君は吉野の千本桜
正悟が『ソライロアサガオ』こと華と付き合い始めたという話は、どこから漏れたのかあっという間に周囲の知るところとなった。そしてそのほとんどが正悟に対して同じことを聞いてきた。
「お前、誰が好きなんだよ。」
「・・・その言葉を今日会った全員に聞かれているのだが、その質問を誰も異常だと思わないのか?」
正悟があえて分かりにくい返しをしたせいか、質問してきたクラスメイトは「はぁ?」と品のない感嘆を口にした。
こんな常識から逸脱していると思うことは、華と付き合い始めてすぐに起こった。
まず、華と付き合うことは他のどんな噂よりも素早く、かつ広範囲に知れ渡ること。
これは正悟もある程度予想していたが、予想の範疇を大きく超える速さと範囲だった。
男女交際を申し込んだのは土曜日の昼過ぎ。土曜日の夜には家族が知っていた。日曜日には新聞や郵便配達といった家に出入りしている業者と隣近所が訳知り顔で声援を送ってきた。月曜日には正悟の通っている学校の教師を含む全校生徒が知るところとなっていた。
当然、学校で知られていればその生徒たちの行動範囲全てに知れ渡ることになり、交際を申し込んでから僅か三日で隣町まで知れ渡る事実となっていた。
あまりの過剰反応に正悟は何か自分がとんでもない事でもしたのかと思ったが、そこは『ソライロアサガオ』と恋愛事に興味のなさそうな正悟が煙の元である。納得ができないが、あまり反応するものでもないと割り切ることにした。誰も別れろと脅してくるわけではない。しかし、通常の様に歓迎しているかと言えばそうでもなかった。
二つ目は正悟に華以外の本命の相手がいると周囲が推測していることだ。
出会い頭に「『ソライロアサガオ』と付き合い始めたんだって!?」と驚愕され、肯定すると今度は「誰が好きなの?」という質問が来るのだ。
異常であると、正悟は背筋を凍らせた。
正悟が華と付き合うことは、正悟にとっては『華のことが好きである』というごく普通の思考の末の、当然の行動だった。余程特殊な事情がない限り、世間一般にも男女の付き合いとは好きあった者同士、もしくは一方が一方に好意を寄せていることから成り立つ関係だ。にもかかわらず、正悟と華の関係は他の人間には別の意味に捉えられるということを当事者になって初めて理解した。
すなわち、『正悟は好きになってほしい相手と結ばれたいがために、『ソライロアサガオ』と交際し始めた』と要訳されるらしい。
最初はそれに戸惑ったが、すぐに呆れを感じ始めた。怒る気力も失せるほど、周りがそう信じて疑わなかったのだ。
噂のせいで頭が思考することを放棄したのかと正悟は自分の周りにそんな人間しかいないことを密かに嘆いた。ただ、己の心の内を赤裸々に語る様な開放的な性格ではない正悟は、その質問を黙殺することで制する他なかった。
交際を申し込んだとは言え、付き合い始めで華自身にも面と向かってはっきりと好意を伝えておらず、自分のことをどう思っているのかも詳しく知らない段階で、他人に話すことは何もなかった。正悟と華は、まだお互いをよく知らないのだから。
三つ目は、非常におかしなことに、『ソライロアサガオ』との付き合い方に暗黙の了解があることだった。
それを教えてきたのは、つい最近まで『ソライロアサガオ』と付き合い、念願の幼馴染と結ばれたあのクラスメイトだった。
「正悟が誰かに恋をしてるなんて、俺聞いてないぞ!」
「・・・言ってないからな。」
朝から繰り返される質問に辟易していた正悟が、愛読書を開くこともせずに暇を持て余している姿は、普段の読書家ぶりを知っているはずの人間からしたら異常なはずだが、それを指摘する者はいなかった。
それほどの異常事態を引き起こしているという自覚のない正悟に対して、「なぁ誰なんだよ、教えろよ、俺とお前の仲じゃないか」と言い募る彼も、正悟にその気がないと察したのか、それともリアリストで『ソライロアサガオ』の噂も信じていなかった正悟が彼女を頼ったことから本気の恋をしていると誤った、しかし真実でもある認識で勝手に納得したのか大人しくなった。
