第四話 一滴の雨
穏やかな天の海は、夜でありながら星明りに照らされて青白く輝いていた。風が凪いでいて、波はなく、空を鏡のように反射する。砂浜、と呼んでも良いのだろうか、雲の粒子が細かく、地上の砂浜よりもずっと柔らかかった。その砂のようなものが発光し、海を底から照らしているのだ。照らされる海も無色透明に透き通っていて、シーカは、舐めても少しも塩辛くないですよ、とネアビスに言った。二人は浜辺に隣に腰掛けて、永遠とも思える水平線を眺めている。星明りに、雲明りに、月明りに照らされながら、二人の影は三重以上になって、柔らかい風の中に包まれて。
「夜は、冷えますね」
シーカは小さな体をその小さな腕で包むように座っている。そこまで薄手ではないが、彼女は震えていた。ネアビスは鞘に納めていた剣を抜き、火を点けた。
「これで、少しはましか」
剣をシーカの前に置き、ネアビスは訊ねた。シーカは肯いた。
「はい。ありがとうございます」
彼女はそう言って、薪をくべたように美しく燃え上がる炎を眺めている。ネアビスは朱色の炎に照らされる彼女の横顔を見る。光源が揺れて様々に照らされるので、彼女の表情が移り変わっていくようにも見えた。
笑顔、泣き顔、困った顔、怒った顔。
知らないはずの彼女の表情を、すでに見知った彼女の表情を順に辿るように思い出していった。二人は、この旅で一番長い付き合いなのだ。大陸を随分遠回りしながら縦断したのだ。相応の月日が経ったはずだが、未だに、ネアビスは彼女の事について何も知らない。それはこの旅の中で知り得たことを除いて、なのだが。
「あの、ずっとお聞きしたかったのですが、よろしいですか?」
ふと、シーカがネアビスに切り出した、ネアビスは彼女が振り向いた時に、咄嗟に顔を逸らしたが、また振り返って肯いた。
「ネアビス様はどこで、お生まれになったのですか?」
丁寧な言葉遣いには似合わない、彼女は純粋な子供のように首を傾げた。ネアビスはそんな彼女を見るのが、初めてなようで初めてではない気がした。ネアビスは水平線の方に目をやって、一つ一つ確かめるように答えた。丁度、その方角に月が沈み始めた頃だ。
「俺は、ここからずっと東の国で生まれた」
「東の国、ですか?」
「ああ、そうだ。ここよりも矮小な国だ。小さな島の上にある」
「島の上の国……。それは、どのような国なのですか?」
「ここよりも、ずっと文化の遅れている国だ。だが、人は良く、自然は美しかった。花も、木も、海も、月も、それぞれの色を持っている。風は歌い、雨は踊り、大地は眠っていた。そんな場所だ。
千の海を越えたところにある故郷。この大陸に比べれば、山々は全て青々としていたし、耕作も上手くいっていた。荒れ地というものをこの大陸に来るまで知らなかったぐらいだ。そこには大勢とはいかないまでも、多くの人が住んでいて、自然と共に暮らしていた」
「へぇ……」
ネアビスがシーカの方に向き直ると、シーカはじーっとネアビスのことを見つめていた。炎の光が彼女の瞳を煌かせて見せた。彼女は魂がここではないどこかにあるような表情をしていた。無表情ではなく、うっとりと、何か天の国にでも、行っているみたいに。彼女は上の空のまま口走った。
「行ってみたいです……。ネアビス様がそんなに熱心にお話しされる、その国へと……」
彼女の言葉にネアビスは苦笑した。その表情も気にせずシーカは尋ねる。
「お友達などは?」
「友達か……。もう随分前の事だから忘れてしまっているかも知れないが、特に仲の良かったのは、シンシア……だ」
彼女のことを思い浮かべてしまう。ネアビスは沈み始めた月に目をやった。
「シンシア……ですか?」
「シンシアだ。この名前だけは絶対に間違っていない。彼女の容姿や声を、忘れたり出来ない」
ネアビスは月を睨んだ。それでもシーカは質問を止めようとはしなかった。シーカには時々そういうところがある。
「どんな方だったんですか?」
