6. 慈雨
泣いていては自転車に乗れない。慌てて涙を拭おうとして自転車のハンドルから片手を離したら、自転車が大きく傾いだ。立て直そうとすると、手が届く前に自転車が急に軽くなる。
「それはどう見ても大丈夫じゃないって。」
呆れたような声が、思ったより近くからした。私の手から自転車が引き取られる。
「こんな目立つところで泣かれたら、俺が泣かしたみたいじゃないか。知り合いに会う前に逃げよ。」
小塚くんは自転車を片手で引き取って、空いたもう片手で私の背中を押した。そのまま歩き出す。何か言わなければいけないのに、何も言葉にならなかった。このところ決壊し通しの堤防は頼りにならず、涙は止まらない。取り繕う余裕などあるわけもなかった。
「乗って。別にいかがわしいところに連れ込んだりしないから。」
いつもより少し抑えた調子の小塚くんの声がする。ゴールデンウィークの合宿の時に乗合で使わせてもらった彼の車には見覚えがあった。お父さんのおさがりだと言っていた白いセダン。大学生らしくない渋い車。私は助手席に腰を下ろして、でも心が決まらずに扉を開けたまま、足も外に出したままにしていた。バタンとトランクが閉じる音がして、自転車を積まれたのが分かる。私はこれからどこへ行くのだろう。どうしたらいいのだろう。涙はやっと乾いて来た。
「ちゃんと座って、シートベルトして。ご希望の駅まで送りますよ。どこがいい?」
運転席に乗り込んだ小塚くんは、てきぱきと出発の準備を整えた。彼に背中を向けたまま、私はまだ足を車にしまえない。
「もしもーし、朝比奈雛さーん。このままじゃ車動かせないんですけど?」
分かってる。
「そんなびびらないでも、ちゃんと駅で下ろすってば。ほうら、怖くないよー。」
最後はまるで子供をあやすように言う。ちょっとだけ腹が立った。私は真剣に落ち込んで、悩んでいるのに。でも、腹が立ったのはちょうどよかった。引っ込みがつかなくなっていた足を、むすっとした顔で誤魔化して引っ込めてドアを閉める。悔しいけれど、小塚くんの申し出は本当は有難かった。大泣きしたままの顔で知り合いだらけの学内を通り抜けて駅に向かうのは恥ずかしい。
「小塚くんが余計なこと言って泣かせたんだから、小塚くんに責任取ってもらうのでちょうどいいのよね。」
自分に言い聞かせるつもりで言って、シートベルトを締めると隣で小塚くんが小さな笑い声を上げた。
「はいはい。どこまででも送らせていただきますよ。」
車が走り出す。学校の傍では誰かと目があったらと思うと恥ずかしく、ただ俯いていた。車の中は暖かくて静かで、目を伏せていると眠くなる。
「行き先!寝る前に行き先教えてよ。自転車はどこで下ろすの。」
小塚くんに答えるのも少し億劫なくらい。顔を上げようとしたけれど、瞼が重くて半分くらいしか目が開かない。
「ちょっと、頼むよー。さっきまでの警戒心どこやったの。」
私がどのあたりに住んでいるか位は、小塚くんは知っていたように思う。近づいたら起こしてもらおう。駅の名前だけ言ってもう一度目を閉じた。まだ胸の中はずくずく痛む。でも車の中は守られているようで、私はすとんと眠りに落ちた。