捕虜
香鈴は小屋の前で立ち止まった。
何か、さっきまでと気配が違う。
外からそっと中の様子をうかがうと、地べたに横たわっているはずの男が立ち上がっている。
しかも、先刻までの憔悴した様子とうって変わって、全身生気に満ちあふれている。
この男、武田の忍びだ!
香鈴はぴんときた。
仲間が危ない。
小屋に飛び込むと同時に小太刀二刀を構え、短く叫んだ。
「あんた、甲州の素破だね」
男はゆっくり顔を向けた。頬がこけているが、どこか人の好さそうな顔立ちである。
「必ず来ると思った。そういう催眠術をお前にかけておいたからな」
「さ、はぁ?」
香鈴は黄金丸の指示でここに来たのだ。催眠術のはずがない。
「さて、俺は今からここを、」「名を名乗んなさいっ!」
男は言葉を遮られてむっとした。顔に出やすい男らしい。
「忍びが名を名乗るとき、死が訪れる。敵か己のどちらかのな。それでもいいのか」
「いいから名乗んなさいよ!」
「・・・・・・」
二人は瞬殺の構えのまま対峙した。静寂だけが時を刻み続ける。そして先に静寂を破ったのは香鈴であった。
「助作っ!」
「なっ、誰が助作だ。勝手に付けるな。俺の名はな、おっと」
「助作でも田吾作でもいいから、早くかかってらっしゃい」
「ほぉ、腕に自信があると見える。ならば冥途の土産に名乗ってやろう」
「もういい」
「あ」
「あんたの名前はもうどうでもいいの。早くかかってらっしゃい!」
「あのな、男が名乗りを上げたら聞くのが礼儀ってもんだぞ」
「あらそう、じゃ聞いてあげるわ。できるだけ手短にね」
「手短にって、まあいいか。いいかよく聞け俺の名は」
そのとき人が近づく気配が感じられた。香鈴の仲間に違いない。
「邪魔が入ったな。お前を人質にして逃げるつもりだったが、一人で逃げるか」
「ちゃんと名を名乗ったら人質になってあげてもいいよ」
「なに、本当か。では素早く名乗ろう」
「やっぱりいい」
「え、どっちなんだよ。だめだもう間に合わない。お前はまた俺に会いたくなる。今催眠術をかけ直したからな。ではさらばだ」
小屋の中は死体と香鈴だけになった。
がらりと扉が開いた。黄金丸だった。
「どうした香鈴、遅いから心配したぞ。捕虜は?」
「さっき逃がした」
「そうか、ところで主水が来てるぞ。お前に用事があるそうだ」
「何の用?」
「直接会って聞いたほうがいい。大事な用みたいだ」
空が白み始めていた。
香鈴はなぜか甲州の素波の事を仲間には伝えなかった。