第十話 空の約束
ネアビスの視界は青白く点滅し、目前の炎武神が噴霧と化す。耳には鈍い金属音が鳴り響き、氷の結晶に打ち付けられたような痺れが全身の皮膚を硬直させる。明暗していく記憶の欠片が捉えたのは、炎武神の振り上げた業火に煮えたぎる片刃の剣が、目前にあった事であった。
ネアビス!
遥か遠くから声が聞こえ、覚えの無い暗黒が彼を取り巻いていたのだ。一呼吸置いて、彼は目を瞑って居る事に気付く。ゆっくりと目を開くとそこには、一面に、向山まで延々と広がる大牧草地帯が映し出されていた。風が吹き抜け、緑の香りがネアビスを包み込んだ。陽光は強く照らし出し、世界を黄金色に塗り替えていた。
ネアビスは混乱と疑問の中で、僅かに震える声音でのみ口に出来た。
「ウグノイクの平原か……?」
声なき声が、大平原の黄金へと吸い込まれていった。絹の風が草木を撫で、ネアビスの脇を抜けていった。
「向こうへ、行かなければ」
ネアビスの足は、向かうべき方を向き、着々と歩を進めていった。
草木の緑一色に染められていた山を越えれば、眼下に広がるのは広大な砂漠地帯であった。
黄金の太陽が釈然と照り付け、砂粒が磨かれた金色に光輝いていた。
「イセギアダの王国跡……」
景色に心を奪われていると、突如として右腕に激痛が走った。射ぬかれていた。矢が刺さり、血が滴っている。ネアビスは訳もわからず叫んだ。
「ナリィ!!」
世界は依然として静まり返り、砂塵の舞うのが聞こえただけであった。そしてその風は強まり、日色黄が天地を覆った。それでもネアビスは声を振り絞って再び、
「ナリィ・ナフスカ……!!」
可能な限り叫んだ。だが、その声は虚しく、巻き上がる砂嵐の中で、砂塵の僅か一粒の如く掻き消された。
抗うように剣に手を掛けるが、激痛に支配された体は思い通りに動かず膝から崩れ落ち、黄土の暴風の中に身を晒した。
気付けば、それは粗削りの石の外壁と、石畳の敷かれた街路の交差点であった。
ネアビスは周囲を大勢の人間に囲まれていた。
呆然と立ち尽くす彼のもとに飛び込んできたのは、大男の罵声じみた怒号だった。ネアビスは無意識の内に身を翻し、大男を取り押さえ、喉元へと剣を突き立てていた。
「ナイジュフ……!!」
ネアビスは思ったが言葉には成らず、代わりに放ったのは、どうしてお前は戦士でありながら国同士の争いに反対するのか、という問いであった。
その問いは風に流れ、人だかりの気配が消えていく。いや大男を取り押さえた事すら無くなっていたのかもしれない。
ネアビスは寂れた村の入り口、砂利道の上で大地を取り押さえていた。
「俺は、何を……」
彼の疑問も、もはや存在しない。あるのは砂利道を踏みしめる者の確かな足音。ネアビスも聞き覚えがあった。彼は足音のする方へと振り向いた。
「ガンクァ!」
その者は霞の中に消え、足音だけが居座った。靄の中にも黒影が揺らめく。ネアビスは叫んだ。
「ガンクァ・オーアイ!!」
霧の中で雷鳴の様にそれは反響した。真白に染まりゆく視界の中では、あまりにも無力であった。
「俺は、何をしている……」
ネアビスの額には霧から雨へと変わった水滴が打ち付けていく。それが鼻筋を伝い眼窩に紛れ込んで、冷たく頬を撫で落ちていった。
彼は空を仰いだ。濃霧は雨に貫かれて跡形もなく消えていた。滝の様な雨にその身を飲み込ませ、洗い流していく。それすら許されない。雨は彼から逃げ去る様に遠ざかった。後に残されたのは、鉛色に深く垂れ込んだ、空であった。
「俺は、何の為にここまで来たのだ……」
雨は逃げ、風は止み、空は落ち、声は出ず。残された思考すら、やがてこの働きを終えるだろう。
彼は目を瞑り、運命を迎えようとした。その時だ。一閃の如く轟く声は
ネアビス!!!!