「俺と同じ年に生まれ、俺よりもしっかりしていた。俺は、幼い時は病弱だったから、よく村の子供たちにいじめられていたんだ。そんな俺を助けてくれたのが、シンシアだった」
遠く、あまりにも遠い記憶であるように思える。少年たちのからかう声が聞こえてくると、不思議と彼女の記憶が鮮明に蘇る。
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森の中に小さな原っぱがある。そこに複数の子供が少年一人を取り囲んでからかっていた。少年は木の棒を持って彼らに抵抗するが、振りかざした所で足を取られ、あっという間に取り押さえられた。少年は何とか振り払おうとしたが、呼吸が苦しくなって力が入らなくなっていく。子供たちも彼の様子がおかしいことに気付いて、急いで彼を解放したが、彼はうずくまったまま動けずにいた。子供たちもどうしたらいいのか分からず立ちすくんでいると、背後から声を掛けられた。
「どうしたの?」
子供たちが驚いて振り返ると、そこには見かけたこともない少女が立っていた。彼もほんの少し、その少女と目が合った。今まで見たこともないような美しい翡翠色の目をしていた。それからふわりと意識がなくなって、結局自分がどのようにして助かったのか、彼には分からなかった。
目を覚ますと、彼の目の前には先程見た綺麗な翡翠の目があった。少女が彼の目の前にいた。彼女は彼に微笑みかけて、良かった、と呟いた。
「お母さま、目を覚まされましたよ!」
「ほ、ほんと!?」
母の声が聞こえた。彼は今自宅にいるのだと気付いた。どこか安堵して、少年は再び深い眠りについた。
少年が目を覚ますと、自宅には母と兄弟姉妹と、その不思議な少女との共同生活が始まっていた。彼の母はその少女に息子を助けられた恩を感じて、行き場のない少女を自宅に住まわせることにしたのだ。この奇妙な事態に、少年は始めの内こそ戸惑っていたが、次第にそれが当たり前になっていった。少女の名はシンシアといった。シンシアはネアビスとそんなに年も離れていないようだが、彼よりもずっと大人びており、彼と子供たちの間でいざこざがあると、間に入って仲介するのが常だった。一方のネアビスは母に剣技を教えられ、しばらくするとチャンバラでこの村の子供たちを制するようになり、いつしか村随一の剣士に成長していた。
月日を重ねるごとに、シンシアとネアビスの仲は親密になっていく。それはシンシアと出会ってから七年後の事だった。
ネアビスの故郷には海が無かった。しかし、代わりに海のような巨大な湖があった。四方を山々に囲まれ、森の草原の中にぽつりと、広大でありながらこじんまりに見えてしまうその湖。二人は並んで浜辺に腰掛けて、山の向こうへと沈みゆく月を眺めていた。その日の月は満月では無かった。三日月分欠けている月だった。出来損ないの天を笑って、その後沈黙して、風が吹き抜けて森の木々や草木や湖面をゆらりと揺らしていくのを聞いた後、ネアビスは切り出した。
「ずっと昔から憧れていたことがあるんだ。この小さな島から抜け出して、もっともっと広い世界を知るために、俺は世界中を冒険したいんだ。だから、シンシア、もし良かったら――――」
―――――俺と一緒に旅に出よう―――――
未完成の月が夜空を支配するその日。シンシアはそれに照らされながら、照れくさそうに肯いていた。
その後、シンシアは帰らぬ人となった。シンシアだけではない。母も、兄弟姉妹も、昔いじめっ子だったが今はすっかり仲の良くなった友人達も、ほとんど顔見知りだった村人も、誰一人として、生き残った者はいなかった。
ネアビスは剣を抜いて天を差し、完成した月に咆哮した。
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ゆっくりと揺れ動いていく時間の中で、彼女の事を思い出していく。それらが積み重なって、彼の中で沈殿していく。彼の奥底に眠っている記憶が、今でも燃え盛っている彼の剣の炎なのだ。運命を変えると誓った、彼の炎の記憶なのだ。忌々しくも、優しい思い出なのだ。