前世の二の舞をステップで躱す
「今まで散々自分の乙女心をハンマーで粉砕した挙句に竜に踏ませて樽詰めにして海に投げ捨てる様な事してきた男に、今更「好意の裏返しでした本当は好きです付き合ってください」とか言われて喜ぶ女が何処に居ると思ってんの?ここに居ると思ってたの?御目出度過ぎて逆に心配になるわね、医者に行って頭の検査してもらったら?とにかく貴方とは一生関わりあいになりたくないの、私の為にお願いだから二度と話しかけないで。あと私結婚が決まったのよね、祝福の言葉はいらないわ、今すぐ帰ってくれるのが一番の贈り物よ」
ずっと好きだった幼馴染の令嬢が、隣国に嫁ぐという話を聴いて、居てもたっても居られなくなって訪ねて行って告白した返事が、これだった。
元々勝ち気な性格の彼女が、自分がちょっかいを出すと、悔しそうに涙目になって睨んでくる、その顔が見たくて。もちろん笑顔も可愛らしかったけれど、それを素直に言えるような性格だったら、前述の様な言葉は頂戴していなかっただろう。
小さいころに一度そういう関係が出来てしまうと、もう引込みはつかなくて。結局お互い成人するまで、彼女を見れば嫌味やけなす言葉を口にして、彼女はそれに対していらだちの表情を隠そうともしていなかった。対外的には完璧に淑女の仮面をつけていた彼女が、そうやって感情を露わにする相手は自分だけだと、今思えば勘違いも甚だしい優越感を持ってすら居た。
そして、そのツケを、自分は一気にひっかぶった。
情けない事に、一言も発することすら出来ず、「お嬢様のお申し付け」に忠実な家人によって迅速かつ丁重に実家に送りつけられ、自分の顔を見た姉が腹を抱えて「ソレ見たことか」と爆笑した頃になってようやく、自分がやってきたことが全て裏目にしか出ていなかった事に気がついた。
「だから言ったのに。好きな子ほどいじめたくなる、なんて実際最低よ、好きならちゃんと大事にして、好きじゃなくても女の子を敵に回したら怖いわよってね。偉大なるお姉さまの言うことを効かない愚か者には、意中の相手にふられた挙句、社交界では最低評価で誰も縁談に乗ってくれないっていう素敵な現実が待ってるわけ。あぁもう、笑うしか無いわねこの馬鹿。どうせ王都に居たって誰も結婚してくれないんだから、うちの田舎の領地でおとなしく領主でもしとけば?」
もうその時点で色々なもの(プライドとか意地とか気持ちとか)が木っ端微塵だった自分は、2年前に公爵夫人となった姉の言葉に頷いて、ひっそりと田舎の小さな土地の領主になった。なんだかんだで領主の仕事はやりがいがあったし、領民と触れ合ったり、たまに避暑にやってくる友人と語り合う穏やかな日々が、木っ端微塵だった心とかもろもろを、少しづつ癒してくれた。
そうして結局、姉の二人目の息子に領地を譲り、老衰で死ぬまで、自分は独り身だった。
幼馴染のあの子は、隣国でやさしい堅実な男に嫁ぎ、3人の子に恵まれ、幸せに暮らしたという事は、風のうわさに聞いていた。
優しい甥姪に囲まれて、死ぬ間際に思ったこと。
悪い人生ではなかったけれど、人生の初期に色々踏み外してなかったら、嫁とか家族とか子供とか、そういうキラメキを知ることが出来たかもしれない。
次、もし別の人生をやり直せるのなら、自分は絶対に好きな子をいじめるようなことはしない。
そう、思った。
うん、思った。そして思ったという事を思い出して、本当によかった。
本当に、よかった!
何故かって?
