覇府の長老
香鈴たちは小さな建物に案内された。
中は狭いがどことなく居心地がいい。
「幻庵様から直々の御接待、この出羽守まことに恐悦でござる」
声が弾んでいる。本当に恐悦しているらしい。
(父御を恐悦させるなんて、このおじいさん、すごい!)
「出羽守どのをここへ招いたのは二回目だったの。茶室の中じゃ、肩の力を抜いてどうか気を楽になされよ」
後年、山内宗二が最新の侘茶を伝授するが、この頃すでに幻庵の茶の湯は洗練の域に達している。
老人はぽつりぽつりと話し始めた。香鈴は手の甲を、ごしごし着物にこすり付けながら耳を傾けた。
「いくら姫が氏康殿の娘とはいえ、嫁いだ以上はもう今川家の人間なのじゃ。たった一人の姫の為に北条の大軍を動かすなどと、絶対あり得ん。大義名分が立たん。今はまだ国力を増やす時期じゃ。戦えば佐竹や里見が大喜びするじゃろうて」
二人とも黙って聴いている。
「そういう次第でそなたたちに頼む事にしたのじゃ。これは北条家の私事じゃ」
駿河の今川家が日に日に弱体化していることは香鈴も当然知っている。
そして甲斐の武田軍が駿河を侵略したことも知っている。
問題はここからだった。
武田が駿河へ攻め込んだとき、今川氏真夫妻は掛川城に逃げ込んだのだが、妻である北条氏康の娘が徒歩で、しかも裸足で避難したというのだ。
それを知った北条氏康の怒りは只事ではなかったという。ただちに大軍を率いて甲斐へ攻め込む勢いだったらしい。
「北条と武田、それに今川は長年の同盟関係じゃ。今川を攻めたは百歩譲って認めるとしても女には避難の道を作るものじゃ。それが、あるべき姿じゃ。本来なら籠を用意して丁重に扱うべきじゃ。それが関東の覇者たる北条への礼儀であろう」
(侍の妻になったら籠に乗れるのかな。自分で歩かなくていいって事だもんね)
香鈴は男と同じように歩き、働いてきた自分のこれまでを思い出した。
(そういえばあたし、昨日から全然休んでないわ)
それに気が付くと、急に空腹を覚えた。ちょうど良い具合に、茶室の扉を叩く音がした。
「幻庵様、食事の用意ができました」
「うむご苦労、運んでくれ」
見た目は精進料理であるが、肉も用いられているようだ。
「摂津の堺で今はやりの料理らしい。もっともわしら坂東人の口に合うよう手を加えておるがな、ふぉふぉ。どうじゃな香鈴どの、味の方は」
「これ、めちゃくちゃおいしいです」
「これ香鈴、幻庵様に対してめちゃくちゃなどと」
「いや構わん、素直な声を聴けて嬉しい。さ、食事の後は茶を立てて進ぜよう。その前に褒美の品を用意いたそうか」
幻庵が手を叩くと、桐の箱が持ち込まれた。
「開けてみなされ、香鈴どの」
中身は華やかな着物であった。質の高い生地が使われている。元々姫の物だが、輿入れする時に置いていったらしい。香鈴にはまぶしく感じられた。
「ここまでして頂いたら、是が非でも姫様をお助けせねばならんな」
(たった一人の女性のために何万もの大軍が動くなんて)
香鈴は会ったことのない姫の顔を思い浮かべていた。
雨が上がったようだ。