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死んだ妹がお盆の間だけ帰省してくる

作者: 赤柴紫織子

 死んだ彼女の話をしよう。

 わがままで、怒りっぽくて、だらしのない、俺のたった一人の妹。

 彼女はまるでどこかの話の繋ぎかのような気軽さで車にはねられて死んだ。

 本人がとても気に入っていた樺茶色かばちゃいろの目玉は排水溝に落ちていた。つまり、そのぐらいひどい損傷だったのだ。



 あれから四年が経ったお盆の入り。

 俺はわずかに緊張した心持でリビングに居る。


 父はいつもどおり十時にさっさと寝てしまったし、母は「そのうち帰ってくるわよ」と無碍もなく言い放った。じいちゃんに至っては自室でネット碁を打っている。

 無情な家族に涙しながら俺はスマートフォンを取り出し、妹の携帯番号を押す。


――誰が信じられるだろうか? この電話番号は、妹に嘘偽りなく繋がっているのだ。


 七回目のベルではまだ受話器を取ってくれず、十二回目にしてやっと相手は出た。


「もしもし?」


 不機嫌そうな声だ。電話するのは一年ぶりか。

 俺も今同じような不機嫌な声になっているのだろう。


「もしもし。おまえ、こんな時間までどこで道草食ってんだよ。さっさと帰ってこい」

「はぁ? なんであんたに指図されなきゃいけないの。まだ友達のところにいたいんだけど」


 兄妹の会話なんて所詮こんなものだ。

 にしても、今回はやけに棘がある。どうやら知らぬ間に妹は反抗期を迎えてしまったらしい。

 シスコンというほどではないがそれなりに妹可愛がりはしていたので少しショックでもあった。成長したんだな、と思うとともに一抹の寂しさもこみあげてくる。

 とうに死んでいるという事実から目を背ければ。


 しかし成長だろうが反抗期だろうがいくらなんでもこんな時間まで遊びほうけているのはいかがなものか。あいつは未成年だ。


「ふざけんな。こっちに帰ってきたらまず実家に先によれバカ」

「うるさいなー! 積もる話もあるの!」

「そんなことは分かってんだよ! お前なー! あのなー!」


 受話器越しの喧嘩が始まりかけた時、後ろから彼女の友人らしき少女が一言二言バカ妹に何か言ったらしい。

 しばしの沈黙の後にしぶしぶ、といった風にため息が聞こえた。


「じゃあもう一軒寄ってから」


 居酒屋はしごかよという前に電話は切られた。

 まあいい。これで一応はこっちにも帰ってくる気にはなっただろう。



 彼女が死んだ話をしよう。

 彼女が帰ってきた話をしよう。


 それは狂った奇跡だ。

 それは歪んだ幸福だ。


 死んだ妹がわずかな期間とはいえ帰ってくるなど、そんな都合のいい話があるものか。

 だけど俺たちは、その都合のいい話を喜んで受け入れた。

 誰にも理由の分からない不可解な事象を疑わずに歓迎した。


 結果的に地獄に落ちようとも、あの樺茶色の瞳に会うためならどんな責め苦も受けて見せる。

 突然失われた幸せを再び手にしたいと願う程度には、みんな狂っていたのだ。



 漫画雑誌を仰向けて読んでいたが腕がつかれたので放り出す。時計を見るともう日付が変わっていた。

シャワーを浴びたはずなのにこんこんと汗が出てくる。

やせ我慢をしてないで素直に冷房をつけようと身を起こした時、階下がにぎわいだしたのに気がついた。


「修二ぃ、美帆が帰って来たわよ」


 母親が呼んでくる。

 どうやら父親が部屋から出てどこかにぶつかった音もする。酔っているな。


「小遣いやろうか」

「いやじいちゃん、私使いどころがないから…」 


 電話越しではない妹の声が聞こえた。

 一応夜なのでご近所迷惑にならないように焦る気持ちを押さえて静かに階段から下りる。

 家族一同が集まった玄関。


 あの日、棺桶に共に収められた爽やかな水色のワンピースが眩しい。

 四年前と変わらぬ姿のまま、妹はそこに立っていた。


「なにで来たの?」


 母親は毎年同じ質問をする。


「ん?ワゴンカー」


 去年は小型バスか。


「また夢のない。きゅうりにのってきなさいよ」

「だったらもう少しまともなのを作ってよね」


 父親は年頃の娘にどう声を掛けていいのか分からず突っ立ったままだ。

 じいちゃんは呑気に笑っている。

 俺は、なにも声に出すことが出来ない。


「もう夜中だし、お話は明日にしましょう」

「そうだね」


 女子同士、思考というか感覚が同じなのかさっさと意見がまとまった。

 空気に流されるだけの男性陣は散らされる。

 俺はやはり何とも言えないままに部屋に戻ろうとした。


「ちょっと」


 ずしりと物体のない重みが肩にかかる。妹に呼び止められたと気付くのに時間はいらなかった。


「私の部屋のドア開けてよね」

「……すり抜けられるだろ。去年だってそうしていたじゃないか」

「開けることに意味があるのよ」


 どんくさい俺でもそれが甘えであることにすぐ気がついた。

 わがままは、死んでも治らないらしい。



 主の存在しない部屋は、シンと静まり返っていた。

 妹は意気揚々と俺をすり抜けて入っていく。全身に寒気を感じた。結局すり抜けるんじゃねえかよ。

 部屋を一通り見回した後に振り向いて俺を見ると不機嫌な顔になった。


「え、もう用すんだから出ていってよ」