「ぼく」は今現在、「自分」が人生を踏み外した第一歩段階、幼少期に居るからだ。現代日本の、よくある一地方自治体の、公立保育園。
そこのお昼寝室で、「ぼく」はばちん、と音がしそうな勢いで目を覚まして、そのまま起き上がろうとして、勢い余って一回転した。
「わぁぁ!!たくみくん、大丈夫?びっくりしたね、いたいいたいはないかな?」
なんだ、どうした、ここは何処で、なんでこんなに頭と肩が痛いんだ。
呆然と座り込みながら、頭のなかを大量のはてなマークが飛び交っていた「自分」に、部屋のすみから駆け寄ってきた先生が、他の子を起こさぬよう小声ながら慌てた様子で頭や肩をなで擦る。ふと自分の手を見て、周りの風景を見回して、目の前の先生のエプロンに縫い付けられたうさぎのアップリケを見て、
(そっか。ぼくは、前は「自分」だったけど、今はぼく、姶良巧、なんだ)
いわゆる前世の記憶を思い出した事に気がついたのだった。
「せんせい、ぼく、だいじょうぶです。あのね、きょうりゅうが出てくるゆめを見たの」
とりあえず目の前の先生を安心させようと、意識して四歳児の言葉を話す。それににっこりと笑顔をつけて見せれば、先生は幾分ほっとした顔をした。頭を打ってすぐに泣き出さなかった為、相当心配したのだろう。その日は母親が迎えに来るまで、何度と無く「いたいところはない?」「気持ちわるくない?」と尋ねられ、手足の動きを注意深く見られていた気がする。
初めは四歳児ってどんなだっけ、と考えながらだった行動も、身体が覚えているのか、帰る頃には自然に出るようになっていた。
しかし迎えに来た母親に、昼寝の後寝ぼけて一回転した事を告げられた時には、さすがに恥ずかしかった。
ちなみに精神科の女医である母はというと、
「たくみ、あたまいたい?」
「ううん」
「じゃんけんしよう、じゃーんけーんぽん!」
「あーまけたー!」
「いえーい勝ったー。じゃ、帰ったら夕飯食べる?」
「うん!ぼく、カレーライス食べたい!」
「よっしゃ大丈夫。先生すみません、ご心配かけましたね。一応一晩様子見て、何かありそうだったら病院に連れて行きます。ありがとうございました」
流石の対応である。頭を下げる母の隣で、ぼくも一緒にべこりとお辞儀をした。
「よかったです。たくみくん、何もなかったらまたあしたね?」
と笑顔で手を降る先生に、小さな手を振り返し、母と共に車に乗り込む。
「おかーさん、今日はカレー!?」
「いや、たくみさっき負けたから今日はうどん」
繰り返すが、流石の対応である。
さて、「好きな子をいじめたりしない」「女の子を敵に回さない」事が、ぼくの今世での幼少期から思春期にかけてのテーマとなったわけですが。
「たくみくんは、わたしと遊ぶの!」
「えりちゃんいつもそう言うじゃん、たくみくんだってメーワクしてるよ!」
「まりかちゃんこそいつも、お弁当食べるときたくみくんのとなりでうるさいって、りょーくんが言ってたよ!」
「そんなことないもん!」
「あるから言ってるんだもん、もういいよ!たくみくんいこ!」
「たくみくんは、えりといっしょに行くんだよ!」
・・・・・どうしてこうなった。
敵に回さない為に、極力女の子には優しくを心がけていた(精神年齢が跳ね上がったため、それまでうるさいだけだった幼女に寛大な心を持てるようになったおかげだ)のに、その挙句がこの有り様だよ!うわようじょこわい。それにこのままでは「女子を敵に回さない」という大前提が崩れ去ってしまう。
前世で大往生を遂げたじいさんを取り上げて、何を争っているんだい君たちは。
そう言いたくなるのをぐっとこらえて、二人の舌戦が途切れた隙に、台詞をねじ込む。このタイミングの読み方は、領主時代の会議で随分磨かれた。