暴風と共に、真にネアビスは開眼した。目前に迫る炎武神の炎剣を、蒼炎の刀身で受け止めていた。炎武神は鍔迫り合い、ネアビスを押し潰そうとする。
「運命には抗えないのだ。貴様にも分かったであろう」
それでもネアビスは抵抗を止めようとしない。炎武神の有利で始まった競り合いを互角に持ち込んだ。
「決めていたのだ。俺は……っ!!」
彼は、ついには炎武神を押し飛ばした。
「俺達は!!」
炎武神は飛ばされながらも体勢を立て直し、大火の大蛇を来襲させる
ネアビスは瞳を閉ざした。
彼の眼前に広がるのは、黄金色の大平原であり、広大な砂漠であり、賑わう街であり、簡素な村であった。そこで彼らは集う。それぞれの思惑を持ちながら、口々に声を上げながら、時には笑みを零し、時には怒りに身を任せ、涙を零す者があれば励まし、歌い狂う者があれば踊りあかした。昔話も、嫌という程聞いて来た。主従と言えば名ばかりの、仲間達は、旅の終焉の頃に口を揃えて言った。
「この旅の終わる日には、目的が果たされる様に」
ネアビスは目を見開いた。鮮明に蘇った記憶が、一つに繋がり、収縮し、己の中に宿って居る事を、その手に込めて、力に変えた。
「俺が運命を、運命など変えてやる!!」
彼の握り締めた蒼炎の刀身が燃え盛り、さらに燃え盛り、その蒼炎を振り払う。蒼炎が斬撃の波状を描き、大火の大蛇を貫き、焼殺した。大火の消え去る側面を抜け、炎武神はネアビスへと襲い掛かった。
「変えさせんぞ、貴様などには!!」
振り降ろされた剣を軽々と躱し、彼は刀を構えた。彼の刀は光輝き、その刃は陽炎を伴う渾碧の金剛石と化していた。
「雷日神ニスオス、風美神ユユキュオス、そして、炎武竃神ヌグニット」
神へ向けられた逆心の切先が、穏やかな水の流れを浮かべるかのように沈黙の中を煌いた。
「来い。これで決着だ」
彼の言葉が終わる間もなく、雷日神と風美神が襲い来る。しかし、彼の振るう刀は水鏡となり、雷日神の一撃を弾く。彼の振るう刀は清流となり、風美神の連撃を受け流す。そして彼の振るう刀は濁流となり、二神を薙ぎ払う。神々は寸での所で何とか攻撃を防いだが、猛烈な一撃に押しやられてしまった。一方の炎武神は片手で放った大火で濁流を焦がしきり、再びネアビスに攻め掛かる。さらに、右からは雷日神が、左からは風美神が迫る。神々は怒った。
「大罪人が!!!」
その瞬間、ネアビスの脳裏を過ったのは多くのものだった。
生まれ故郷、過ぎし日々、義家族、友人、紫陽花、月光、湖、あの日の記憶、旅路、出会った人々、想像もしなかった風景、雪月花、修行した時間、焼失する赤黒い炎、微笑むシーカ、笑飛ばすエリサ、口元を押さえるナリィ、頭を抱えるナイジュフ、優しく笑うガンクァ、物陰から見ているイハス、此処に来るまでの経緯が走馬灯の如く駆け巡っていく。天界に昇ってからの事も、余に一瞬の事のように感じた。そして、地に伏すシーカに、三肢を失ったエリサに、脳天を貫かれたナリィに、心臓を抉られたナイジュフに、八つ裂きにされたガンクァに、消失したイハスに、ネアビスは喜怒哀楽の混ざった声を、天上を轟かす声を上げた。古城を貫き、更なる天上すら激震させた。
彼の刀は、渾碧をさらに深くして、夜空の様に怪しく疼き出す。
「神々も、必然からは逃れられないのだろう。死という必然からは」




