虫鳴き
香鈴の指名で虫丸が同行した。
虫の鳴きまねが得意な男だ。
そこからこの名前で呼ばれるようになった。
元々違う名前だったはずなのだが、今では誰も覚えていない。
「いい、あんたの得意な芸で、姫様を喜ばせるのよ!」
「芸って。術って言って下さいよ。これで敵の忍びをだました事だってあるんっすよ」
今川居館の前へ来ると、小春が出迎えていた。
若い男性が同行している事に気付くと熱い視線を向けたが、虫丸の姿を確認すると、ほんの少し落胆した表情を浮かべた。
「香鈴さま、ようこそ。奥方様がお待ちかねです。どうぞこちらへ。付き添いの方はこちらの控えの間でお待ち下さい」
「え、そうなんすか?」(なんだよ、来た意味ないじゃん)
部屋に通されると姫の姿があった。
「香鈴さん、と仰いましたね。素敵な贈り物、大変ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもありません」
「何かお礼をしたいのですが、ごらんの通りの借り暮らしで」
「いいんです、いいんです」
「そこで考えました。あなたにだけは本当の気持ちを伝えておきましょう、と」
「は、はい」
「なぜ相模へ戻りたくないか」
「……はい」
「私は、父上が……、ウザいのです」
「う、ウザい……!?」
初めて聞く言葉だが、語感からなんとなく伝わるものがある。
なんだかとても汚い言葉の様な気がする。
(姫様でもこんな言葉を使うんだ)
香鈴は姫の父君、北条氏康と対面した時の事を思い出した。
(姫の気持ち、ちょっとは分かるような気がするけど)
しかし今は、この姫に小田原へ戻ってもらうよう説得しなければならない。
「ですけど、いいお父上だと思いますよ。何より姫の身を案じておいでですよ」
姫は目をそらし、脇息に肘を乗せてに頬杖を付き、「ハァ」とため息を漏らした。
「そうね、香鈴の立場だったらそう言うしかないわよね」
姫は、過去にあった出来事を語り始めた。
着物を仕立てたら「生地が贅沢だ、四公六民がどうだ」と言って家臣を叱って廻わった事。
面倒になってそれを着なかったら「着物一つ作るのにどれだけ多くの人がなんちゃら」とか。
(あ、それ褒美のことだ)
兄だか弟だかが、ご飯に汁を掛けて食べたら、「掛ける量が多いだの少ないだの」で大騒ぎ、とか。
いちいち細かくて、もう本当にうんざり。
と言うような事を、繰り返し香鈴に話した。
香鈴の目には、甘やかされて育った、世間知らずの女にしか映らなかった。
(氏康様が悪いんだわ。過保護にするからよ)
香鈴は軽い怒りを胸にして玄関に戻った。
季節外れの虫の鳴き声が聞こえる。
聞き覚えの無い、男の声もする。
「いやぁ、風流じゃのう。この季節に虫の音が聴けるとは。あっぱれあっぱれ。おっほっほ」
「虫丸、行くよ!」
ふすま越しに声を掛け、香鈴はさっさと館を後にした。