「えりちゃん、まりかちゃん。ぼく、読みたい本があるの。だから、としょしつに行きたいな。ケンカするならひとりで行くよ」
少し不機嫌そうにそういえば、二人の幼女は迷った顔をして、結局どちらも庭に遊びに出ていった。ふたりとも、本を読むのは得意ではないのだ。
まんまと図書室に逃げ込んだぼくは、お気に入りの絵本を膝において、小さくため息をついた。
げに恐ろしきは女の嫉妬である。
この格言を、まさか保育園で知ることになるとは・・。まぁパッとしない顔ながら、他の男児と違い優しい対応を心がけている所為だろう。保育園には、昔の自分を見ているようで、しょっぱい気持ちになる態度の男児がちらほらいる。
しかし来年からは小学校。その先の学校生活を穏便に、そしていつか好きになる子に誤解されないためにも、女子にはあまり近づかず、静かにしておいて、これと言う相手を選んで優しくするべきだろう。そういう意味では、保育園のうちにこういう状況になってよかったかもしれない。
ちなみに女の子の対応ばかり懸念しているぼくだが、今現在保育園での男の子との関係は、普通9割、一部からやっかみつっかかりを受けるといったものになっている。初めの頃は「おんなにヘラヘラして、おとこらしくねーぞ!」とか「たくみはまりかがすきなんだろ、らーぶらぶ!」といった、園児によくあるやっかみ対応を頂いたけれど、「ぼくそんなに笑ってたかなぁ?れおくんも、くれあちゃんといる時はいつもにこにこしてるね!」とか「まりかちゃん、好きな人いるって言ってたよ?ぼくはゆき先生が一番すきー!」とか返していたら、いつのまにか大抵が静かになった。
女児とちがって、男児はちょろいもんだ。
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方針転換が功を奏したのか、最も「好きな子をいじめ倒して将来に禍根を残す」危険の高い小学校時代は、平穏無事に過ぎ去った。
落ち着いた雰囲気(実際領主じじい時代の記憶があるので、落ち着きまくっているのだが)が素敵だと、高学年の頃には告白されるというイベントも、いくつか経験させていただいた。
残念ながらお付き合いしたいと思える相手ではなかったため、「好意については素直に感謝を述べ、しかしはっきりと交際は出来ない事を伝え、ごめんなさいの言葉と同時に90度お辞儀」という、妹オススメの対応を実践したところ、なんとかトラブル無く小学校の卒業式を迎えることが出来た。ちなみにまだ「好きな人」には巡りあえていない。
話は変わるけれども、ここで妹の事を少し話そう。
四歳でもろもろを思い出した僕は、今世で自分が一人っ子であるという事実に、大きな不安を覚えた。
もちろん今世では恋をしたり、結婚したり、家族をもったりしたいと心から思っているし、そのために努力する所存ではある。しかし前世の様に、自分の努力が180度反対方向を向いていないという補償はない。となれば、もし前世の様に一人身を貫いてしまった場合、誰が自分を見とってくれるのか?ひとりぼっちで死ぬという、悲しい最期を迎えないためにも、必要なのは兄弟(およびその子供)だ!幸い小さい子供は好きなので、前世のように、甥姪達に愛情を注いでおけば、看取りくらいはしてもらえるはず。
そう考えた僕は無邪気な顔で、「ぼく、妹がほしいな!」「えいた君とこの弟赤ちゃん、かわいかったなぁ」と両親に懇願。
「私自身も二人兄弟だし、巧の為には兄弟が居たほうがいいかもしれないね」
「そうねぇ、巧も随分手がかからなくなってきたし。最低でも二人作っておけば、少子化対策は最低レベルクリアできるわけだし」
という話し合いの末、五歳の時にめでたく妹が誕生したわけだ。ちなみに前述の台詞は、父→私も〜、母→そうねぇ、である。母よ・・。
