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3. 水温む

 楡春市は悪い男ではなかった。

 バイト先の先輩で、良く面倒を見てもらった。二つ年上の彼が就職するのでバイトを辞めるという段になって、向こうから告白された。それなりに親しくはしていたが、まさか告白されるとは思っていなかったので驚いた。春市はすらりとした綺麗な男で、よくバイト先の女の子たちの間でも話題に上がっていた。正直、ぱっとしない私に釣り合う相手とは思えなかったのだ。


 バイト帰りに誘われたコーヒーショップで向かい合ったまま、私は突然のことに慌てふためいた。気を落ち着けようとしてカップに手を伸ばして、ひっくり返した。混ぜ物をいっぱいにした甘いコーヒーもどきがテーブルの上を流れるのを見て、春市の服を汚してはいけないと手を伸ばした。本当に動転していた私は、素手で長い名前のコーヒーもどきを掻き集めた。

 春市が台拭きを持ってきてくれて、お店の人も駆けつけてくれて、すぐにその場は収まったのだけれど、私の服の袖は両方ともコーヒー色に染まって、コーヒーと甘いシロップの香りが染みついていた。三月の夜のことで、湿った袖をまくり上げてしまっては帰りが酷く寒いだろうと思った。


「大丈夫?」

 笑いを噛み殺して春市が問いかけてきた。私はさぞかし無様だろう。俯いて言葉もなかった。しばらく黙ったまま、自分がしなければいけないことをすっかり忘れていた。コーヒーをひっくり返す原因となった出来事。たっぷりの沈黙の後にそれを思い出して、はっとして顔を上げた。そのとき、春市はただにこにこと微笑んで私を待っていてくれた。苛立ちも、悲しみも、諦めも。その日の彼にはかけらもなかった。

「あの、さっき言っていたこと。本当ですか?」

 思わず確かめてしまった私に、春市はとうとう吹き出して、それから頷いた。

「本当です。けっこう周りにはばれちゃってたんだけど、気づいてなかったか。」

 私が頷くと、春市は目を細めた。

「あがりの時間、いつも一緒だったのに?帰りに食事に何度も誘ったのに?飲み会でいっつも同じテーブルにいたのに?」

 言われてみて思い返せば、確かに春市の言う通りだった。それぞれ二人きりではなかったから気にしていなかったけれど、彼ほど年中顔を合わせるバイト仲間は他にいない。

「ああ、早合点しないで良かった。あからさまにアプローチしても何も反応ないから遠まわしに振られているのかと思ってた。」

「まさか。」

 春市は綺麗で、優しくて真面目だ。安心して頼れる先輩だった。厭わしく思う理由がない。私が目を丸くして首を振ると、春市はまだ少しコーヒーの匂いがするテーブルに身を乗り出した。

「じゃあ、改めて返事を聞かせてよ。」

 さきほどまで、ただの親しいバイト仲間だった人だ。いくら好意があっても好きだと言われたからという理由だけで付き合いますとは言えない。私は躊躇った。考える時間が欲しかった。

「もうちょっと時間、もらえませんか。」

 正直に言えば、彼は少しだけ拍子抜けたように椅子の背にもたれかかって、それから「いいよ」と言った。


 それまでよりも頻繁にメールを交わすようになって、私が春市と交際を始めたのは彼が社会人になった後のことだった。その頃の彼はそれだけ私を待ってくれた。


 あれから、一年と一か月。最後に会った日、同じように喫茶店で向かい合ったのに春市はもう微笑んではおらず、私の返事を待ってもくれなかった。私達は十三か月の時間をかけて近づいたつもりが、本当は遠ざかっていたようだった。


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