4. 行く春を惜しむ
付き合い始めてすぐ、私は春市になぜ私なのかと訊いた。春市は私の一生懸命で真面目なところが好きなのだと言った。健気で、そそられるのだと言っていた。確かに私は不良というタイプではないし、要領よく立ち回るのも得意ではない。何でも人並みにするためには、手抜きができない。そういう当たり前のことが春市にとっては魅力的に見えたのだそうだ。何事も卒なくこなすことができる彼ならではの視点だな、と思った。
「あの日の、必死にコーヒーを集めている様子なんて最高に可愛かったと思うけど。」
私が自分の無様さに逃げ出したくなっていたとき、春市がそんなことを思っていたとは。驚いて、そして私は確信した。彼はきっと洗練された女に飽きて、手のかかる野暮ったい女を探していたに違いない。それでも、それで良かった。背伸びしない自分を良いと言って貰えることは背筋がむず痒くなるように幸せなことだった。
「俺なんていつものジーンズときったないジャージなんだから汚れたっていいのに、自分の綺麗なコートの袖べしゃべしゃにしちゃって。あれ、染みになっちゃったんじゃない?」
確かに、あの日着ていた上着はすっかり駄目になってしまった。コーヒーとクリームの染みが落ちなくて、春先早々に一着しか持っていないスプリングコートを失う羽目になった。
「うん。もう着られないです。」
それだけ答えると、春市は優しく笑って給料が出たらコートを買ってあげるからちょっと待っていてと言った。それが彼からの初めてのプレゼントになった。染みがついてしまったコートも、彼に買ってもらったコートと同じくらい私にとっては大切なもので、丸一年経った今でもクローゼットの中に吊るしてある。そのことは、春市も知らなかったと思う。彼は私の部屋を勝手に漁るようなことはしない。
春市は万事きちんとしていた。お互いに慣れてきても節度を守って、優しく接してくれた。電話をするときも、最初に私が電話をできる状況にいるか必ず確認した。ご飯を食べていたとか、課題をやっていたと言えば、きりが良いところでかけ直してほしいと言ってすぐに切ってしまうことが多かった。だから私は途中から嘘をつくようになった。ご飯が冷めてしまうことよりも春市に電話を切られてしまうことの方が嫌だったのだ。
「雛、無理に俺に合わせてない?」
ときどき春市はそう言って私を気遣った。彼は私にとって初めての恋人だったから、私にとっての恋愛の基準は全て春市だった。ただ当然のように、何の疑問も持たずに彼に従った。私は少しでも彼に求められることが嬉しかった。社会人になりたてで疲れているはずの春市が週末を開けてくれるなら、友人との約束を延期するのは当然だし、彼が夕食を一緒に食べようと言ってくれるなら、課題に取り掛かるのが真夜中からになったって構わなかった。そんなこと、ちっとも無理ではなかった。
春市の優しさや思いやりの中に、純粋な心配以外の気持ちが見え隠れするようになったのはいつだろう。僅かな苛立ち。見逃しそうに小さな気持ちのすれ違い。
それは、あの日よりも前から始まっていた。
私はそれを知っていて、知らないふりをした。彼の苛立ちを一つずつ引っ張り出すのが怖かった。それよりも、彼を喜ばせて、小さな不和を無かったことにしてしまうことを選んだ。
私は素直じゃなかったわけじゃない。ただひどく臆病だったのだ。