生まれてきた妹は、くりくりとした眼と、やわらかな頬、さらっさらの髪をもつ、我が妹ながらびっくりするほど可愛い子どもだった。
ぶっちゃけて言えば、子供は大抵眼が大きいし、頬も柔らかいし、髪質もさらさらである。要するに、「親の欲目」ならぬ「兄の欲目」というやつだ。
いやしかし可愛い。
僕は妹の世話をしまくった。おむつを変え、哺乳瓶でミルクをやり、哺乳瓶とおしゃぶりを消毒し、風呂あがりにはバスタオルと着替えとおむつを完璧にスタンバイさせ、保湿クリームを塗り、母の腕の中で眠る赤ん坊の手足を思う存分ぷにぷにした。半分以上、妹は僕が育てたといっても過言ではない。おそらく妹は、母の顔と僕の顔なら、僕の顔を見ている時間の方が長かったのではなかろうか。
妹の離乳食を準備するために、料理も覚えた。丁寧にダシをとる薄味の離乳食から学んだおかげで、小学校を卒業する頃には共働きの家の食事は半分以上ぼくが作る事になっていた。
成長するにつれ、妹は立ち、走り、言葉を話すようになり、
そしてある日、高熱を出した後の台詞で僕の度肝を抜いた。
朝から突然発熱した4歳の妹が心配で心配で、医者である母が付いているとはいえ居てもたっても居られず、学校が終わるや否や全力持久走で家に帰ると、布団の上に座った妹は、ぱちくりとその大きな目を瞬かせた。
朝出た時よりも、随分顔色が良い。その事にほっと息をついたぼくに、母は夕飯の支度をするからその間付いていてくれと言い残して、部屋を出る。
二人になった部屋で、ぼくは重いランドセルを机の上におろして、妹に歩み寄った。手洗いうがいはこの部屋に入る前に済ませてある。
「翠、熱はさがったの?水は飲んだ?」
「・・・・・・・・・・」
そっと問いかけても、妹は不思議そうな顔をしてぼくの顔をじっと見るばかりだ。その様子に、胸に広がっていた安堵がするすると縮んでゆく。
「みどり・・?どうしたの、お兄ちゃんだよ?ねぇ、聞こえてる?」
もしかして突発性難聴とかそういう、耳が聞こえない状態になっているんじゃないのか。不安から少し震える声でそう言うと、妹はようやく口を開いて
「お兄ちゃん・・・・・・・・ラウル?」
そう言った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「お兄ちゃん、ラウル・ヴァイオレームってひと、しってる?」
突然告げられた、前世での自分の名前に、ぼくは口の中がカラカラになるまで口を開けていた。
「な・・・なんで、みどりが、そんな事しってるの・・・?」
なんとか絞り出した声は、先ほどと比べるまでもなく、震えていた。翠が、妹が、昔の「自分」を知っている人間だなんて、そんなはずは。
破裂しそうな心臓を、シャツの上からぎゅっと握り締めると、それを見た妹が、ふわりと、今までの子供の笑みとは違う、まるで仕方のない子供を見る大人のような顔で、笑った。
「そのくせ、変わってないね。・・・・思い出したの、ラウルのこと。お馬鹿で愛すべき、弟だった、お兄ちゃん」
「そ、それじゃ」
「いまは、好きな子いじめたりしてないわよね?『巧おにいちゃん』」
その口ぶりは、最後の単語は違うけれど、確かに姉のそれで。
「うん・・うん、大丈夫。今度はちゃんと、好きな子には優しくして、好きじゃなくても敵に回さないように努力してるよ、『翠』」
その懐かしさと、自分の記憶を共有できる相手がいる喜びと、そう報告できる誇らしさと、色んなモノが交じり合って、涙目になったぼくは、思い切り妹を抱きしめた。
「・・・よかった。結局ラウルはずっと独身だったから、姉が地方領主になんかさせた所為なのかしら、とか色々心配してたの。今度は幸せになるんだよ」
