暗雲
姫は宙を見据えていた。
相模に戻らないって、どういう事だ?
主水は混乱する頭で考えた。
もしかすると、これまで一方的に考えていたのかも知れぬ。
凋落する今川家を嘆き、故郷を恋しがって一刻も早く相模へ戻りたがっている。
そうに違いない、と勝手に決めつけていたのだ。
無理やり連れ去るという訳にもいかんしな。やろうと思えばやれなくもないが。
主水は考えながら辛うじて言葉を吐いた。
「姫、父君がいたく心配なさってござる」
「心配いらぬと伝えて下され」
即答、そして口調が冷たい。
「しかし……」
「奥方様がああ仰っているのだ、早々に立ち去れ」
泰朝の声が一段と荒い。
「さもなくば……」
「お待ち下さい、矢傷を負って動けぬ者がおります。せめて二、三日なりと滞在のお許しをっ」
「殿に申し上げます」
場の空気を破るように、ひとりの老人が声を上げた。
あっ、あの人、落馬した若武者を一緒に助けた人だ。
香鈴は覚えていた。
「お恐れながら、この者らは弟君の命の恩人にござります」
「それがどうした」
「義理を忘れては遠州人とは申せませぬそうで。せめて一日二日なりと滞在のご許可を。万一の事あらば、拙者腹を掻っ捌く所存にて」
「じい、おぬしが腹を切っても畳が汚れるだけだ」
その時だった。
「六左衛門、よくぞ申した」
一目でそれとわかる歴戦の老人が現れた。白髪が更に風格を増している。
香鈴は見覚えがあった。
(あの人、先頭を切って突撃して行った、派手な甲冑の人だ)
朝比奈家臣団が老人に頭を下げた。
(誰なんだろう?)
入れ替わりに姫が出て行った。
(ああっ、姫が行ってしまう、成功報酬がっ!)
「刀か?」
老人は、息も絶え絶えな才可を見て言った。
「いえ、矢でございます」
主水が答えた。矢であることは間違いないのだが、沼津でやられた事は黙っていた方が良さそうだ。
かなりの人物だな。確か先代は死んだと聞いていたが、一体誰なのだろう。
老人は城主の方に向き直った。
「泰朝殿、共に敵と相対した以上、この者らも我が家中と同然かと心得るが如何かな」
「しかし叔父上……」
なるほど、先代の弟か。
老人は穏やかな笑みを浮かべて返事を待っている。
「わかった、叔父上の言うとおりに致そう。誰か、この者らを労わってとらせ!」
「ははっ!」
城主は、足音荒く広間を去った。
老人は、甥である城主の背中に頭を下げていた。朝比奈俊永と言う名は後から教えられた。
抜き身を構えていた兵たちは安堵の色を浮かべていた。
外は暗雲が立ち込めている。
一雨来そうだ。




