第2話
ボクは財布を取りだして中身を確認した。このバーでカクテルか何か、この際コーラでもいいや、このバンドの演奏を聴こうと思いついたのだけど、今思い出しても残念なことにわずかに足りなかった。さっきのスロットから昇天した5ドルを呼び戻せるならその場でひざまずいて祈ってもいい、それぐらい悔しかった。仕方なくバーの入口の、なるべく他のお客さんが入るのに邪魔にならないような位置でバンドの演奏を眺めることにした。ボクの横を、韓国語を声高に話しながら10人ぐらいの団体客が通り過ぎて店の中に入っていった。
アレックスとクリスが何かひと言交わした後、クリスが叩きだすドラムのビートに合わせてコンガの男が、今度は少し重いタッチで応じた。アレックスのギターが哀愁を感じさせるメロディを鳴らし、ジョディが歌いだした。彼女の顔はボクの位置からでも分かるくらい緊張していて、マリア、マリアとゆったり歌うだけの曲なのに、視線がずっと天井を向いていた。曲が始まってすぐにボクは誰かに呼ばれて振り返った。お局社員の雑賀さんだった。この人は昼間に免税店で今日一番の高額な買い物をしてみせたが、その時の通訳はボクだ。雑賀さんにこの曲を知っているかたずねると、サンタナというギタリストの曲だと言う。題名は、と聞いたら、さっきから歌詞で何回もいうてるやん、と鼻で笑われた。「マリア・マリア」という曲だ、ということらしい。雑賀さんはバンドが次の曲を演奏すると、あっこれ、ととのあふりかやん、と反応し、キミちゃん呼ぼ、この近くにいてるはずやねんとスマホをいじり出した。ステージではアレックスがコンガに合わせて体を前後に揺らして踊り、ジョディの上ずり気味の歌に少し苦笑いしながらコーラスを入れた。アレックスの胸には大きな金色のメダルがかかっていて、彼が体を揺らすたびに照明の光で輝いた。曲の終わりかけにキミちゃんが合流したが、この人とは面識がなかった。ボクの会社は部署のわかれ方が変で、取引先からもよくネタにされるくらいだ。雑賀さんとキミちゃんはなにやら相談をはじめたが、どうやらこの次の曲が二人の好みに合うものだったらこのバーに入って最前列で演奏を聴こう、ということらしかった。ステージの上ではクリスがあの熊みたいなベース担当に声をかけていたが、振り向いた熊さんは顔をしかめて首を横に振った。クリスがなにか短く言い放つと、熊さんは軽く肩をすくめてみせた。海外ドラマでも高確率で相手がカチンとくる仕草なのにな、と思ってみているとすぐにコンガがリズムを刻みはじめ、熊さんはかなり高い音を弾いてそれに応じた。雑賀さんとキミちゃんはすぐに反応し、せぷてんばーやん、あーすやん、と手を取り合って喜んだ。先に入って席とっとくわ、サヤカも呼ぼうよ、キミちゃんはここで待っててあげてな、と言い残して雑賀さんはバーの中に入っていき、あっという間に客席の暗がりに消えた。先ほどの韓国の一団はステージからかなり離れたテーブルを占拠して、見事なまでに誰も演奏を聴く様子はなく、オレンジジュースとコーラとフライドポテトを口に運んでいた。
ジョディが客席に向かって話しかけた。その中にバラードという言葉が聞きとれたということは、これからバラードを演奏するからロマンティックな気分に浸ってください、ということらしい。客席からはまばらに拍手が起きたが、ジョディが話している間にもグラスが床に落ちて割れる派手な音が響き、ブクブクに太った黒人の男がケータイに向かってわめいていた。シンバルの音が小さく聴こえたかと思うとエレキギターが柔らかくツヤっぽい音色を奏でた。従妹のクルマで聴いたことがある、誰だっけ、くれ、くら、そうだクラプトンだ、「ワンダフル・トゥナイト」という曲だ。従妹の友人の結婚式の二次会で新郎の友人たちのバンドがこの曲を演奏し、新郎を涙の海に沈めたという話を従妹から何度も聞かされていたので思い出すことができた。ギターの音が夕暮れの海辺の波音のように心地よく響く。アレックスはわずかに体を左右に揺らしながら、あくまでもゆったりと弾いてみせた。コンガの男はクリスのドラムのすぐそばまで下がり、なにか神妙な面持ちでマラカスを振っていた。最初はジョディが歌い、二番ではアレックスが歌ったが、その途端にガッカリした顔でテーブルに戻る男の客が四人いた。入口のポスターのジョディは大きくスリットの入ったゴールドのドレスを着て、その細い脚を見せるようなポーズをとっている。誰もがうらやむほどの豊かな黒髪で、鼻も目も真ん丸な顔立ちは以前テレビで見たヴェトナムのトップモデルを思い出させる。でもステージの上の彼女は青いラメの、いたって普通の長さのドレスを身にまとい、久しぶりのカラオケにつき合わされたみたいにカチカチになっている。何をジョディに期待しているんだ、分かってない奴らだなぁ、とボクが苦笑した時だ。アレックスがギターを優しい手つきで弾きながら客席を見わたし、ボクと眼が合った。彼はすぐに左手に視線を戻してしばらく弾いていたが、再び顔を上げた。今度はボクのほうを、穏やかな笑みを浮かべながら真っ直ぐに見た。ボクはとっさに右手の親指を立てて胸の前に差し出した。演奏の素晴らしさをたたえるつもりで条件反射のように出したサインだったが、アレックスはすぐに顔をほころばせて笑い、会釈のように軽く頭を下げた。曲の最後にはジョディとアレックスが完璧に息の合ったコーラスを聞かせてくれたが、ぎょっとするくらいの大音量で鳴りだしたケータイに邪魔された。曲が終わってジョディとアレックス、ベースの熊さんが客席に一礼した。するとそれを終演の合図とカン違いしたらしい客が3人くらい席を立ってレジに向かった。その光景を見たクリスがジョディになにか険しい表情で言いかけたが、アレックスが手を挙げてそれを止めた。
ステージから音がしなくなったな、と思っていたらアレックスが肩からギターを降ろした。ルビーみたいな真っ赤なエレキギターから木目の地味な箱のギターに持ちかえて軽くチャランと音を出し、すぐにクリスに眼で合図を送り、ドラムが鳴りだした。コンガの男はジョディに寄っていき、拍子木みたいな小さな打楽器を渡すと自分はマラカスとタンバリンを手にしてドラムに応じた。ジョディは渡された打楽器でカツン、カチンとよくとおる音を刻んでいたが、急にアレックスのほうを向いて首を横に振るとマイクから一歩半ぐらい下がってしまった。アレックスは一瞬驚いた顔を見せたがすぐに自分の前のマイクに向かって歌いだした。しばらく聴いているとその曲が、雑賀さんのカラオケの十八番だったマドンナの「ラ・イスラ・ボニータ」なのに気づいた。アレックスは意外と高い声をしていて、女性の歌でもそれほど無理なく歌ってみせた。ただ、ギターを弾きながらは大変みたいで、歌いだしがどうしても遅れてしまっていた。ジョディは打楽器を鳴らしていたが、この曲の間はずっとうつむいていた。ジョディが歌わなくなると、ステージの前で立ち見していた若い白人の男が二人とも去っていった。