「なんか死にそうだからその言い方やめて!大丈夫、ラウルだって最期に「悪い人生じゃなかった」って思ってた。でも今度は、前に出来なかった事いっぱい出来るように、がんばるから。翠も応援してね」
「応援ならまかせて!いっぱいダメだしするから!」
小さな身体に似合わないその台詞に、ぼくは思わず苦笑する。
「おてやわらかに、おねがいします」
そして抱き合ったままふふ、と笑い合っているところに、おかゆを持った母登場。
「仲がいいのはいいけど、巧は後でご飯の前にもっかい手洗いうがいしときなね」
母よ・・・妹はただの記憶の蘇りによるオーバーヒートであって、感染性の病気ではありません・・。
ちなみに、僕は思い出した時に一回転して頭をうったおかげか、熱は出さなかったというと、妹は「お兄ちゃんらしいなぁ」といって笑っていた。
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かくして最強のアドバイザーを手に入れ、無事小学校を卒業した僕は、近所の中高一貫校に進学した。
両親は共働きで、公立だと保護者会等が大変だ、という理由と、ただ単に近いという理由からだ。それに中高一貫であれば、短い間ではあるけれど、翠と同じ学校に通える。シスコンと言いたい奴には言わせておけばいい。
ちなみに同じ小学校からは、数人が同じ中学校に進学した。小学校が同じメンバーはほとんど居ないものの、クラスの大半は同じ進学塾出身者なので、ほとんどが顔見知り。
そういう訳で特にトラブルなくスタートした中学校生活も、すでに半年が過ぎようとしている。
「たっくみーん!数学のC問題見してー!」
朝7時15分。どすん、と音をたてて背中にかかった重力に、思わず「ぐ」と声を漏らして、僕は首だけで振り返った。
全く悪びれる様子もなく手にしたノートを振ってみせるのは、小学校からの腐れ縁、上甑嶺だ。
「上甑・・当たってるなら、当日の朝じゃなくてもっと前に聞きに来いって、前に言ったよな?イキナリ来て答えだけ写すの、意味ないからやめろって」
「何言ってんだタクミン。先日参議院で『学徒相互協力法案』が通過したのを知らんの?助けあう事で人間性を高めるための法案で、今日から施行されるんだぞ?」
大真面目に大法螺をふくその内容に、思わず笑いがこみ上げる。上甑とのこういうやりとりは、実はかなり楽しい。
「上甑、お前こそ知らないのか?憲法53条の項目4に、『学徒と称するものは須らく、己の研鑽のみによってこれをおさむるべし』って明記されてるんだぞ」
「まじか・・憲法に書いてあるとなると、この法案は違憲になるな・・・」
「残念だったな。ほら、見せてみろ。どこで詰まったんだ?」
ちら、と時計に目をやって、この時間ならまだ間に合う、と手を出せば、上甑は「さっすがー!それでこそタクミン!」と大喜びして、自分のノートを広げてみせた。
「・・・・おい、上甑さんよ。これ、何処で躓いたっつー問題じゃなくね?」
「そうだな、最初っから何の公式使えばいいかさっぱりわかんねーからな」
神妙な顔で頷く相手に、思わずため息が漏れる。
結局、いつも通りノートを貸すことになりそうだ。もちろん、そのままでは上甑のためにならないので、昼休みに「上甑から」の解説をしてもらうことになるだろう。人に説明することが、一番理解が深まるからだ。
「上甑、わかってるよな?」
「うぅ・・・わかってるよ。ちゃんと解説聞いてくる。タクミンこえーもん」
にこりと笑って差し出したノートを、押しいただく様に受け取った上甑を見送って、僕はようやく自分の朝補習の準備を始める。
この日いつもと違ったのは、隣の席からかけられた声だった。
「姶良君って、憲法の内容全部覚えてるの?」
