第十四話 残された希望
今にも消え入りそうな掠れ声でも、閑静な天上ではきちんと届く。乱暴そうでどこか温かい声。ネアビスは、大口を開けた古城の方を見た。そこには、両腕と片足を失い、残った一本足で地面を這い進むエリサの姿があった。風の力で傷口からの出血を止め、生き延びていたのだ。ネアビスは声を上げた。
「エリサ!」
「オイオイ……、二人でお楽しみのところすまなかったな……」
シンシアは剣を胸元から離し、ネアビスはエリサの下に駆け寄る。
「へへへ、情けねぇよな……。こんなに無様な姿で……」
エリサは優しい笑みを浮かべ、ネアビスを見上げ、続いて、大天使の方を向いた。大天使は目を伏せていたが、エリサに見られている事に気付くと、視線を返した。エリサは微笑んだ。
「ネアビスを殺す前に、私の頼みを聞いてくれないか……?」
エリサはそう言って、ひょっこりと片足で直立した。そして一本足で跳ねて、大天使の目前に向かう。ネアビスはその背中を見送る事しか出来なかった。
「いいでしょう。それが終われば、あなた達を処刑します」
大天使は冷たく言い放った。視線の先の、一本足のエリサは殆ど全身を血塗れにしていた。傷もあり、砂埃に黒ずんでいる個所もあった。それでも彼女は笑顔で大天使に話しかけた。
「ちょっとだけ耳を貸してくれぇ……って、あ、倒れる! 倒れる!!」
エリサは体勢を崩して頭から転びそうになった。ネアビスは咄嗟に駆け出すが、それよりもずっと速く、エリサは大天使の腕に受け止められた。その剣は彼女の手から滑り落ち、雲の大地に突き刺さった。
「あ、ありがとうな……!」
エリサは満面の笑みで彼女の目を見つめた。
「あともう一つ。出来ればこのまま、シンシアに抱かれていたい……」
シンシアは無言のまま頷き、エリサを赤子のように抱きかかえてゆっくりとその場に座り込んだ。シンシアは静かに、耳を傾けた。エリサは掠れた声を振り絞った。
「シンシア。あんた、私達と冒険した事、覚えてるか?」
問いかけにシンシアは何も言わず、何もしなかった。だが、目を見れば分かる。黄金色の瞳が静かに閉じられた。
「世界は、思ってたよりも広かった。私が知っていたよりも、ずっとずっと広かったんだ。そこには色んな人が居たよな。ゴミみたいなやつ、それ以下のやつ。私の仲間みたいに最高なやつ……。戦争が好きな貴族も、もう止めたいって泣きべそかいてる戦士も、良く分からない事抜かしてる王様も。良いやつも悪いやつも、一緒にいる。空は、国ごとに、歩く度に同じに見えて変わっていく。空だけじゃない。風や、雲や、光や、音が、移っていく。隣には、川が在ったり山が在ったり、何も無い事は無かった。常に、私達は何かの側に在った。青く、黄色く、赤く、白く、黒く、歪んでは混ざり、融け合って、新たな風景に変わっていく。その中を私達は旅して来た。
そんな広大な世界を全部支配しようとするなんて、人間って馬鹿だよな。それを自らの意思って言ってるのが滑稽で仕方がない。私はさ、兄弟達と喧嘩して、ウグノイクの兵隊どもを追いかけ回して、騒ぐのが楽しかったんだけど、たまに、何で戦ってんのか分からなくなる時があるんだ。元から理由を知ってた訳じゃないけどさ……、でも、本当に何の理由もない戦いってあるんだよ。人が、人を殺すだけの戦いが。国が人を殺すだけの戦いが。時には、天使やら魔王やらがやって来て、罪の無い、生きとし生けるものが躊躇なく殺されていく事だってある。
私は、そんなに偉い訳でも、勿論罪が無い訳でも無い。自分が奪ってきた命を補償するなんて、生まれ変わっても出来やしない。
でも、そんな事が、そんな戦いが、本当に意味の無い戦いが、全部神様の都合で、『ウンメイ』で片付けられる事が許せないんだ。治めるのに必要なのかどうだか知らないけど、それでも、それでも、それでもさ……!