わざとらしく溜め息を突きながら、頬杖を突いて正悟を机の上から見上げた。
「まぁ、何はともあれ、『ソライロアサガオ』に頼るなら、暗黙の了解は守れよ。」
「暗黙の了解?」
「・・・やっぱり知らなかったか。」
これも『ソライロアサガオ』に関わりたいと思う人間なら常識として知っておくべきなのに、大丈夫なのかこいつと思いながらクラスメイトは説明することにした。
「そう、『ソライロアサガオ』にまつわる四つの約束だ。」
正悟が怪訝そうに顔を顰めながらも、学生鞄の中から手帳を取り出してペンを構えるのを苦笑しながら話し始めた。本当に、真剣な恋愛をしているらしい。
「なるべく一緒に居ること。」
「当り前だ。」
正悟が即答したことに驚いたようだが、「春だな・・・」と呟きながら次の説明をした。二つ目の説明で、一つ目の一緒にいるというのが正悟の認識とだいぶ違うことが明らかになる。
「自分の好きな人と関係があったり、連想したりする場所に行ったり、物を紹介したりすること。」
これには正悟は眉を顰めざるを得なかった。今自分が聞いているのは『ソライロアサガオ』の活用法であって、華との付き合い方ではないことに思い至って、内心で舌打ちをした。しかし、ここで中断して後で何かしらの不都合があっては敵わないと、不快感を押し殺しながら正悟は説明に耳を傾ける。
「よく話をすること。」
「話の内容に指定なんかないよな?」
念のため聞いておくと、「いいんじゃないか? 彼女、いつも笑って聞いてくれたぞ。」との答えが返ってきた。
華の好みを知ることができれば万々歳と思っていたが、所詮『ソライロアサガオ』としてしか付き合っていない彼には難易度の高い注文だったようだ。期待した分、正悟が抱いた虚無感は多い。
四つ目は何だと視線で尋ねると、彼は何の衒いもなく答えた。
「『ソライロアサガオ』自身に危害を加えないこと。」
「危害?」
質の違う暗黙の了解に聞き返すと、彼は肩を竦めて頷いた。
「前に、好きな人と結ばれないからっていじめやら嫌がらせやらあったらしいぞ。まあ、その後に『ソライロアサガオ』関係でもっといい縁に恵まれて、幸せになってるらしいから、『ソライロアサガオ』ってのは好きな人と結ばれるんじゃなくて、運命の人と結ばれるっていう生きた伝説になったわけだけど。」
正悟の予想のはるか上を行く事態だった。
そんなことがあの少女に起こっているなどと知る由もなかった。それはむしろ当たり前のことなのだが、正悟は腹の底が熱くて気味の悪い、タールのようなもので満たされたような心地がした。
「どうした?」
「いや・・・それで、今は?」
「今? ああ、いじめとか? 聞いたことないな。彼女の存在とか効果のパターンが今じゃ周知の事実だから、例え結ばれなくても仕方ないって諦めるやつの方が多い。逆に、諦めきれないやつは『ソライロアサガオ』から距離を取ることっていうのもあるな。好きな人のパターンから外れることで、本当の運命に出会えるんだとさ。」
丁寧に説明してくれたはずなのだが、正悟には一回で理解することができないような奇怪な内容だった。首を傾げ、先を促す。
「『ソライロアサガオ』の効果があるのは三カ月未満。それを超えても効果がないなら、彼女が勧める神社のおみくじ引いて、その方向に遠出するといいらしい。それで完璧に縁が成立すると聞いた。」
俺はそんなことにならなくてよかったけどなと彼が締め括るのを、正悟は呆然と聞いていた。正直、信じられないような内容だ。それではまるで・・・
「あ、おい、正悟!」
クラスメイトの言葉を振り切って、正悟は乱暴に鞄を持つと昇降口へと急いだ。
下駄箱に入った革靴を床に叩きつけるようにして出し、踵がうまく入らないことに苛立ちながら学校を後にする。
