未樹との遭遇 (1)
生まれて初めてのキスは、液晶の味がした。
唇で感じた、硬く、ほんのりと温かな感触に今、乾慧はエクスタシーすら覚えている。
五、六秒ほどでことを終え、ま、こんなものか、などと人知れずクールを決め込んだ後、慧はまた一人、チロチロとしたイヤらしい双眸を対象に向け始めた。
蒸し暑い、閉め切った六畳間にて慧が乱視用レンズ越しに熱視線を浴びせる先には、埃に塗れた二十四インチのテレビが一台。画質の鮮明な液晶には「天文学的美少女」と大々的に冠された、絶賛売り出し中のアイドルが映し出されている。
「モモコォ……ハァン」
少女のイメージDVDをとろけた瞳で鑑賞しながら、今や抑制不能となった愚息を急角度でエレクトさせながら、慧は身体全体で悶えた。悶えつつ、こんな姿、クラスメイトには死んでも見せられまい、と思った。
映像を再生し始めてから十分少々が経った頃だろうか。海辺のロケーションからはたと画面が切り替わると、今度は青々と茂るヤシの木を背景にして純白の水着を召した金髪ショートヘアの少女が大写しになった。そして、何の脈絡もなく自己紹介が始まった。
「あなたのハァトに桃色電波ッ! 神奈川県鎌倉市から来ました、高校二年生のモモコスことミキモトモモコでーすっ!」
少々舌っ足らずな喋り方の少女は時折、目のなくなる特徴的な笑みを浮かべながら、画面下に流れる簡素なテロップの質問一つ一つに律儀に答えていった。
「好きな男性のタイプですか? ええと、強いて言うなら木星みたいな人かなあ? あとは、わたしが十七歳なので、出来れば同い年くらいの人がいいですっ。あ! あとあと! 猫好きな人!」
あはは、と大口を開け、雪白の前歯を輝かせた快活な少女、ミキモトモモコその人を網膜全てに映しつつ、慧は直後、その場で大きなガッツポーズを決めた。奇しくも慧は少女と同じ十七歳であり、更に言うと生来の猫好きだったのだ。
少女との共通点に、例えそれがたったの二つだけだったとしても、慧は運命めいたものを感じずにはいられなかった。
そう遠くない未来に俺はこのコと出会い、ドラマチックに結ばれ、そして残りの人生を共に謳歌する。二人の間に授かった子供は男女が一人ずつ。マイホーム購入とはいかずとも大都市郊外の小さな町に安アパートを借り、時に笑い、時に涙しながら、慎ましくも愛に溢れた家庭を築くのだ――。
そんな一連のラブストーリーを脳内で完結させるまで、さして多くの時間は必要としなかった。もっとも、そのあまりにぶっ飛んだ妄想は、イメージDVDの再生終了と共に終わりを告げることになる。
真っ暗に暗転したテレビ画面には、もう既にミキモトモモコの姿はなく、代わりに慧自身の見慣れた顔が反射し、大きく映り込んでいた。その邪な感情に塗れたニヤケ顔を間近に捉えた瞬間、慧ははたと我に返り、そして凄絶な速度で意識を現実に引き戻された。
「何を考えてるんだか、俺は……」
自分自身にほとほと呆れ返りながら、思わず独りごちる。
とりわけて目立った特徴や個性といったものを持たず、地味で、こうして美少女のイメージDVDを鑑賞すること以外に趣味と呼べる趣味はなし。部活に青春を捧げるわけでもなく、勉学に励むわけでもなく、アルバイトもせず、月五千円の小遣いのほとんどが贔屓にしているアイドルの関連グッズに消えてしまうような、そんな十七歳男子に都合良く好意を抱く女性など果たして存在するのだろうか。
経年劣化でくすんだフローリングの上で胡坐をかいたまま、慧は液晶に映る自分自身と対峙し、自問し、そして数秒と経たぬうちに大仰なため息をついた。
「はああ……」
一旦現実に引き戻されてしまうともう駄目だ。悲観的思考が止まらない。
頭からすっぽり覆い被さった憂鬱にも似た感情を断ち切るかの如く、慧は傍のベランダへと飛び出した。それは、ほとんど無意識の行動だった。
南向きの窓を開け放った途端、六月下旬の生温い夜風が、慧の野暮ったい前髪を申し訳程度に揺らした。
色褪せたウッドデッキの手すりにだらしなくもたれながら、徒に頭上を見上げる。どこまでも続く、宇宙の果てを連想させるかのような夜空には、仄かな輝きを纏った銀盤が一つ。もちろん、未確認飛行物体などではない。隣に想い人がいたならば、思わず「月が綺麗ですね」と口走ってしまいそうなほどの見事な満月である。
「駄目だよ、こんな所で……」
とそんな甘い声が鼓膜に響いたのは、直後のことだ。
月を愛でる間もなく自宅二階のベランダから眼下の通りに視線を向けると、そこには頼りない街灯に照らされた一人の少女の姿があった。ドット柄の青いリボンシュシュをつけた、やや小柄なポニーテールの少女は、よく見ると近辺の女子校の制服を着ていた。随分と着崩しているようだが間違いない。その隣にはやはり少女と同年代くらいの中背の少年がいて、少女の右隣数センチの距離をぴたりとつけていた。
「誰かに見られたらどうするの?」
「大丈夫だって。心配事の八割は実際には起こらないって、あの生ける伝説ことマサヤングさんも言ってたしな」
人通りのないことを確認しつつ、二人は一本の古びた電柱の真下で足を止めた。
一体、これから何が始まるというのだろう。何となく予想は出来たが、慧は息を潜め、その様子をまるで刑事の張り込みよろしく見守ることにした。
左手には、ズボンのポケットに入れっぱなしにしていた型落ちスマートフォンが一台。これから起こるであろう少年少女の破廉恥行為の一部始終をムービーに収め、インターネット上で全世界に公開してやろうと目論んでいたのだ。
「マサヤングさんって?」
「ディベート部の先輩。ちなみに、二丁目の八百屋の息子な」
「もう……全然説得力ないじゃない」
「ファ――ッ! ごもっとも!」
静まり返った住宅地には全くもって不自然な、下卑た引き笑いがこだまする。不快。全くもって不快極まりない、俗物特有の笑い方である。同様の笑い方をする男を慧は一人だけ知っているのだが、これがまた救いようのないくらい、しょうもない俗物なのだ。
こんな俗物と交際してしまうような少女もまた、きっと俗物なのだろう。類は友を呼ぶ、とは言ったものだ。強く思ったのも束の間、俗物、もとい少年の右腕が、不意に少女のふくよかな胸の辺りに伸びた。
慧はとっさにスマートフォンのムービー機能を起動すると、録画ボタンを素早くタップ。普段は死んでいるはずの、その奥二重の両目は爛々と輝いている。掌にはじんわりと汗が滲んでいる。平凡で色のない日々を送る十七歳にとってレンズ越しの出来事は、まさに一大センセーションそのものだった。
未だかつてないスリルを楽しみながら、慧は徐にレンズをズームした――とその時だった。
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