第一話 道のり
剣を天に突き刺し、人外の咆哮。
彼が目を開けた時には周囲は黒炎に包まれていた。戸惑う思考がゆっくり働き始め、母を呼んだ。返事は来ない。もう一度母を呼ぶ。返事は無い。彼は次に兄弟の名を呼ぶ。誰一人として答えない。震える声で友人の名を呼ぶ。呼び続ける。だが助けを求める彼の声が延々と木霊して家の燃え尽きる音の間に突き刺さるだけであった。彼は一つ、人の名を呼ぶ。
「シンシア……」
木材が破裂して火花が散っていく。陽炎が世界を揺るがすのだ。彼は歪んだ世界を睨み、涙する。その涙が乾ききるのは一瞬だった。彼の中に渦巻く炎は取り巻く炎などとは比べものにならないものである。今目の前に広がる現実を否定するように、彼は声の限り叫んだ。
シンシアァァァァァァッ!!!
彼の呼びかけに応じるものは、この家にも、この村にも、この島にさえも、もう居なかった。悲痛な叫び声だけが幾重にも木霊して、星空へと消えていく。神の居る天上の世界へと消えていく。
天上を睨む、この運命を決めたのは誰だ。
人の運命を決めるものは何だ。
変えてやる。
天に剣を突き刺し、人外の咆哮。
全てを失った者の怒りと哀しみが、導き出した決断だった。
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あれから数年が経ち、ネアビスが目指すのは神々の居城。それは遥か上空、天界の果てに存在するという事であった。その城を目指し、千の海を越え、新たな大地に到達したネアビスは北東からの出発となった。大陸を縦断する旅は、先ず、北の大国ウグノイクへ向かう事から始まる。
行く先々で事件は起きる。ウグノイクではどういう経緯か二人の従者を手に入れる。一人は美麗にして幼く見えるが不可思議な術を使う。年端も行かぬようだが記憶がなく、自らの名も知らない。ウグノイクでは名のある地主を主人に持ち、『シーカ・シャヌワ』と呼ばれていたが、酷い扱いを受けていた。すでに痩せ細り、死の間際でネアビスに救われた。シーカの窮状を知ったネアビスは怒りに任せて地主もろとも彼の土地を焼き払い、シーカを旅に同行させる事にしたのだ。その後、ネアビスとシーカはウグノイク中でお尋ね者として追われる事になる。もう一人は、『エリサ』という。元は砂漠地帯の放牧民族だった。男ばかりの兄弟の末っ子であったが、剣の腕は一族随一であった。屈強な兄共を従えて、何度も周辺の民族との戦乱を乗り越えてきた。そんな彼女達もウグノイクの領土拡大政策により、一族は北の大国の兵に追われ、やがて殺された。しかし、容姿端麗だったエリサだけは囚われの身となり、西の王宮で農奴として働かされていた。ただ、彼女もそのまま黙っているはずも無く、ある日番兵の剣と馬を奪い放牧地帯へと逃走。国中のお尋ね者となる。道すがら、同じくして追われ身のネアビス達と出会い、行動を共にする。
ウグノイクを出ると、橋のない荒れ狂う大運河を避け遠く西へ、滅びた王国イセギアダの砂漠地帯まで迂回する。
イセギアダの王宮跡を訪れた時、ネアビスは突然片腕を射抜かれてしまう。射抜いたのは『ナリィ=ナフスカ』という弓取りであった。ウグノイクに滅ぼされたイセギアダの生き残りで、国が滅びてからは一人で放浪の旅をしていた。一人旅により警戒心が強くなり過ぎていたため、ネアビスを敵と思い込み誤って弓を引いたのだった。ネアビス達は思わぬ足止めを食らう事になる。ネアビスは三日程動けずにいたが、その間、シーカとエリサ、ナリィが看護したため、その翌日から旅立てるようになった。ナリィはネアビスに詫びとして首を差し出そうとしたが、ネアビスは自分の腕に弓を当てられる者は早々居ないとし、ナリィを従者に加えたのであった。
イセギアダの砂漠を後にする。強国イェブナイクと軍事大国イデ、北の大国ウグノイクが鎬を削る大平原を駆け、イデの首都に入る。
国を跨げば気風も違う。軍事大国でありながら、イデの首都には大らかな心持の人間が多い。その中で一人の酔っ払いが、街中で巨大な鎚を振り回して暴れていた。ネアビスはそこを通りかかったので、大男と決闘する。剣術はネアビスの方が何とか上であったが、力は完全に向こうが上であった。あわやと思われたが、ネアビスは相手の酔っておぼつかない足を取り、辛くも勝利する。なんとか大男を取り押さえたネアビスは彼を監獄に突き出す。突き出された男は『ナイジュフ』といい、軍事大国の戦士でありながら、国を挙げての戦争に反対する者であった。臆病者はいらないと、男は国を追い出される事になったが、その前夜にネアビスがやって来る。汝戦士でありながら争いを好まぬか。ネアビスの問いにナイジュフは答えた。多くの人を失えば、国はさらに荒れ、いつかは滅ぶ。一時の勝利など、また新たな争いの火種に過ぎない。俺は、この運命の連鎖を断ち切りたいのだと。ネアビスは肯き、志は同じくして力は自らよりも上とし、ナイジュフ従者に引き入れたのであった。
