5. 青梅雨
「朝比奈さん。」
声をかけられて顔を上げると、隣の席の学生がいつの間にか見知らぬ学生から、同じ研究室の同級生に入れ替わっていた。
「朝比奈さん、大丈夫?」
顔を覆って俯いていれば心配にもなるだろう。咄嗟に顔を上げてしまったけれど目が潤んだりしていないだろうか。長い髪で頬を隠すように俯いて私は目尻を撫でた。
「うん、ちょっと眠くなっちゃって。うたた寝してた。」
もう一度顔を上げると、彼は眉を強く寄せて疑わしそうに私を見ていた。
「小塚くん、顔が怖いよ。」
指摘すると彼は不服そうに腕組みをした。
「こういう顔です。」
「嘘だ。」
「本当。」
彼は、こんな風に始終顰め面をしているわけではない。大きな笑顔が印象的な朗らかな性質の学生だ。
「具合でも悪いのかと思った。さっきの姿勢で三十分も固まってるから。」
「え?」
思わず時計を探せば、彼の言う通りで随分長いこと物思いに沈んだままだったことが分かった。小塚くんが声をかけてこなければ、春市との思い出を思い返して、さらに三十分くらい平気で過ごしてしまっただろう。混んでいる図書館の席を占領して、それは他人様に迷惑というものだ。
「今日は駄目みたい。帰ろうかな。」
開いたきり、読みもしなかった文献を閉じて、ノートもしまう。
「え、帰るの?送ろうか?俺、今日荷物が多かったから車だし。」
振り返ってみると、小塚くんは私に声をかけるためだけに腰かけていたのか何も広げていない。鞄を担いであっさりと立ち上がった。
「ううん、平気。ありがとう。自転車だし、ここに置いてっちゃうと明日が大変だから。」
小声でやりとりしながら図書館を出た。梅雨が近いのか、空は灰色に覆いつくされ、空気は重い。
「駐車場、あっちでしょ?」
駐輪場へついてきた小塚くんに学生用の駐車場を示すと、彼は肩を竦めた。その動作の意味が良く分からない。
「朝比奈さんの自転車、折り畳みでしょ?車に載せられるから乗っけてあげるって。」
「え、いいよ。本当に。平気だから。」
思いがけず、声が尖った。小塚くんも少し驚いたような顔をしている。こんな風に、声に苛立ちが出てしまうなんて滅多にないのに。
「あ、ごめん。」
「いや、俺も。しつこくてごめん。たださ、ここんとこずっと顔色悪いし。今日は特に。無理しないでタクシー使うんでもいいから気を付けて帰った方がいいと思うけど。」
もうしつこくしないと言う代わりに一歩下がりながら、まだ私の心配をしてくれる小塚くんに、申し訳なくて自然と視線が下がる。心配してくれているのに、嫌な思いをさせて、情けない。
「うん。ありがとう。ごめんね。」
のろのろと自転車に向かって、屈みこんで鍵を開ける。確かに寝不足で頭が重い。目が血走って見えたとすれば、それは先ほど涙のせいだ。でも、本当に悪いのは心。痛むのも心。
「ねえ、朝比奈さん。」
自転車を引き出して跨ろうとしたところで、また声をかけられた。小塚くんは困ったような顔でこちらを見ている。
「本当に、無理しない方が良いと思うよ。さっき、後姿。泣いているのかと思った。泣きながら自転車漕いだら危ないよ。」
心臓が縛り上げられたように痛んだ。煩いと叫んでしまいそうになるのを堪えて答える。
「大丈夫。」
言い終わる前に目が熱くなった。ぼろぼろと涙が零れる。春市の前ではどうしても流せなかった涙は、ちっとも願っていないところでは簡単に流れ落ちてくれる。