思っても見なかったその内容に、ぽかんとした顔をしてしまった自覚はある。左隣りの席からそんな僕を見ているのは、クラス委員の吾平綾さんだ。全く違う漢字だが、僕と彼女の苗字は同じ読み方をする。ハキハキしていて、姉御肌の彼女は、出席番号一番ということも有り、4月の入学式後にクラス委員に任命された。
「とりあえず出席番号一番と二番、ダブルあいらにクラス委員を頼もうかな」
入学式の日、自己紹介を終えたところでそう軽く宣った担任に、吾平さんは素直に頷いたけれど、僕は異議を唱えた。家事や妹の事を考えると、できるだけ責任職には付きたくない。
「女子が出席番号一番なら、男子は最後尾からでどうですか?委員の苗字が同じだと、色々と混乱することもあるでしょうし。男子の最後は・・・湧水、僕も手伝うし、どうかな?」
幸い、男子の最後は塾時代からの友人で、家の事情を知っている奴で。
副ならやる、と言ってくれた湧水に、僕はその日肉まんを奢らされた。
そんな訳で、まんまとクラス委員から逃れた僕に良い印象を持っていないのか、席替えで隣になっても、吾平さんから話しかけられる事はほとんどなかったのだけれど。
「へ?憲法・・?いや、受験の時に何個かは覚えたけど、流石に全部は。・・・もしかして、さっきの聞いてた?」
答えている途中で、もしやと思いそう訪ねてみれば、吾平さんはメガネの奥でパチパチと瞬きをして、
「・・・・・・え、じゃあさっきの憲法53条とかって、嘘なの?」
少し首をひねりながらそう言った。いつもクラスをまとめあげている、凛とした表情の多い彼女が見せたあどけない表情に、鼓動が変にはねたのを感じる。
(え・・え?何、これ)
「いや、嘘、というか、冗談かな。上甑はよくああいう冗談を言うから、それに合わせたんだけど」
「そ・・・そうなんだ・・いや、てっきり本当かと思って、うわ、恥ずかしいな」
視線を外し、口元を拳で隠すその頬は少し赤く染まっていて。
(か、かわいい・・!!)
少し癖のあるショートカットから覗く耳も、ほんのりと赤い。ネックの部分にラインストーンがひとつついた、シンプルな赤フレームの奥で泳ぐ目は、綺麗な二重を描いている。今まで何とも思っていなかったクラスメイトの、あまりにもかわいらしく恥じらう姿に、目が釘付けになった。
(なんだこれ、なんだこれ!!吾平さん、かわいい!ちょ、ヤバいかわいい!)
頭の中はさっきから「吾平さんが可愛い」しか言っていない。
ちなみに動悸の早さも尋常じゃない。
「そもそも、いつも真面目な姶良くんが、大真面目に言うから、本当かと思っちゃったんじゃないか。冗談ならもうちょっと分かりやすくやってくれないと!」
拗ねたような眼で、上目遣い(にらんでいるのだろうけれど、今の僕にはそう見える)なんかされたらもう、ちょっとたまらない。への字に結ばれた唇すらも可愛いと思える。むしろ姶良さんが輝いて見える。
あぁ、これは、アレだ、間違いない。
恋だ。
やっと見つけたよ、翠。姉さん。
優しくしたい、好かれたい。そう思える人を見つけられた喜びに、頬が緩むのを感じた。あぁ、早く帰って翠に、好きな人が出来たと伝えたい。
あの厳しくも優しい姉の魂を持った妹は、きっと喜んでくれる。
「うん、ごめんね?」
「ぐぬぬ・・いや、騙された私も悪いんだけどさ、笑いながら言われても全く誠意を感じないよ姶良くん!」
「あはは!でも、笑ってるのは吾平さんを馬鹿にしてるわけじゃなくて、うれしいからだよ」
こころのままにそう言うと、吾平さんーー綾さんは、ぱちくりと眼を瞬かせた。あぁ、そのきょとんとした表情、いつものしっかり者のイメージとのギャップがヤバい。なんでこんなに可愛いのに、今まで「しっかりしてるけどちょっとこわい姉御」としか思ってなかったんだろう、自分が信じられない。
「・・・・嬉しい、って何かいい事あったの?」
今の流れで何か喜ぶ所、あったっけ?あ、姶良くんまさかのドM?
