第八話 残された者達
後ろを振り返る頃には、底知れない闇の中にすっかりと取り残されていることに気が付いた。それでも構わずに進み続ける。前方から対になった柱が現れては、脇を通って夜の霞の中の影のようになって姿を暗ます。黙々と続く行軍の中で、ある者は目を伏せ、ある者は手を握り締め、ある者は考えないようにして、またある者は意味の無い信仰に身を任せていた。泥と水が油を足して混ざっていくような奇妙な時間が続く中、五人の足音だけが規律正しく響く。永遠のような距離を、確実に一歩づつすり減らしていく。ようやく辿り着いた、この機を逃さないように、闇に埋もれそうな足元に深く突き刺すように歩を進める。やがて誰もが振り返らなくなり、前進するのみになる。敵は一つも無い。星空の雲の無い事を思えば。しかし、光の見えない道筋にもようやく終わりが見えて来る。五人の前に、主の間へと続く巨大な扉が現れたのだ。城の内部であるはずなのに、彼らの幾数倍もの高さのある扉も、暗闇の為に掠れてはいるが、全て黄金で作られていた。ネアビスは一呼吸おいて、その壮麗であろう扉に、周囲を凍て付かせる冷気を放つ剣を突き立てた。黄金で出来た扉は泥のように剣を飲み込んで瞬く間に青白い氷山と化した。ネアビスは剣を抜き去り、ナイジュフに砕くよう命じた。ナイジュフは燃え盛る炎斧を振り翳し、一撃叩きこんだ。氷山は音を立てて崩れる。崩れゆく扉の隙間からは朝の陽光のような真白の閃光が全てを包み込むが如く彼らの前に立ちはだかった。
―――ネアビス―――
光源は、目が慣れてくれば、白色で無い事が分かった。鮮血とも思しき紅蓮の大火なのだ。それが龍の形を成して、一人の女性の周囲を渦巻く。渦中に居ながら落ち着き払った彼女は、短い茶髪を靡かせていた。青い耳飾りが上昇気流に乗り、炎に照らされて紫電のように反射した。ネアビス達は身構えた。女性は淡い桜色の唇を静かに動かして、もう一度その名を呼ぶ。
「ネアビス……」
ネアビスは咄嗟に剣に冷徹な青い炎を纏わせ、エリサは暴風を、ナイジュフは火炎を武器に与えた。ナリィは弓を引き、いつでも放てるように備えた。
ただならぬ殺気が溢れ出ていた。大天使や雷日神、風美神など比にならない程の、まさにこの、全方位を黄金の遥か天井まで続く書架に囲まれた広大な空間ごと消し飛ばしかねない程の圧倒的な威圧感が、彼らにここまでさせていた。災厄の前兆に風も波も逃げ失せるように、体中の血液が逃げ場を求めて彷徨い、危険の多いであろう指先などはすっかり冷え込んでしまっていた。それでも彼女は頬に微笑すら浮かべて平穏であった。軽く結えられた口元が綻び、言葉を口にする。
「なにもそこまで畏れる事はなかろう。人の身でありながら天界に昇り詰めたものは、そして、この神々の城の主の間に辿り着いたのは貴様らが初めてなのだから」
ネアビス達は目を見開いた。彼女の傍らから、すでに追い抜いたはずの雷日神と風美神が姿を見せたのだ。
「貴様ら……!!」
ネアビスの剣は更に青い炎を噴き上げた。それを制すように女性が笑う。
「恥じる事はない。また、詫びる事もない。貴様らは勝ち目のない戦いに挑んできたのだから。神に挑もうなどと考え付いただけでも充分ではないか。これ以上何を望むか」
ネアビスは鋭い眼光で平穏な面持ちの女性を睨みつけた。
「運命を変える事だ」
それを聞いて女性はいかにもしおらしく、口元を覆い嘲笑った。
「運命の下人は皆平等であったはずだ。それは決められているからこそなのだ。この決定が無ければ、人間なんぞはこの世界に生きてはこれまい。なぜかと問いたげだな。答えてやろう。
