最終話
そこにいたのは確かに『ヴォルケイノ』で、さっきのステージにいた全員が揃っていた。ベースの熊さんが楽器のケースと機材を積んだ台車の上に座ってクリスと激しく言い争っていた。熊さんの横にはこのホテルの制服を着た女性がいたが、手にした書類の厚みや手帳から察すると館内の施設に出演するミュージシャンをブッキングする担当者らしい。クリスは熊さんに食ってかかるが熊さんはいい加減な返事しかせず、女性スタッフがかわりに答え、そのことにクリスが納得していないのは明らかだった。アレックスとジョディはクリスの後ろに並んで立ち、コンガの男はそこからさらに離れたところでしゃがみこんでいた。彼は打楽器のケースに入れた私服のTシャツを取り出して着替えていた。そのうち熊さんがジョディに話しかけ、アレックスがすぐに反論した。熊さんのポルトガル語はかなり英語風の発音で、対するアレックスはかなりきれいなポルトガル語だった。口調は落ち着いていてビジネスライクな印象だったが、ジョディに対する熊さんの言葉にはかなりシビアに応じていた。熊さんは時たま英語でしゃべり、それはどうやら出演料と曲の選定基準に対する不満であることはなんとなく聞き取れたけど、アレックスはポルトガル語でしか応じなかった。押し問答が続き、しばらくするとクリスが腕組みをして黙ってしまった。コンガの男はそれを見届け、女性スタッフに軽く会釈するとその場からふいといなくなった。ジョディはずっと口に手を当てていたが、実はメイクが崩れるくらい大泣きしていたのがボクのほうを向いたときに分かった。熊さんが立ち上がり、女性スタッフににやりと笑って短く言葉をかけると自分の台車を押して廊下の奥に消えた。熊さんが消えるとアレックスにジョディがハグを求め、二人はしばらく抱き合っていた。クリスと女性スタッフは暗い表情でしばらく話したあと、女性スタッフがその場を離れた。ジョディはアレックスから離れるとクリスに軽く手を振り、涙を拭きながら足早に走り去った。後に残されたクリスとアレックスは廊下の柱に二人でもたれかかり、しばらく無言でいた。クリスが思い出したように自分のバッグを開けてバドワイザーの缶をひとつ取り出した。彼はひと口飲んで顔をしかめ、それを見たアレックスが缶に手を伸ばそうとするとまた顔をしかめて首を横に振った。アレックスは両手を広げて抗議し、少し大げさに肩を落としてみせたがクリスはバドワイザーの缶を咥えると自分のバッグを抱えて歩き去った。残されたアレックスはしばらくぼんやりと廊下の奥を見つめていたが、やがてギターのケースを肩に担ぐと、廊下の角、つまりボクのいる方にやってきた。ボクがさっきハイネケンを買った販売機に行くのだろう。慌てたボクは自分の部屋に向かってそそくさと歩き始めたが、すぐにアレックスの足音が聞こえてきた。ギターケースを抱えて、あんなステージをこなした後だというのに彼の足取りは軽く、しかも速かった。彼にばれたくなくてボクはいつの間にか小走りに近い速さで歩いていた。
あと数歩先の角を曲がれば部屋が見えてくる、というところまできて、ボクは決心した。まるで彼の足音にやっと気づいたようなふりをして振り向いた。そして、彼の顔を見て驚いたような表情をつくった。彼とボクの距離はホテルのドア4枚分あった。彼はボクの顔を見て少しだけ不審そうな表情を浮かべたが、すぐにハッとして、さっきのステージで見せてくれたのと同じ笑顔になった。ボクは手にしていたハイネケンを廊下にあるソファの手すりに置いた。何も言わず自分の胸に手を当てたあとでハイネケンを指し、どうぞ、という仕草のつもりでその手を彼に向けた。彼は眉をあげて驚いた表情を浮かべていたが、すぐに笑顔に戻り、同じく無言で自分の胸に手を当てて、ボクに向かって深々と一礼した。お辞儀になれて慣れていないことがひと目で分かるようなぎこちなさだった。ボクは彼が顔を上げるまで待って、そうして右手の親指をあげてみせた。彼は再び笑った。ボクが廊下の角を曲がって自分の部屋のドアを開けるとき、さっきのソファの付近からビールの缶を開ける音が、続けて口笛が聞こえてきた。「ワンダフル・トゥナイト」だった。
翌朝、朝食をとりにレストランに向かう途中で昨夜のソファの前を通りかかった。見ると、ソファの手すりの上に、親指の頭くらいの小さなシールのようなものが落ちていた。青いマーブル模様の上に金色の文字が書かれていた。拾い上げてみると、それはギターを弾くために使う爪、ピックだった。思わず辺りを見回したけど、もちろん彼の姿はなかった。
日本に戻ってから調べたらこのピックの金色の文字はポール・リード・スミスというロゴで、それがアレックスの愛用のギターのメーカーであること、しかも外見の特徴からするとボクの給料の3か月分はする凄いギターであることまでは楽器屋で調べてもらって分かったが、彼のギターはオーダーメイドの一点ものではなく世界で百台以上は出回っている量産品らしいので、ギターだけを手掛かりにしても彼へはたどり着けないようだ。あのホテルの事務所に連絡をとって彼らのバンドについて調べてもらう手もあるけど、あの夜のバンドと、担当のスタッフの雰囲気を思い出すかぎりまず期待は出来ないだろう。あちこちのCDショップをまわり、音楽雑誌を買い集めたが『ヴォルケイノ』の名前は見つからなかった。ネットで調べてもポルトガルの国内チャートでそれらしいグループがちらほらと出てきただけで、それもじきに消息が分からなくなった。
あの旅行から帰ってきて、ボクのバッグから出てきたものは香港のコンビニで買ったコンピュータ関係の雑誌と彼のピックだけだった。雑誌は中国人の彼女が出来たという大学時代の友人にねだられて牛丼一杯で譲ってしまったのでもう手元には無い。彼のピックはボクの部屋のPCの横の棚に置いてある。ギターを弾く友人がたまにやって来て手に取ることがあり、使った形跡があることに気づいて不思議そうな顔をするときがある。ボクの部屋にギターは今も無い。でも、そのピックは実はすごい音がすることをボクはちゃんと知っている。もちろん、本物の持ち主の手の中で、だけど。