翌日、ナイジュフと合流したネアビス主従。次は南東を目指し、文国西グナイクへ。
大国家ウグノイクからの逃走劇。軍事大国イデでの活躍。文国として名高い西グナイクでは、すでにネアビス主従の事が話題になっていた。多くの不安と期待が入り混じりながら、街の門の周りには人だかりが出来ていた。ネアビス達にとっても、この旅でここまで歓迎された事もないだろう。西グナイクのとある街に入った時、一人の老人が歩み出てきた。老人は西グナイクで知らぬ者のいない武道の達人『ガンクァ・オーアイ』であった。彼はネアビスに、従者にしてくれと頼んだ。ネアビスは訳を聞く。すると老人は口を開いた。老人の戯言と思ってくれてもいい。しかし、このままでは我が一族が滅びてしまう。先の大戦によってついにこの国にも終わりが来てしまうのだと。ネアビスは老人に問う。汝覚悟はあるか。我らは神に逆らう者共だと。老人は穏やかに言った。この年まで修行を重ねてきたのだ。武神に手合わせ願うまでと。ネアビスは従者としてその者を迎えたのだった。
西グナイクからさらに南下し、南の太陽信仰の国家ニスオテを縦断。大陸の果てを目指す。
ニスオテでは特に喧噪もなく、順調な旅であった。しかし、川の畔におかしな若者が居て、ネアビス主従に執拗に付きまとっていたらしい。彼の名は『イハス=アボート』といい、イェブナイクの貴族の出身でありながら、神を嫌い、太陽信仰のあるこの国で、神は居ないと叫び周っている変わり者であった。ネアビス達にしつこく付きまとっていたのもその為だ。結局大陸の端に到達するまでついて来たため、ネアビスは仕方なく、彼を従者にするのであった。だが、彼にも大きな秘密があった。彼の母は術の力を手に入れるためにその身を悪魔に売ったという。彼はその運命を変えるためにネアビスについて来たのだ。従者にしてからそんな大切な事を言うなと、ネアビスは彼を小突いた。
そして、大陸の果て。
辿り着いたのは、その背後に、空の古城を据える海だった。その壮麗な古城の下には、雲が幕のような模様を呈して垂れ下がっている。遥か古城は、その上に聳え立っているのだ。空は紫陽花色に彩られ、一番星が道筋を示して輝いている。海は翡翠の色に静かに波打ち、七人はその浜辺に並び立つ。雲の幕の向こうに逃げ隠れた太陽に代わり、紫の残光が嘘のように光をはなち、七人の影を伸ばす。星の数は増えていくが、その湖は照らされ続けた。ここには夜という概念がないように。
暫しその景観に見とれていたが、主従の一人、エリサがネアビスに訊ねる。
「あの雲の上の古城にどうやって昇るのか」
ネアビスは答えた。
「エリサとナリィは風を吹かせ。シーカは光を天に向けて放て。」
エリサとナリィは肯き、それぞれ剣と弓を構えた。エリサは青銅の剣を深く構えて、ナリィは矢を持たず弓の弦を引っ張っている。シーカは目を瞑って両手を合わせ、祈りを捧げる。
「……!」
「お前は黙っていろ」
何か叫びそうなイハスを止めて、ネアビスは剣を天に翳した。彼は三人の様子を見て、剣に炎の力を込める。その炎は赤くはない。冷徹であった。夏でありながら凍てつきそうな寒気が満ちていく。海面に白波が立ち始め、空はやがて曇天となっていく。雲は黒く今にも天から外れて降ってきそうな程に分厚く、海は毒素を抽出したように深緑となる。その時のネアビス主従にはこれまでの旅が短く感じられただろう。これまでの道のりが、ようやく、終わる時が来たのだ。そして、これから始まるのだ。深緑の劇毒を、暗黒の天を切り開く時が。雷光が走った瞬間、雷鳴が轟くようにネアビスの声が響く。
「放て!!」
!!
次の瞬間には、大海に聳える柱の如き竜巻が、天から膜を引っ張っり海の底へと深く突き刺したような、巨大な竜巻が、やがて雲下の太陽たらしめる大光球に轟轟と照らされ、美しい彫刻のように瞬き、虹を産みだす。その虹が暴風の力に耐えられず、螺旋を描いて天空へと、ゆっくりと伸びていく。柱の周囲を周る子供が無邪気であるように、虹は何も知らずに風の柱の周りを渦巻いて登っていく。それが無知であるまま、天空を貫いた時、ネアビスは天に翳した絶対零度の剣を振り下ろした。弧の模様を呈した極限の寒気が飛来して、瞬く間に虹の螺旋を竜巻ごと凍てつかせた。さらにその冷気は澱んだ大海に一筋の道を築き上げて、虹の螺旋へと真直ぐ続いている。
ネアビス主従は馬を置き、虹の螺旋に向けて大海の氷道を渡る。
ルパの民話『滅尽の勇者』
そこで語られているのは、神斬りを誓った勇者の、淡く、儚い物語。