人間は欲に塗れた生物なのだ。その強欲の為に、人は人をも喰い尽くす鬼になるだろう。やがてこれが世界の全てに広がればどうなるか。そうだ、ありとあらゆるものが貪られ、世界は終焉を迎える事となる。これは運命ではなく、必然なのだ。この必然を回避する為、人間は管理されなければならない。運命とは定められて必然をも凌駕する力を持つべきものなのだ。それは他ならぬ世界の為、ひいては人間の為ともなる。故に運命とは在るもの、在るべきものなのだ。」
そこまで言い終えて、端整な顔立ちに瞑ったままの目は、闇夜に包まれていた草原にその終わりを告げる黄金の朝陽が照らしていくように、ゆっくりと開かれていく。
「その運命とやらが、必然に飲まれ、人も、世界も、天界魔界に至るまでを不幸にしているとしてもか!!」
ネアビスは逆上して切りかかった。だが、その剣は女性の寸前で、紅蓮の炎に受け止められていた。開ききった彼女の瞳は、はち切れんばかりに深く紅玉の色に染まり上がり、ネアビスを観察していた。次いで首を傾げて紫の笑みを浮かべる。
「運命が在ろうとも在らざろうとも不幸にはなるだろう。生きているだけ有難く思ってほしいものだ。特に、貴様のような大罪人にはな」
女性の言葉を遮ってエリサとナイジュフが強襲するも、ユユキュオスとニスオスがそれぞれを抑えた。
「貴様は、一体何を知っているのだ? 少なくとも私同様に三界を統べた貴様の祖父になら分かると思うのだが、運命とは、これ程便利なものは無い。全てを治める為に必要不可欠なのだ。それを、貴様の祖父は、『イアビス』は、愚弄し、在ろう事か、その根底をも覆そうとしたのだ。奴が何をしたのかは、すでに聞いておろうな」
シーカが詠唱してネアビスの蒼炎は更に勢いを増したが、紅蓮の業火は俄かに動いただけだ。女性は、猶も涼し気に笑んでいる。
「忘れたとは言わせんぞ『イアビス』 貴様のしでかしたこと、私の力を盗み取り、人間なんぞに与えた事を……」
ナリィが風矢を打ち放ったが、その風は女性の携える炎龍の体に消えていった。
「神の力を得た人間は、やがてその力を使って私欲の為に如何なる事も行うだろう。運命でさえ標的にする。運命と謂えど神の力には敵わぬのだから。
運命とは、治界の最大の手段である。それを破滅させようとするのは、天世魔の三界を破滅するのと同じなのだ。奴は、イアビスは、貴様の祖父は、今にも全てを破壊し尽くす人間なんぞに私の力を盗み与えたのだ! これが大罪以外の何と言えようか!!」
語気が強まると同時に、ネアビスの寸前に爆炎が上がった。彼は紅蓮の炎を押し払い、その反動を利用して女性から距離を取った。
間髪入れずに炎龍が大口を開けて襲い来るがネアビスは蒼炎の剣を両手に持ち、火炎を一太刀にした。
「なぜだ……」
火炎が散り消え、見えた姿は物憂げに俯いている。彼は微かに空気を震わす声で繰り返した。
「なぜだ……」
女性にはすでに先程の笑みは微塵もなくなり、目の前の彼を見ている。彼の事を、眺め、続いて湧いてくるのは大罪人の事であった。女性はその譫言を消し去るように獄炎を振り抜いた。彼は迫り来る炎に顔を上げると同時に、天上に咆える様に叫んだ。
「なぜ罪の無い義家族が死に絶えて、俺が生き残ったのだ!!!!!」
ネアビスは怒りに身を任せて刀身の何十倍にも膨れ上がった蒼炎を、炎神の獄炎に叩きつける。青と赤の炎がぶつかり、真白の大閃光が上がり、やがて轟音と共に一面を黒煙が埋め尽くした。ネアビスが黒煙を切り払うと、女性の声が聞こえた。落ち着き払った冷徹な声である。
「それもそうだ。私も終に決心したのだよ。人間は、世界は、滅びの運命の中に在らねばならないと、な」