13/06/02 有楽町ウィンズ:なんかまずい? 毎日髪は洗ってるけどな
眠いいいいいいいいいいいいいい。
昨日は朝早くから出かけ、終電まで飲み。
しかも名伏しがたい闇丼の様な物のおかげで胃袋のダメージが大。
眠いだけじゃない。
くらくらしてしまって今にも倒れそうなのが本音のところだ。
なのに現在は有楽町ウィンズ。
マスターめ、勤務時間中に馬券なんて買いに来させていいと思ってるのか。
「すみません、馬連2-10を1000円と3-10と8ー10を100円ずつで」
マスターにもラプラスの魔スキルがあるなら一点買いでもよさそうなものだが。
「世の中そんなに美味しい話ないってば」というのが本人の弁。
そりゃそうだよな。
ソファーが目に入る。
少しだけ横になっていこうかな……。
ちょっとくらいの休息も働くために必要だよな……。
しかし着ている服を思い出す。
執事服でソファーなんかで寝てたら目立って仕方ない。
しかも傍から見れば男装執事。
下手すればツイッターであっという間に拡散されかねない。
仕方ない、大人しく戻ろう。
はあ……この執事服の真の目的、実は俺のサボリ防止にあるのではなかろうか。
──ウィンズを出て、アンジュへの帰路につく。
この疲労困憊な本日。
せめてもの救いは、人外こと鏡丘さんがいないこと。
あの女にいじられる度にSAN値が減少していく。
今日の体調で鏡丘さんがいたら、SAN値ゼロになって発狂したんじゃないだろうか。
そういやSAN値が「正気度」を意味するのを知らない人って結構多いんだよな。
こないだもクラスの友達との会話で使ったら「何それ?」って聞き返された。
俺にしてみればクトゥルフ神話は一般常識。
だけどそれはあくまで、オタにとっての一般常識にすぎないのかもしれない。
もちろん姉貴には通じる。
昨日の様子からすれば、シノさんにも間違いなく通じるだろう。
しかし旭さんにはどうも通じるイメージが湧かない。
あの二人に比べると、やっぱり旭さんはどこか違う。
二次元知識を教えてもらいたがるのも何となくわかるな。
行き過ぎて鏡丘さんみたいな妄想星人になってしまうのも困りものだが……。
でも鏡丘さん、今日はどうして休みなのだろう?
※※※
「戻りました。マスター、これ例のブツ」
さすがに店内で馬券だなどと口にするわけにはいかない。
「小町君、ありがとう」
マスターがベストのポケットに馬券をしまう。
手も空いてるみたいだし聞いてみるか。
「鏡丘さんは今日どうしたんですか?」
「就職活動だって。そろそろ来ると思うけど」
……これまた、えらく似つかわしくない漢字四文字が飛び出した。
もっともどんな理由を聞いても似つかわしくないと思う気はするが。
しかも来るのか。
できればこのまま来ない方が平和な一日が過ごせ──
「こんにちは~、今すぐ準備しま~す」
るのに、と思うことすらできない内に、鏡丘さんが現れた。
これで──
「『俺の平和な一日は終わった』なんて思わないでくれるかな? 私の顔が見られて嬉しいとは思わないの?」
「嬉しいと思われたいなら、その化け物じみた読心術はやめてください!」
姉貴も時々読心術を発揮する。
だけど、あれの正体はムダに秀でた観察眼と分析力によるものとわかっている。
単にハッタリかけて心を読んだかの様に見せかけてるだけ。
実際は何かしらの根拠がある。
しかし鏡丘さんのそれには全く根拠がない。
だからこそ不気味なのだ。
「それはラプラス──」
「もういいですから。それで、就職活動とやらはどうだったんですか?」
「ん? ああマスターから聞いたのね。別に? 普通だよ?」
「なんか鏡丘さんが就職活動ってすんごく意外なんですけど」
鏡丘さんが頬を膨らます。
「なんでさ。私だって学校も行くし、恋愛もするし、就職もするよ?」
「その全てが鏡丘さんという存在から縁遠い単語の様に聞こえます」
「失礼な。これでも大学四年だよ?」
「へえ……」
年齢不詳な感があったけど、年上だったんだ。
「学校はあまり行ってないし彼氏もいないから、縁遠いというのはあながち間違ってないけどね。とにかく着替えてくる」
彼氏いなかったのか。
もしこの言葉をもっと早く聞いていれば、鏡丘ENDの可能性もあったのだろうか。
以前は「お近づきになりたい」と思ってたくらいだし。
ああ……なんて黒歴史なんだ。
現在だと隙を見せれば「食される」感すらある。
それも比喩ではなく、本来の意味の食事として。
目に見えないけど存在するかもしれない鏡丘フラグ。
念のためだ。
頭の中でバキバキに折っておこう。
──鏡丘さんが出てきた。
いなかった分を取り返すとばかりに、フロアをきびきび飛び回っている。
そもそも就職活動の途中なのに、バイトを休まない根性がすごい。
でも……こんな鏡丘さんの姿を見る度、疑問に思うことがある。
仕事の邪魔をしては悪いと思うから、いつも聞きそびれるのだが。
鏡丘さんがテーブルから厨房に向かっていく。
今だ。
聞くなら、このタイミングだ。
「鏡丘さん」
「ん?」
「なんで仕事モードに入ったら人が変わるのに、髪はそんなにバサバサなんですか」
「なんかまずい? 毎日髪は洗ってるけどな」
「そういうのじゃなくて。鏡丘さんならきちんと髪をときそうですし。髪型もストレート系のロングとかで制服に合わせそうなのにって」
例えば姫カットっぽいのとか。
決して見苦しくはない。
人外と言えど美人ではあるから、髪型自体はなんでも似合うだろう。
でも正直言って今の髪型がアンジュの制服に似合うとまでは言い難い。
鏡丘さんの性格からすれば、働くに際しての様式美までこだわりそうなイメージだし。
鏡丘さんが得心した様に返してきた。
「ああ、そういう意味ね。長さはこれ以上伸ばすと乾かないし、髪型はほとんど洗いざらしのままだから」
「はい?」
意味がよくわからない。
「だって髪を乾かしたりセットしたりする時間があるなら、妄想していたいもの」
聞くんじゃなかった。
「質問はそれだけ? だったら仕事に戻るね」
鏡丘さんは「つまらない事で私を呼び止めるな」と言わんばかりのきつい口調と眼差し。
遠回しに俺をたしなめてからフロアへ戻っていった。
こういうのもギャップ萌えって言うんだろうか。
さてと、俺も仕事に戻ろう。
鏡丘さんのいい面だけ見習って仕事に打ち込むとしよう。
さっき聞いた答えを未来永劫忘れるがべく。