って言っても、どうせ私には分かんないよ……。シンシア、どうして運命ってあるんだと思う?」
シンシアは瞳を開いてじっと、エリサを見つめた。エリサはそれを確認すると、再び口を開いた。
「やっぱり分からないよな……。でもさ、こんな運命でも、みんなと出会えて、出会えるのなら良いものなのかもって、思えるんだよな。もうみんないないけど、楽しかったんだ。ここに来るまで……。
馬鹿みたいな兄弟囲まれて生まれて、みんな死んでいって……。でもウグノイクで二人と出会ってから、お尋ね者だって言われて追いかけ回されたり、砂漠ではあのバカに主人を射抜かれて、その手当で結構時間喰われたし。イデでは街中でネアビスが大男と絡んで喧嘩初めるし。グナイクの村では可笑しなおじいちゃんが『連れてけ』って駄々こねるし、それまでの旅路でしつこく付きまとって来た変態が仲間になったし……。
一番の思い出は、一番最悪なのは、野営の時に、死ぬまで言っちゃダメなんだろうけど、あの戦士とあの弓取りの情事を見ちゃったんだよ……。反吐が出そうだった。全然そんな雰囲気出てなかったけどね……。意外だったなあれ。
最高に楽しかったのは、何だっけなあ……。みんなと食料を巡って争ったのが楽しかったな……。その間おじいちゃんと変態はのんびり絵を描いてるし、ご主人は寝てたな(寝言可愛かったけどね……。)シンシアは、確か、一歩引いて見てたから、私は、あの阿保二人と取り合ってたのか、今思い出しても笑いそうだ……。
あと、みんなと自棄酒飲むのも楽しかったなぁ……。ああ、早くみんなに会いたいよ……。本当に色々あったよね、シーカ? あ、シンシアか!」
シンシアは笑みを浮かべて、頷いた。その瞳は翡翠の色になっていく。
「広い世界の、ほんの一欠片しか見れなかったけど、この旅で私は感じたんだ。世界は変わっていくんだって。人も動物も植物も、森も山も海も大地も、風や雷や水や炎も、全部が全部そうなんだ。一つだけ変わらないものがあるのなら、それは、生まれたら死ぬという事。
運命が死という必然を先延ばしにするだけなら、せめて、死ぬまでに自由に生きてみたかった。運命を、いや変えなくてもいい。抗えるだけの力があれば良かった。嫌なものは嫌だって、神様に言われても跳ね除けられる力が私にあったら良かった。人は、……人だけでなくて全ては、余にも無力だ。今は何も神様に、運命に、抗えない。
だから、シンシア、ネアビス。もし二人が神様に成るのなら、運命に抗える力を、全てに、与えてあげて……。これが、私の最後の言葉……」
シンシアは優しく、瞳を閉じたエリサの頭を撫でた。子供をあやすように、温かくて震えそうな程に。彼女の目には涙が浮かんでいた。美しい宝玉のような涙がエリサの頬をそっと撫でていった。
「エリサ……」
そうとだけ呟いた。エリサの傷口から血液が滴り始めた。シンシアはそれらを光の魔法で覆う。そこから零れ出た血が、光に変わって空の彼方へと舞い上がっていくように。傷口を全て覆ってしまうと、シンシアはエリサを抱き締めた。
やがてその翡翠色の瞳はゆっくりと視線を上にして、勇者の顔を見つめる。勇者は目を伏せ、拳を握り締めていた。その翡翠の瞳は、しかし、次の瞬間には別のものを捉えた。彼女は叫んだ
「ネアビス、後ろ!!」
突然の事に、だが彼は直ぐに反応して刀を振るった。青い刃の脇を、衛天使の生き残りがすり抜けていく。衛天使は事切れたエリサの頭を切り裂いた。
「ツギハアナタ」
衛天使が剣を振るう。その腕は、瞬間、その首は刎ねられた。衛天使の首は、天使の法則に反して、光に変らず、薄暗い青の鮮血を雲の大地に撒き散らし、ぽとりと、転がった。
「あ……。あ……!!!!!」
金色の天球が青褪めていく。彼女の瞳は、青を映し、緑を映し、翡翠を映し、天球の金色を映した。翼を広げ、黄金の空気を貪った。その代償は、瞳の中に現れた。
「やはり、あなたは……」