「うるせーよ」


 心底嫌そうに言われて思い出す。

 こいつは自分のスペースに入ってこられることを嫌っていた。

 死んでからもずっと、妹の部屋には入れなかった。ようやく踏ん切りがついたのは死んでから半年後のことだ。


 その時にへたくそな漫画が見つかった。

 甘ったるい恋愛ストーリー。頭の足りていないお姫様と自分勝手な王子が逃避行するという何がしたいんだかよくわからないものだった。

 どうやらこれをコソコソと書き溜めていたらしい。

 結末は分からない。突然前触れもなく死んだわけだから当たり前ではあるのだが。

 ハッピーエンド思考主義のお花畑のあいつのことだ、どうせふたりは幸せな結婚でもするんだろう。

 めでたしめでたしと。


 …なにがめでたしだ。

 妹は交通事故で死んだ。即死だった。

 運転手も後日死亡して俺たちは憎む相手すら失った。

 何の変哲もない、ただの、ありふれた交通事故。数日たてばあっという間に葬り去られ、年末に交通事故死亡者数に一つカウントされるだけだ。

 だが、家族の空いた穴はふさがるわけもない。

 妹の書いた話のように何もかもがご都合主義で済めばどんなに良かったことだろう。

 俺たちが手にした奇跡は、本当のことを言えばもっと前に発揮されて欲しかったのに。


 そんな俺の考えを知ってか知らずか、妹が呟いた。


「…早く片付けちゃえばいいのに」


 小学校入学時からずっと使っている学習机。

 ピンク色で統一されたベッドと枕もとのデジタル目覚まし時計。

 椅子に放置されっぱなしのスクールバック。

 お前がねだって買ってもらった全身鏡。

 タンスに適当に詰められた洋服も、本棚に入れられた漫画も、壁に貼られたポスターも。


 …できるわけないだろ。


 全部、おまえが生きてここに存在していた証だというのに。

 今ここにいる妹が、来年も来るとは限らないのに。


「まだ時間かかるなぁ。粗大ごみって金かかるし」


 押し寄せる感情を殺してうそぶく。

 お前の部屋を片付けるだけの心の整理がついていない。

 みんな、どんなに表では何も知らないようにふるまっていても。

 そして俺は、それを伝えることができない。

 きっと口に出したら妹は困ったように笑うんだろうから。

 死んじゃってごめんねと、そういうんだろうから。



 死んだ彼女の話をしよう。

 わがままで、怒りっぽくて、だらしのない、俺のたった一人の妹を。


 悲しむ家族と友人を放っておけず、天国を放り出した馬鹿な少女の話を。



「……なに?」


 妹が視線に気づいて訝しげな顔をした。

 いや、と首を振りかけて言い忘れていたことに気付く。


「おかえり」

「ああ。うん、ただいま」


 昔の癖で伸ばした手は妹の頭をすり抜けた。

 ここにあるのは暖かくも冷たくもない。ただの空気。

 哲学的な絶望がここにある。


「なんて顔してんのよ」


 困ったように彼女は樺茶色の目を細めて笑った。


 ――どうやってももうこいつには触れられないんだな、と思う。それこそ俺が死ぬまで。

 ずっとこの姿のままで、俺たちだけ年を取っていく。

 その事実を最近になってやっと受け入れた俺は、次は何を受け入れるのだろう。

 すべてを受け入れたとき、こいつは消えてしまうのだろうか。

もう一度死んでしまうのだろうか。…また失ってしまうのか。


「えぇ、泣かないでよ。気持ち悪いなぁ」


 いつの間にか頬を涙が滑り落ちていた。


「泣いてねえし」


 ガシガシと顔を拭う。

 女々しいというか、なよなよしいというか。駄目な兄貴だ。


「…ごめん、ほんとごめん」

「去年も聞いている」

「…それでも」

「生きている人間が、死んだ人間にいつまでも謝罪してちゃだめでしょ。と言うか何に対して謝ってんの?」

「……」

「というか、終わったことなんだからさぁ」

「…だって」

「おにいちゃん」

「……」

「おにいちゃんは別に私殺したわけじゃないんだから」

「それは、そう、だけど」


 喧嘩別れしたわけでも、大事なことを言いそびれたわけでも、俺の手で車道に押し出したわけでもない。

 平平凡凡な日常に割り込むように死が滑り込んできた、それだけだ。


「別に怒っているんじゃなくてね。それでいいの。私のために生きなくていい。おにいちゃんはおにいちゃんのために生きなきゃ、ね」

「お前の分まで、」

「生きるって? エゴだよ。私のものじゃないし。どんなに怠惰に暮らしているとしても、生きているという特権の元それは自動的に与えられる。――でも、死んだ人間にはどう頑張ったって無理なんだからさぁ」


 ぺらぺらと彼女は得意げに喋る。

 ――お前は、ほんとうに口ばっかり達者だな。


「夜だから気分が悪くなるんだよ。もうおやすみしちゃえば? 明日…今日か。今日はずっといるから、お昼まで寝ていないでよね」

「分かってるよ」


 スッと妹が離れる気配がした。

 眠りをもはや必要としない妹は、この夜をどう過ごすのだろうか。

 ならせめて早起きをしてすこしでもその孤独を埋めてやらねばならない。兄として、そのぐらいは。



 死んだ彼女の話をしよう。

 わがままで、怒りっぽくて、だらしのない、俺のたった一人の妹を。



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