第十二話 覚醒
ネアビスは無表情のまま、崩落する壁と、飛行する運命の書を眺め、視線は、炎に焼き包まれた炎武竃神の下に戻る。炎武竃神は片刃の剣を構え、微動だにしていない。彼女の周囲に火炎が広がり、火花を上げて燃え上がる。揺らぐ陽炎があの日の残像と思い起こされる。光り輝いていた黄金の間も、崩落個所から外の闇で満たされていく。星々が僅かに空を照らし、火の粉が藍色の星間に消えていく。
「人間の力。貴様の力を甘く見ていた」
闇に映し出された彼女は頬を朱く影は揺らぐ。あの日の様にただ一人俯いていた。
「護るべきは失った。全て、な」
彼女の声は身を焦がす程の燃焼と共に、風の中に消えていった。渾碧の刀を構えて、彼女を見据える。静かに、闇に融ける様に。俄かに笑みを浮かべ、彼女は剣で炎の花弁を振り払った。
「変えたければ、己の力で変えてみろ。貴様の運命も、人間の運命も、与えられしその全てを!!」
顔を上げて炎武神は攻め掛かる。ネアビスも呼応するように刀を振るった。刃の交わる音だけが暗黒の中に響いた。
「神に刃向う者は、貴様で最後だ」
未明の猛獣となって口を開けた古城から炎武神と滅尽の勇者が飛び出す。交わる刃は火花を散らし、鎬を削り、無音の天上に弾ける金属音を打ち鳴らす。
何度も、何度も、何度も、淡く光る雲の大地の上に、無情の時間の中に激しく刻まれていく。寸分狂わない精巧な瞬間に刃と刃は互いを斬り合い、退け合い、傷付け合った。
明瞭な聖なる炎と混沌の根源となる黒影が未明の空の下で重なり轟く。陽炎と紫電が混ざり、交わる刃から玉色の光が吹き上がった。
互角に渡り合う炎武神と滅尽の勇者。発光に姿を暗ましながら、ネアビスはヌグニットの斬撃を紙一重の所で躱していく。右へ左へ、ヌグニットに振り抜かれた剣筋が発火していく。
紅の炎に照らされてネアビスを取り巻く黒影は更に深くなり、ヌグニットの隙の無い攻撃から隙を見出す。ヌグニットの振るう剣を弾き、開けた腹部をネアビスは切り裂こうとする。だがヌグニットは咄嗟に炎の鎧を纏った。
それは激しく燃え上がり、噴き上げる黒煙すら飲み込まんとする勢いで膨張する。ネアビスは一気に引き下がり、猛火から距離を取る。火柱は天高く燃え上がり、暗黒の中を貫いた。驚異的な威力が勇者をも飲み込んでしまった。炎に包まれながらにして、彼を取り巻く黒影すら焼き焦がしていく。
「神を、憎むべき神を前にしてこの様なのか。俺は何も変えられないのか。自らの命一つすら、運命の掌の上のままなのか……?」
ネアビス……!!
ヌグニットは目を瞑った。終わったのだ、と。火柱は闇の中に朽ち果てていく。それは炎武神の切り札『炎纏』が尽きた瞬間だった。しかし、ネアビスは魔の衣を纏い、彼女の前に立ちはだかっていた。
足場を刈り取る如く、ネアビスは深く踏み込んだ。ヌグニットは驚きを隠せず、迎撃の準備など出来るはずも無い。
ネアビスは見逃さなかった。影の力を得たその勇者は、雲を蹴り闇を駆り、燃え落ちる彼女の火の鎧ごと、思案に落ちた渾碧の刃を振り抜く。
……。
沈みゆく光の中で、彼女はあの日の情景を見た。蹲る彼女は、身籠って居た。後に、消えゆく運命にあるその子は、名も無く地上に落とされた。自らの出生も知らず、人として生き抜き、一人の子を儲ける。彼の子は、やがて神から与えられた運命を拒んだ。故に大罪人とされる。
炎武神は瞳を閉じた。影の中に身を落とした刃が、彼女を両断する。
――私には重荷過ぎたよ、イアビス――
一文字に闇黒の波紋が、未明だった空に広がる。真二つにされた神は、光に包まれながら、僅かな声で囁いた。
遥か彼方へと到達した闇黒は、やがて一筋の光になり、雲平線に輝線が通った。炎武竃神の最期は、笑みと共に去って行った。彼女の死体から溢れ出した光は、ネアビスを取り巻き、踊るように舞い、未だ明けぬ藍染めの天球へと飛び立っていった。
神の死が、闇夜の終焉を告げる。彼方には青銅色の日光が溢れ出した。夜明けの訪れである。ネアビスはその時まで、ヌグニットを斬り捨てた場所に佇んでいた。
「ヌグニットよ、安心しろ。俺は、人に力と自由を遣るだけだ。運命を乗り越える事の出来る力を。己で変える事の出来る力を、な」
人は、自ら選択し得るものだから。
遥かなる夜は過ぎ去っていく。空は青銅が嘗ての輝きを取り戻していくかのように移ろいゆく。あれは磨けば、黄金の輝きを蘇らせるのだ。あっと言う間に金色が天を塗り替える。後は太陽が顔を出すのを待つだけだった。その時、ネアビスの背後に声がする。
ネアビス?
「お前……!?」
振り返ると、そこにはシーカの姿があった。彼女は古城から歩いていた。ネアビスは驚きのあまり、声すら出せずに居た。さらに、彼は目を疑った。そのシーカは、翡翠色の瞳をしていた。忘れはしないあの瞳は、あの容姿は、あの声は……。
「ねぇ、ネアビス。私は、全部思い出したんだよ」
声も出せないネアビスに、彼女は微笑みかけていた。そして、優し気な声音で彼女は言う。
「そう。私は『シンシア』」
「シンシ、ア……!!」
ネアビスは彼女の言葉をなぞるように呟いた。彼の目の前に、歩いて来ている彼女こそ、失われた故郷の想い人。周囲の者は全て殺されたと思っていた。だが、彼女は確かに生きている。目の前に居るのだ。それは正真正銘の彼女なのだ。戸惑っていた思考が全てを投げ捨てる。目の前に居るのは紛れもない
「シンシア!」
彼は急いで彼女の下へ駆け出した。だが、その瞬間誰かの声が脳裏に届いた。
違う…!そいつはシーカじゃない!
突然、風が絡んでネアビスの足を止めた。彼は困惑して、彼女に目を遣った。それに対して、シンシアは笑みを零して、首を傾げた。
「どうしたの? まさか、久々に会ったからって、忘れてなんか無いよね?」
クスクス笑うシンシア。それは余りにも無邪気過ぎた。無音の天上ではどんな些細な音も耳に付く。誰かの囁き声ですら。
きっとそいつは、あんたの知ってる人だろう……。
「覚えてるかな? あの時、湖の畔で、一緒に旅に出ようって誘ってくれた事。私、凄く嬉しかった。だからずっと覚えていよう。この瞬間を大切にしていようって、思ってた……。
そして、本当に大切な事を忘れていた」
だが気を付けろ、
本当に大切な事。私が何の為にあなたの側に居たのか
そいつはもう……!!
ようやく思い出した。今になって、ここまで一緒にやって来て。
だってそいつは……!!
「あなたを抹殺します」
シンシアは純白の翼を広げ、ネアビスに向けて剣を振るった。
―――神殺しの大罪人、ネアビス。その罪、その死をもって清算して下さい―――




