8. 五月闇
「ごめんね。」
暗闇の中で小塚くんがぽつりと呟いた。
「こっちが悪いんでしょ。起きなかったんだから。」
「そもそも、俺が無理に呼び止めたからさ。泣かせたし。」
「それは小塚くんのせいじゃない。」
「まあ、そうだろうけど。」
「放っておいてくれたら、泣かなかったかもしれないけど。」
「どっちだよ。」
「決定打は小塚くんじゃないから。」
「なんか、あったの?」
「別に。」
見え透いた嘘に、小塚くんは沈黙した。ちらりとこちらを振り返ったのが気配で分かる。この暗がりの中で、私の表情が見えているだろうか。
小塚くんが海の方へと向き直ったのを確認してから答えた。
「彼氏と別れたの。よくある話でしょ。」
「まあ、そうだね。」
「迷惑かけて、ごめんね。」
急に腕を掴まれた。驚いて変な声が出る。
「痛い。やだ。離して。」
近づいてがっちりと私の腕を掴んだ小塚くんは真剣な顔をしていた。
「飛び降りない?」
「は?」
「いいや、下りて。下りよう。」
「何?」
彼は強引に私を堤防から下ろした。
「痛いってば。離してよ。」
「ここまで連れて来て、朝比奈さんに飛び降りでもされたら自殺幇助で俺が捕まるし、何よりも一生後悔する。ああ、怖かった。」
腰が抜けたようにしゃがみこんでも、小塚くんは私の腕を掴んだままでいる。力の入り過ぎた指が食い込んで痛い。血が通わないから指先が冷たくなってきた。
「そんな馬鹿なことしないわよ。ねえ、手を離してよ。」
彼の手を叩くと、ようやく離してくれた。腕の中で一気に血が流れ出す感触がする。彼はしゃがみ込んだまま、両手で顔を覆っている。
私は飛び込みそうに見えただろうか。振り返っても、もう海は見えない。まだ顔を上げられない小塚くんの隣で、私は堤防に背中を預けた。
春市が去っていって寂しい。悲しい。後悔がたくさんある。もう一足掻きできなかった自分に失望もしている。でもやっぱり今から堤防を駆けあがって海へ飛び込もうとは思わないし、他の手段でも死んでしまおうとは思わない。
それとこれとは、全然別のことだ。春市との別れは、この世の終わりではない。
そう思ったら、ほんの少しだけ心が軽くなった。
「帰ろっか。」
いつの間にか立ち上がった小塚くんに促されて堤防から背中を離す。
「ん。」
差し出された手を見下ろして、今度はその手の持ち主の顔を見つめる。顰め面で小塚くんはもう一度手を差し出して見せた。
「朝比奈さん、死にそうで怖い。トラックが来たら飛び出しそう。」
「そんなこと、しないってば。」
「自分の顔を見てから言いなさい。説得力がなさすぎる。」
小塚くんは私に歩み寄って強引に手を掴むと道路を渡って私を駐車場へ連れていく。大きな手は春市の手より、縦が短くて、厚みがある。知らない手だ。春市の手は手のひらが薄くて、指が長くて、男にしては華奢な手だった。手を繋ぐ力はもっと弱くて、優しく包まれているようにふんわりとしていた。
思えば、春市は力いっぱい私の手を握ったことは無かったのではないだろうか。彼はいつも優しくて、穏やかで、なりふり構わず私を求めたことなどなかった。
改めて助手席におさまって、車が走り出す。
海岸からずいぶん離れたところで、小塚くんがぼそっとこぼした。
「失恋と言えば海だと思ったんだけど、夜の海は失敗だったな。せめて砂浜にするべきだった。」
「え?」
別れた話は海に着いてからしたのだから、行き先選びには関係がないはずなのに。体を捻って彼を見ると、小塚くんは一瞬だけ私に視線を向けた。すぐに前を向き直ってから続ける。
「たぶん、そうだろうと思って。」
それからしばらくの沈黙は居たたまれないものだった。先に耐え兼ねたのは小塚くんで、信号待ちで車が止まった途端にラジオのスイッチを入れた。ハンドルにもたれてこちらを覗き込んで懇願する。
「慣れないことするもんじゃないなあ。うわあ、恥ずかしい。お願いだから他の奴らには内緒にしてね。」
「う、うん。」
通り過ぎる対向車のライトに照らされた小塚くんの顔は頬が赤らんでいて、私まで恥ずかしくなった。慣れない青春ドラマなんて演じても格好悪いばっかりで、でもそれが現実だ。
いつでも格好良くしていたいなんて、現実を生きる私達には無理なのだ。