2. 春の暮れ
春市に別れを告げられてからの一か月を、私は虚ろに過ごした。眠ることも食べることにも興味が湧かず、ただぼんやりと決められた時間割をこなした。大学へ向かう道すがら、当たり前の学生の顔を思い出し、それをまとって教室へ向かう。授業こそ休まなかったけれど授業が終わると、逃げるように教室を出るようになった。学友と歓談する力が出なかった。
逃げ出す先は決まって大学の図書館だ。広い構内を自転車で移動し、駐輪場から直結する入口へ進む。自動ドアが開くと本屋や図書館に独特の紙とインクの匂いがする。まだ冷房を入れ始めるには早い季節。図書館の空気は乾いているが、温い。大学の図書館のこの温さに、入学直後はずいぶん驚いたものだ。地元の図書館は効きすぎるほどに冷房が効いてひんやりしていたので図書館というのはそういう場所だと思っていたのだ。
睡眠不足のせいでふらつく体を何とか支え、首筋にじっとりと浮かぶ汗を拭う。温い空気のせいなのか、体調が悪いせいなのか。それを考える余裕もなく、勉強のためと言うよりも休むために空いている席を探した。資料を求める学生で図書館はいつも混んでいる。それでも、なんとか席を見つけ出し腰を下ろすことができた。周り中、どこかで一度、二度すれ違ったような見覚えのあるだけの学生に囲まれる。誰もが顔をうつむけ、資料とノートに集中している。隣の学生は積み上げた資料が私の陣地にはみ出していないか一度気にしたきり、顔を上げもしない。息苦しいほど人が並び、決して一人ではないのに、きちんと一人になれる。図書館は寂しがりの人見知りにはちょうど良い避難所だった。
私はふうと大きく息をついて、ノートと文献を開いた。来たからには課題をこなそう。そうすれば余計なことを考えないで済む。
通り過ぎた誰かがコーヒーの香りを纏っていた。コーヒーだと思った途端に春市の顔が蘇った。
「雛は、素直じゃないね。」
その言葉を告げたとき、春市は悲しみと苛立ちを滲ませていた。あれが、彼が私に見せてくれた最後の愛情だったのだと一か月も考え抜いた今なら分かる。私を理解できない悲しみと、苛立ち。それは、私を理解したいと彼が思ってくれていたからこそのもの。それからため息を挟んで別れの理由を話しだしたとき、彼にはもう諦観しかなかった。私を、二人の未来を、すっかり諦めていた。
また涙が込み上げてきた。
時が過ぎるほどに悲しみが増していく。春市が目の前にいたときには悲しみを感じる余裕さえなかったということも、一か月が過ぎた今だから分かる。彼の前にいる間、私は彼に夢中だった。
愛している。離れたくない。勝手に終わりを決めてしまわないで。
こんなに簡単な言葉を、思いつくこともできないほど。自分の心を見失うほど、彼しか見ていなかった。
長いため息が震えた。零れた涙がノートに落ちる前に手のひらで乱暴に拭う。今更泣いても何にもならない。