女学校に通う華との逢瀬について、放課後と土曜日でいいでしょうかと尋ねてきたのは華だった。女性というのは毎日相手に会いたがるものだと知っていた正悟は特に考えることもなく二つ返事で承諾した。待ち合わせ場所として正悟が公園を指定すると、華もなんの応答もなく頷いた。二人で少し話がしたいという思いで、放課後に待ち合わせをしたが、正悟には少しだけ不安な気持ちが残っていた。
華が、自分を待っていてくれるのか。
クラスメイトと話をしている時、本当は不安だった。
正悟は華を忘れられなかったが、噂だけでもこの三年間、相当な数の人々と友好や付き合いを繰り返している華にとって、自分のように雨の日に会った程度の男では気にも留めてもらえないのではないか、と。珍しく、弱気になった。
落ち着かない心持ちで放課後を過ごし、不安を抱えたまま華との待ち合わせ場所に向かうのだろうと思っていた。
しかし、今の正悟を突き動かすのは不安ではなかった。華に会うことを恐れてすらいたのに、今は早く華に会いたかった。
彼女と会って、安心したかった。
華が、正悟の手の届く少女であると、確信したかった。
普段、野外調査と称して野山を練り歩いていた正悟は持久力には自信があったが、焦りのせいか息は大きく乱れた。吐き出した息は無残に散った桜の花びらよりも重く、地に落とされたように思った。
やっと公園に辿りつき、辺りを見渡す。近眼の気があり、眼鏡をしている正悟にとって遠くを正確に見ることは文明の利器の力をもってしても少し苦労する。なかなか姿を見つけることができず、焦燥感で咽喉が渇き、痛みさえ伴って身体を焼き始めた時、ぽつんと一人だけ他の人間と離れて木にもたれかかる姿を見つけた。
華は、待っていた。
風呂敷に包んだ荷物を両腕に抱え、所在なさげに虚空を見つめている。
正悟が来たことにも気付いていない。視線の先に、いるにも関わらず、だ。
華が、遠い。それが、正悟の中にあった思いをより締め上げる。
たまらない気持ちになって、正悟は叫んだ。
「華っ!」
「っ!」
華がはっと正気に戻ると、目の前には息せき切った正悟が人一人分の距離を開けて佇んでいた。
「・・・こんにちは。」
戸惑ったように間を取ってから、華はぎこちない笑みを浮かべる。しかし正悟からの返事がないことに首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「・・・どうも、しない。」
華はまるで、遠い存在だった。
その場にいながら特別で、空気のようでありながら、必ず効果があると言われている。
まるで神様か何かのように、扱われている。
彼女の心を求める正悟と、『ソライロアサガオ』として縁結びを望める周囲とでは隔たりがありすぎた。誰の話を聞いても、聞かれても不快だった。
それは正悟の感情でしかないけれど、しかし華の置かれた立ち位置を知ればほんの一部でもこんなにもたまらない、叫びたいような気分にさせられる。
あんなに小柄な、泣いていた華には、一体どれほどの重みだろう。正悟は、胸を引き裂かれるような痛みを感じながら、そっと息を吐く。
守りたくなる。頼ってほしくなる。愛しいと、思ってしまう。
「・・・華。」
「・・・はい。」
噛み締めるように、華が笑う。何故笑ったのかも分からないが、それが先ほどのぎこちない笑みとは違う、沁み出すような温かい笑顔。その意味を正悟が知るのはもっと先だが、それでも過去の涙に濡れた逢瀬の時のように、華の心が透けて見える表情に正悟はまた胸が締め付けられた。
「華、逢いたかった。」
──貴女に、巡り合いたかった。
口にしてしまえば砕け散りそうな、思いの丈を込めた言葉を口にする。洒落た言葉も言い回しもできない正悟だが、ただそれを伝えておかなくてはいけないような気がした。
「・・・ふふっ。」
華は零れ落ちそうなほど目を見開き、そして口元に手を当ててそっと笑った。目が黒曜石のように輝いて、映っている正悟が揺れたように見えた。
しかし、華から同じ言葉が返ってくることは、終ぞなかった。
──色香よけれど気が多い
貴女は多くの人の願いを叶える。皆の、貴女だ。俺には遠い、存在なのだろうか。