を置いている部活である。モチベーションなんてありゃしないのだ。
ちなみに蛇足だが、慧は中学時代、陸上部の長距離ランナーとして活躍していた。三年間を通し記録こそ平々凡々、胸を張って言えるようなものではなかったものの、陸上に対するその真摯な姿勢からキャプテンを任されていたほどだった――とこのような経歴を持つゆえに、慧は主に友人連中からよく尋ねられることがある。
「どうして陸上辞めちゃったの?」
そんな時、慧は決まって、
「飽きたんだ」
と短く答える。
あれだけ夢中になって青春を捧げた競技にも関わらず、言葉通り慧は、巡る季節と共に陸上競技そのものに魅力を見出せなくなってしまっていたのだった。思春期特有の心変わりによるものなのか何なのか。その理由は、実のところ慧自身にもよくわかっていない。
「はあ……」
不意に、ため息を漏らし、
「はああ……」
と更に大きな一発。
もう長らく使用していない、存分に埃を被ったビクセンのスペースアイが、何だかいつになく寂しげに見える。
一定のテンポを刻み続ける壁掛け時計の針は、もうすぐ午後五時を指し示そうとしている。今日は何気なく、本当に何気なくここに出向いたのだが、案の定暇で仕方がない。
時間も時間である。今日のところはここら辺で切り上げて、冷房の効いた自室で一人、「モモコスTV」の新着動画のチェックにでも勤しもうではないか。思い、パイプ椅子から立ち上がる。
「モモコスTV」とは、ミキモトモモコが大手動画投稿サイト内に立ち上げた公式チャンネルの名称である。チャンネル創設からまだ一週間と経ってはいないが、登録者数は既に一万人に迫る勢いであり、それはひとえにモモコの注目度の高さを表していた。
モモコに思いを馳せながら、いよいよ帰宅しようとした矢先のこと、
「ん?」
森閑とした薄暗い廊下から、突如として足音が聞こえてきた。それも一人ではなさそうだ。隣接する電脳部の腐れ部員だろうか。瞬間的に思うも、しかし響く硬い足音は、やがて天文部の部室前でぴたりと止んだ。どうやら来客のようである。
「失礼します」
戸を開けて現れたのは、二人の生徒だった。男女が一人ずつ。足元を確認する限り、どうやら一年生らしい。赤、青、緑と美宇宙高校では靴紐の色ごとで学年が区別されている為に、それはすぐに判断出来た。
真っ赤な靴紐の、真新しい上履きを履いた二人組が、やおらこちらに歩み寄って来る。
「あの――」
「あっ」
声を掛けられるや否や、慧は思わず声を上げた。見覚えのある顔が、そこにあったのだ。
「え?」
慧の面食らった表情を見て、長身の男子生徒が当惑したような声を漏らした。
たった、たった一度、遠目で見かけたことがあるという程度の顔であり、断じて知り合いなどではないのだが、慧が動揺するには充分過ぎる要素を、目の前の男子生徒は抱えていた。
安易にこの動揺を悟られてしまわぬよう、慧は唯一のチャームポイントである歯列の整った前歯をこれでもかと輝かせ、今年一番の作り笑いでもって言った。
「いや、すまん。そういや近々、近所で夏祭りがあったなぁって、ちょっと思い出しただけだ」
「……そうですか」
辺りに、はたと不穏な空気が立ち込める。そんな状況の中、男子生徒の隣で黙していた、おそらく身長百五十センチにも満たないであろう小柄な女子生徒が、いかにも物憂げに口を開いた。
「ていうか、この部屋イカ臭い……」
開口一番にして、随分と際どい発言である。
わざとらしく小鼻なんぞを摘み始めた一年坊主のその挑発的な態度に憤りを覚えつつ、一方で仮にも上級生だということを自覚し、慧は至って大人然とした対応を見せる。
「あ、あはは。イカなんて食った覚えはないんだけどなあ……」
「でも臭い。臭いです、とーっても」
「……ところで、君ら用件は?」
「実は」
直後、男子生徒を筆頭に、担いでいたスクールバッグの中から何やら一枚の紙を取り出すと、
「これ、受け取って下さい」
揃って差し出されたのは、四つ折りのコピー用紙だった。慧は黙ってそれを受け取る。
はて、これは一体――思いつつ、それを開く。丁寧に開く。そして次の瞬間、慧は目の前に飛び込んで来た三文字に絶句し、しばし硬直した。まるで金縛りにあったみたいに。
五秒、六秒と空白が生まれた後、改めてその三文字を脳内で反芻。
やはり、読み間違いではないらしい。コピー用紙の上部には、やや掠れた明朝体で「入部届」と確かに打ち込まれている。
「一年J組、溝口誠に……同じく一年J組、橘智美……」
「僕たち、部活に入るタイミングをことごとく逃し続けてしまいまして、結果としてこんな時期になってしまったのですが」
あと一ヶ月足らずで夏休みに突入するという事実を考えると、確かに遅過ぎる入部だ。まあしかし、そんなことはどうだっていい。さして重要なことではない。
この時、慧は頭の中に一つの疑問を浮かべていた。その疑問は、間もなく慧自身の口から紡ぎ出された。
「でも一体全体、何が悲しくて天文部なんかに?」
こんな廃部寸前のちんけな集いに敢えて入部希望をするなんて、よほどの理由があるのだろう。
眉根を寄せ、訝しく思っていると、女子生徒が真っ先に語り始めた。
「トモはー、帰宅部だと何かとまずいかなあと思って、とりあえず適当に入部しとこうかな、みたいな? ほら、卒業後の進路を決める時に、帰宅部だとアピールに困るじゃないですかー?」
年の割に幼い声でいささか打算的な動機を述べ立てた後、トモと名乗った細眉猫目の女子生徒は徐に、はわわわあ……と豪快な欠伸を漏らした。口元に手も当てず、しかも二連発ときたものだ。大和撫子の奥ゆかしい恥の文化は、どうやらこの時代に受け継がれる前に陶汰されてしまったらしい。
「恥ずかしながら、僕も似たような動機です」
女子生徒の横合いで、男子生徒がつむじ辺りを掻きながら、微苦笑を浮かべている。
「トモ、幽霊部員にならないように頑張りまーす」
「清々しいほど志の低い奴だな、お前……」
「ありがとうございまーす」
「褒めてないっての!」
こんなしょうもないやり取りを何度か繰り返し、
「トモたち、そろそろ失礼しますねー」
女子生徒のそのあまりに唐突な言葉に、慧は思わず耳を疑った。
「失礼しますって……活動内容とか、その他諸々まだ何も説明してないぞ?」
「近々また顔出すんで、その時に色々と聞かせて下さーい」
「はあ?」
「失礼しましたー」
赤いヘアゴムで結われた薄茶のピッグテールを上下にぴょこぴょこと揺らしながら、もはや校則違反以外の何物でもない膝上二十センチのスカートをひらひらと揺らしながら、小柄な女子生徒は足早に部室を去ってしまった。
「失礼しました」
と息つく暇もなく斜め四十五度の角度で一礼した男子生徒が、金魚の糞の如く後に続く。
途端に元の静けさを取り戻した部室で一人、慧は未だ困惑気味な思考を引きずったまま、改めて入部届に目を通していた。
「俺は悪い夢でも見ているんだろうか……」
酷く肩を落とし、陰気臭い空間にぼそりと呟き落とす。
三國未樹の恋人が入部希望者として現れるなどというこの展開を一体誰が望み、そして一体誰が予想したというのだろう。