13/02/09(2) 自宅:大丈夫。呪い返しの対策もちゃんと考えてある
アパートの階段を上がると、DKの窓から明かりが漏れていた。
つまり姉貴は既に帰ってるしDKにいる。
これは逃げられないな……。
まあいい、覚悟を決めよう。
「ただいま」
「おかえり」
姉貴の頭にはバスタオルが巻かれている。
風呂上がりらしい。
コタツに入り、何やらポリポリ食べつつテレビを見ている。
姉貴がこんな時間に何か食べてるなんて珍しい。
さてと。
うーんと背伸び。
「あー疲れたなあ、早くお風呂に入って寝ないとなあ」
願望を遠回しに訴えつつ、さり気なく姉貴の後ろを通り過ぎようと試みる。
「小町」
「何?」
姉貴が自身の座っている斜め前の卓上を、左手でポンポン叩く。
ちっ、ダメか。
無表情な能面顔からは有無を言わせぬプレッシャーを感じる。
仕方ない。座ろう。
「食べろ」
卓上の菓子を差し出してきた。
もう逃がさない気満々だ。
「これは?」
「豆乳おからビスケット。一枚五kcalのダイエット食品だけど、結構いけるよ」
言い終わると姉貴がぽりぽりと囓る。
どれ、俺も一つ摘んでみるか。
「案外美味しいな」
甘味はそんなにないけど、食感は普通のビスケットとさほど変わらない。
「八枚までは食べていい。それくらいなら一〇分長く入浴すれば消費する」
二〇分の入浴で約八〇kcal。
ビスケットのカロリーが八枚で四〇kcalだから約一〇分。
これは姉貴が毎朝俺に渡す「ダイエットレポート」記載の数字である。
姉貴はエクセルを用い|、俺の報告をデータ化してダイエットを管理している。
レポートを使うのは、俺に常々から数字を意識させるため。
自分に言い訳を許さず客観的な現実と向き合う事がダイエットの基本なんだと。
姉貴が数字を持ち出すのはダイエットに限った話ではない。
何かにつけてそんな感じ。
法学部出身の癖に……と言っても、姉貴は万能な人。
文系理系どちらでも好きに選べたから、その概念自体が当てはまらない。
国家公務員試験一種(現:国家公務員総合職試験)も法律職で八位とか。
俺には価値がわからないけど、美鈴のおじさんによればかなりすごいらしい。
それはいいとしてだ。
姉貴の傍らには、空になったコーヒーカップ。
「どうせだしコーヒー入れるわ。姉貴もお代わり飲むだろ?」
「ありがと」
──二人分のコーヒーを入れ、座り直す。
さて姉貴が話したがってる事を聞いてやるか。
「で、今日の飲み会はどうだったの?」
「サイアクに決まってるだろ。どうして私がキャリアの飲み会に出なければならない」
そう、姉貴は大のキャリア嫌い。
正確にはその集まりがキライ。
個別に付き合うにはいい人達ばかりだけど、集まると途端にうざくなるのだとか。
ここ連日同じグチを聞かされ続けてるから覚えてしまった。
自分だってキャリアのくせに……。
「だったら行かなければいいだろ」
「みつきさんのことを少しでも知りたかったんだよ」
はあ……答えわかってて聞く俺もバカなんだけど。
そして次に続く台詞もわかっている。
「だいたいキャリア同士の飲み会なのに、どうしてみつきさんが声を掛けられてないんだ。みんな『関わりたくない』全開な態度とりやがって」
はあ、飲み会に参加すると決めた一昨日から、ずっとこんな調子。
飲み会当日はもっと荒れるに決まってるから近づきたくなかったんだ。
それでも話を聞いてやらないといけない我が身が泣ける。
「で、肝心の情報は入手できたわけ?」
「まったく。私は何のために出席したんだよ──」
姉貴が摘んでいたビスケットがパキっと割れる。
「──みつきさんが貧乳フェチでくびれフェチで美脚フェチで長身フェチできつめな顔の美人が好きな事くらい、これまで耳タコになるくらい何回も何回も本人から聞かされてるんだよ」
それなら三日連続で聞かされる俺の気持ちも理解しろ。
