第十三話 軋む歯車
「シンシアッ!!」
ネアビスは彼女の振るう剣を躱して叫んだ。剣は空を切り、勢いで彼女はネアビスに対して背を向けていた。
「お前は、シンシアなんだろ!?」
ネアビスの呼び掛けに、彼女はゆっくりと振り返っていく。瞳は翡翠の色から青銅色の間を変化して、本当の色を表さない。彼女は戸惑ったように笑みを浮かべて振り向いた。
「何を仰っているのですか、ネアビス……様?」
「シーカ……? いや違う……」
ネアビスは彼女の瞳を見直した。それは黄金色に冷笑している。
「何を言ってるのですか?」
彼女は淡々としていて、表情に大差は無い。それは雨と雪の空のようである。シンシアでも、シーカでも無い。そこに居るのは天使なのだ。大罪人を処刑する大天使であるのだ。彼女は再び攻め掛かった。その瞳は一層強く黄金色の輝きを帯びていた。
「まぁ、狂っているのでしょうね」
飛来する彼女は剣を下から上へ斬り上げた。ネアビスは寸前で避けるが、掲げられた剣の範囲内に居る。
「だからこのような悪行が重ねられるのでしょうね」
咄嗟に回避するが、振り下ろされた切先はネアビスの額を掠めた。大天使は冷笑を捨て、無表情になった。
「あなたは罪深い人です。運命に背き、天上の掟を破り、神を殺し、全てを破壊しようとしている」
彼女は大罪人を凝視し、逃がさないよう狙い澄ました一撃を叩きこんだ。大罪人は後ろに跳躍し、距離を稼ぐ。大天使は飛翔して黄金の空を背に、大きな翼をはためかせる。その白い手は、光で形作られた真珠色の長剣を天高く掲げていた。
「もとより、あなたの生きている事こそが罪なのです。あなたのご先祖の為に、神々は苦心なされ、人類は新たな苦しみを強いられる事となりました。お陰で、私は地上に降り立ち、あなたを探さなくてはなりませんでした……っ!」
大天使は言葉を切り捨て、大罪人に向け剣を振り抜いた。その光剣は強く輝き、波状の光波を巻き起こす。それは天より飛来して、雲の大地に一線を刻み込んだ。だが、大罪人を捉える事は出来なかった。
「何故です。なぜ躱すだけなのですか?」
「お前を傷付けたくはない」
ネアビスは凛として佇んでいる。武器を構えず、彼女の瞳を見ている。大天使は静かに息をつく。
「あなたは何も分かっていないのですね。私は……」
大天使は一度目を閉じて、ネアビスを見返した。
「私は、不死の大天使。神よりの銘を、カー・シンシアと言います。大邪神の子であるあなたを葬る為に地上に降り立ちました。しかしその目的を達成できず、現在の最悪の結果を招いてしまいました。全ての責任は私に在り、かつ、私は未だ使命を果たしていません。あなたを殺すという、使命を!」
大天使は大罪人に猛攻を仕掛ける。それをネアビスは間一髪のところで躱していく。攻撃の継ぎ目に、ネアビスはシンシアに問いかける。
「それならお前はずっと、俺の命を狙っていたのか」
「いいえ、今までは記憶を失っていました」
「その記憶はいつ失くした」
「神々が悪人の村を粛清した、あの日です」
そう言って彼女の振り抜いた剣がネアビスの左腕に傷を付けた。ネアビスは後退して間合いを取った。
「その後の記憶はありません。気付けば、ウグノイクで奴隷にされていました」
大天使は剣を構え直した。
「後はあなたも知っての通りです。私は、あろうことか、記憶を失った魔術師として忌まわしい計画の一端を担ってしまいました。そうして今、記憶を取り戻す事になったのです」
彼女は自嘲する様に言った。
「記憶を取り戻しても、敬愛すべき神はもう居ない。記憶を失くしたまま、邪悪なあなたの側に居る事も出来ない。
複雑に絡み合った運命があらぬ方向の未来へと突き動かしているのか。それは決してあってはならない事、神の意に反する事。いや、あの日私があなたを殺せていれば、運命は変わらなかった。」
ネアビスは大天使を見つめる。伏し目がちだった大天使が、突然睨み付けた。
「私は、やはりあなたを殺さなければなりません。それが私の、あなたの前に現れた唯一の理由なのですから」
一陣の風と共に、大天使はネアビスに剣を突き付ける。しかし、ネアビスは一向に動こうとしない。ネアビスの目には映っていなかった。大天使も、目の前に居る彼女も。彼の見ていたものは唯一、シンシアである。ネアビスはすでに落ち着きを取り戻していた。そしてこう切り出す。
「シンシア。お前が俺を殺したいと望むのであれば、もう好きにしてくれていい。俺も目的を果たすことが出来た。今度はお前が、自身の目的を果たす番だ。だが一つ、最後に訊かせてくれ」
剣はネアビスを心臓ごと貫く直前で止まっている。ネアビスの言葉に、シンシアは静かに耳を傾けていた。
「何故あの時、俺を助けた」
「……!」
「初めて会ったあの時、何故俺を助けたんだ」
シンシアは一言も答えずに沈黙した。顔を伏せ、ただただ、ネアビスの胸元に切先をあてがっている。亜麻色の髪が肩と翼に掛かり、俄か、風に美しく靡いた。
「あなたは、あの場所で死ぬ運命では無かったから」
二人の下に再び風が沈黙を運んできた。彼女は目を伏せたまま、単調に訊ねた。
「それだけの事です。これで良いでしょうか」
「……ああ」
ネアビスは静かに頷いた。シンシアはあてがっていた剣を離し、勢いを付けて標的に突き刺す。そして全てが終わる。筈であった。
「……待て!!」
だが、歯車の軋んだ叫びが天上に響いた。それが大天使の処刑の手を、寸前で止めたのだった。