言外に「ひくわー」と言わんばかりの瞳を見つめて、にっこりと笑ってみせる。
「吾平さん、クラス委員の件で、僕の事怒ってたでしょう。あんまり話とか出来なかったから、こうやって話しかけてくれてすごく嬉しいんだ。席も隣だし、あいら同士、これから仲良くしようね、綾さん」
「・・・・・・・・は、はぁ。しかしなんで急に名前呼び?」
しれっと呼んだ名前に引っかかったのか、少し微妙な顔で頷く綾さん。でもここは押す所だと思う。
「え、だって他の子達は皆、紛らわしいからって、僕らの事名前で呼ぶよね?まぁ、クラスで綾さんの事『吾平さん』って呼ぶの僕だけだったから、ちょっともったいない感じもするけど」
「え・・いや、うん、確かに皆下の名前で呼ぶけど、え?ちょっと、どうしたの姶良くん」
「どうもしないよ。あぁでも、綾さんと仲良く慣れて、ちょっと浮かれてるかも」
その直後、響き渡ったチャイムの音にかぶせる様につぶやかれた吾平さんの台詞に、僕は思わず口元を覆った。僕は今、だらしなくにやけた顔をしているに違いない。
「えっと、まぁ、末永く?よろしく・・」
綾さん、その言葉のチョイスは卑怯です!
聞こえてないと思ってるみたいだけど、バッチリ聞こえてますからね。末永く、よろしくね?
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吾平綾さんという想い人が出来た僕は、その日小学校の児童クラブに迎えに行った帰りに、妹にその旨を報告した。
妹は思った通り、涙ぐまんばかりに喜んでくれて、何故か翌々日には吾平さんについての基礎データを全て把握していた。なにそれこわい。ていうかどこからどうやって手に入れたんだ、その情報。
「お兄ちゃん、中身だけは無駄に年取った甲斐があったわね!綾さんは姉御肌でリーダーとして頼られがちだけど、末っ子だって。そういうデキる女の人は、自分を認めつつも甘やかしてくれる年上に弱いのよ。ちゃんとサポートしつつ、女の子扱いをして、甘やかしてあげて。腐っても騎士学校卒業生だもの、レディーファーストは得意でしょ?あとは清潔感のある外観を保ちつつ、包容力をさり気なくアピールする方向で行きましょう」
「翠、兄ちゃんは確かに中身だけ年食ってるけど、無駄じゃないし腐ってもないからな」
らんらんと目を輝かせた妹の台詞はありがたいアドバイスなのだが、僕の心は着実にダメージを受けている。
「あ、ごめんなさい…そうよね、綾さんに会う為だと思えば、お兄ちゃんの今までは全然無駄じゃないわよね」
しゅんとして謝る小学生の姿は可愛らしいもので、つい口が滑った。
「だいたい、中身の年齢だけ言ったら翠もおなーー」「お兄ちゃん。私、今何か変な台詞が聞こえた気がするわ。気のせいよね?」
そして僕は今日も妹に「スミマセンデシタ」と頭を下げることになるのだ。全く、自分の成長のなさが嫌になるこの頃である。
それからまぁ、妹のアドバイスやら昔(前世で)とった杵柄やらを駆使して綾さんに誠意と好意を伝え、幸運な事に綾さんからの色よい返事も貰えーーそれまでとそれからのゴタゴタはいつか機会があったら話すこととして。
前世で憧れた「キラメキ」を実際に手にした僕は、心の底からあの時の令嬢に感謝している次第である。
そして腕の中で眠るこの小さな命に、綾さんの目を盗んでは言い聞かせている。
(お前はちゃんとはじめから、好きな子には優しくして、好きじゃなくても敵に回さないように努力するんだよ)
あぁ、前世とは違った意味で、僕はとっても幸せだ。
「だぁ」と返事をする息子がその意味を分かる日はまだ先だろうけれど、ね。