……などと、決して言ってはならない。
「その女性はまさに姉貴そのものじゃないか」
「そうか? そうだろ?」
姉貴の顔が紅潮して緩む。
なんとか姉貴操縦に成功したらしい。
──と思ったのも一瞬だった。
「みんなしてみつきさんの事をバカにしやがって」
「そりゃそれだけマニアックな性癖ならバカにもされるだろ」
悪いが、俺でもきっとバカにする。
だけどみつきさんは、俺のロリ巨乳妹属性を貶して反撃するだろう。
実は悪意あっての叩き合いではない。
男同士はそういうものなのだ。
「いや、左遷の事さ。バカなのは事実だから黙って頷くしかなかったけど」
「バカなのは事実って……」
「こんな若手でキャリアが左遷されるなんて聞いたことがないよ。他官庁なら選別落ちして事実上の肩叩き喰らうケースはあるけどさ」
「みつきさんっていくつなの?」
「私の二つ下」
むしろ、その年齢で肩叩きされる他官庁の方が怖いよ。
「とにかく、みつきさんはバカ。それでいいんだな」
姉貴がドンとコタツを叩いた。
「みつきさんをバカ呼ばわりするな!」
「どっちだよ!」
支離滅裂じゃないか。
「みつきさんをバカ呼ばわりしてもいいのは私だけだ」
「無茶苦茶言いやがる」
しかし姉貴は俺の言葉をスルーした。
握りしめた拳がぷるぷる震える。
「行き交う悪口を聞きながら、私がどれだけ耐えたか……とりあえず悪口言った奴の顔と名前は全員覚えた」
好きな人をバカにされたんだから悔しがる。
それはいいと思うんだ。
でも、姉貴。
お前はこれまで、そのキャリア達の顔も名前も知らなかったのか。
「他のキャリアの人達って姉貴がマッシュやってる事は?」
「キャリアどころか、都以外の職員は誰も知らないよ」
「それならみつきさんを庇いようもないよなあ」
役所でのみつきさんは会った事すらない後輩にすぎない存在だし。
「うむ。そこでこれから、小町に手伝ってもらいたいことがある」
「手伝い?」
もう全開でイヤな予感しかしない。
姉貴がメモを差し出してきた。
どれどれ? 内容に目を通す。
【紙屋:みつきさんの事を「バカ」と三回言った
大塚:みつきさんの事を「キモイ」と五回言った
三滝:みつきさんの事を「キャリアの恥」と言った
牛田:みつきさんの事を「デブヲタのks」と言った】
「姉貴、何これ?」
「怨みメモ──」
姉貴が粘土をドンと置く。
「──これから粘土人形を人数分作るから、お前も手伝え。できあがったら呪いを込めて、五寸釘でぐさぐさに刺す」
バカげてる。
「どうして俺がそんなこと手伝わないといけないんだ!」
「姉の幸せに協力するのが弟というものだろう!」
そんなのに幸せを感じる姉なんかいらねーよ。
「嫌だ! それに人を呪わば穴二つというじゃないか!」
由来は平安期の陰陽師が人を呪殺しようとした時、呪い返しを覚悟して自分の墓穴も相手の墓穴と合わせて用意させた事。
意味は安易に人を恨むなという戒め。
俺のモットーでもある。
恨むエネルギーがあるなら別の事に使った方が幸せに暮らせそうだし。
「大丈夫。呪い返しの対策もちゃんと考えてある」
「何それ?」
お前はことわざを根本から否定してどうする。
なんとなく聞いてはいけない気がするけど、聞かずにはいられない。
「彼女がいない奴は一生彼女ができない様に、彼女がいる奴は彼女と別れる様に、結婚してる奴は妻と別れる様にと呪いをかける。私には一生彼女ができなくても何の支障もないから呪いが返ってきても大丈夫だ」
なんて恐るべき自己中。
「姉貴は大丈夫でも俺が困るだろうが!」
「だから小町は彼氏を作ればいいと何度言えば──」
「黙れ! 一人でやれ!」
粘土を掴み姉貴にぶん──投げたら痛いよな。
放り投げてから立ち上がり、リビングを後にする。
好き放題言いやがって。
でも、もう二度とその台詞だけは言わせない。
明日からは新しいバイト。
そのバイト先で絶対に彼女を作ってやるんだ!