9. 梅雨晴れ
梅雨の中休みが訪れたら、電話をかけると決めていた。
ぴたりと雨の止んだ七月一日、私は久しぶりに春市に電話をかけた。電話番号を変えられているか、着信拒否を設定されていたらどうしようかと思ったが、電話からは順調に呼び出し音が聞こえる。
「はい、楡です。」
座ったまま電話をかけてよかった。声を聞いただけで脚が震えている。
「雛?」
静かな声音に、意外そうな、訝るような色が混じっていた。
「久しぶり。」
私の声が震えていた。何度も深呼吸して息を整える。電話の向こうの春市は無言で待っていた。
「春市、あのね。」
私は初めて完全に私のためだけに春市に電話をかけていた。私は私なりに二人の関係を完結させるために、あの日言い損ねたことをどうしても春市に伝えたかった。無様でも、疎ましく思われてもいいから、私の気持ちを彼に知って欲しかった。一人でいつまでも抱えていたら、本心を伝えられたらどうなったかと有り得もしない可能性ばかり追いかけ続けてしまうから。
長くもない私の話を聞き終わって、春市は笑った。
「告白した日も、返事をもらうまで一か月以上かかったね。」
「そうだね。ずっと待ってくれてた。」
「まさか別れ話も、返事をもらうのに一か月以上かかるとはね。」
「待っていた?」
それとも、あなたはもう終わったつもりになっていた?
春市の沈黙の向こうに町のざわめきがした。そういえば、仕事中であるのが明らかな時間に電話をかけたのも初めてのことだ。
「電話、ありがとう。別れたくないって言って貰えて嬉しかった。少なくとも俺ばっかりが好きだったわけじゃないって、やっと分かった。」
返事をはぐらかされたけれど、問い詰める気にはならなかった。
「あの日、言えていたら何か違ったかな。」
「それは、あの日に戻らないと分からないね。」
もう戻れない。春市の言葉はそういう意味だ。
「そうだね。」
私達は、もう戻れない。春市はもう私のことを好きではないし、私も去年までと同じ気持ちで彼を慕うことはできない。だから、これで本当に本当のお別れだ。
「春市、ありがとう。」
「うん。じゃあ、元気で。」
電話を切った後に、畳に寝そべって窓の外を見上げる。久しぶりの青空に目を細めて、そのままうたた寝をした。晴れの天気予報を聞いてからしばらく緊張してよく眠れていなかった。
ああ、そうだ。目が覚めたら、用済みになった春物のコートを片付けてしまおう。