たとえ泥田の芹にもさんせ
何故という疑問が、華の中に渦巻いた。
何故今さらそんな事実を浮き彫りにさせるのか。過ぎてしまった十年を華にはどうしようもできないと言うのに。
何故気付かなくていいことに気付いてしまったのかと自分を責めた。どうしてそんな、華の祖国ではありえない様な、外国文学にあるような偶然があるのかと華は愕然とした気持ちで山吹を見た。
その姪の反応をどう思ったのか、山吹は常には見せない切ない様な、憐れむような目で華を見つめた。
「お転婆で自由奔放な、多感な少女が侵す過ちとしてはよくあることだと思うけれど・・・華には早かったかしら? 婚前交渉、もしくは婚外の交渉、そして私生児なんて。」
ありえないことではなかった。華の国にもあることだ。だが、名家であり旧家の縁結びの一族では禁忌にも等しい。
ましてや山吹はその結果であるはずのマヤを捨てたのだ。
血の繋がりや柵の一切を断つためとはいえ、幼い我が子をたった一人、こんな誰も頼る人がいない場所に置き去りにして。
「叔母さま・・・どうして・・・」
崩れ落ちそうな絶望があるのだと言うなら、今がそうだ。自分の常識がことごとく破壊される。しかも今は自分にとって唯一頼る存在である目の前の叔母が、ほぼ最低と言っていい方法で。
「どうして・・・どうして、そんな、ひどいことが、出来るんですか?」
喘ぐように言葉を紡いだ。
堰を切ったかのように怒りが、悲しみが、羞恥が、様々な感情が華を襲った。叫ばずには、いられなかった。
「どうしてマヤさんをっ! あの子を独りにしたんですか!」
あれほどけなげな子を、どうして。あれほど優しい子を、どうして。
あれほどまでに愛情を求めている子を、どうして。
義憤だ、マヤが山吹に対して怒ることは正当な理由があるのに、華にはそれがない。これは八つ当たりだ、裏切られた様な身勝手な感情を山吹にぶつけている。そう自覚しても止められない。
マヤが可愛いから、愛おしいと思っているから、何より山吹がそんな人物であったことを否定したくて叫んでいた。
何のためにこんなことを、何のために華をこの国に連れてきたのか。
最初から不可解だったのだ。ほとんど会ったことのない姪を、国外に逃がすことは山吹にとっては金銭的には何の問題もない。しかし、人に対して興味関心の薄い山吹が同じ立場とは言え憎む縁結びを長期にわたって支える理由。
決して仲が良くなかった柳蔵との記憶、華を任せると決めた理由。
全てが出来過ぎていた。縁結びは、どこにも行けないはずなのに。
「椎奈が言っていたわ。馬鹿なことだって。ええ、そうね。わたくしもそう思うわ。」
それは一体何に対してのことだったのだろう。様々な意味を含んでいるようだった。後になって考えれば、山吹は経験こそ積んでいるがまだ年が若い。彼女自身も自分の選択に絶対的な自信があったわけではないのだろうと、華はずいぶん時間がたってから思い至るようになった。
「でも、間違ってはいないわ。」
間違っているはずがない。その傲慢に見える発言は、まるで縋るように、そうしていないと狂ってしまうと言う様な、愚直さを含んでいた。それほどに不器用で、孤独な言葉。
「華、わたくしの昔話を聞いてくれるかしら?」
それは誰も頼る人がいない、山吹の半生の話だった。
それほど遠くはない話。ずっと遠くの異国で起こった、些細なこと。
在るところに少女がいた。とても美しい少女だった。彼女には不思議な力があって、皆がその力を求めた。その力の齎す結果に焦がれた。
けれど誰も、少女を愛する者はいなかった。
少女はそれを知っていたから、誰の言葉も信じなかった。誰のことも信じなかった。
それでも一人だけ、たった一人だけ信じたい人がいた。その人だけは、信じきれなくても信じ続けたかった。信じたくて、信じ続けたくて、彼女はその人を傷付けた。
傷付けて、その結果彼女は娘を授かった。しかし、その娘は彼女と同じように不思議な力を持っていた。
だからこそ、彼女は祖国を飛び出した。頼れる人は誰もいなかった。許しを請うべき人もいなかった。ただ疎み続けた性質が我が子に宿ったことしか、彼女は考えられなかった。
そして辿り着いた異国の地で娘を捨て、逃げるようにその地を去った。
以来、彼女は娘と出会うことはなかった。
彼女が知っている娘は生まれたての、真っ赤な顔の、けして可愛いとは言えない赤子の姿。そのふっくらとした頬とつつけば握り返してくる小さな掌の温かさと湿り気。行かないでと縋るような、掌の強さだけ。
それが、彼女の娘の記憶の、全てだった。
静かな言葉、淡々とした語り口。二度と娘に会わないと言う決意。その堅さに、華は震えた。
ここまで狂おしく求めた人を捨て、腕に抱いた子を捨て、この女性は今も戦っているのだ。自身の、『玉の山吹』という性質と。
それを意識し、それを纏い、それに抗い、それから遠ざけることが何より夫や娘の幸せだと信じて疑わない。否、疑うことが許されない。
何故なら、『玉の山吹』なくして、目の前の人は生きていけないのだ。華と同じだ。あまりに似すぎているから分かる。華も『ソライロアサガオ』なくして成り立たない。普通など、今さら望めない。
華も山吹も、縁結びだけで出来ているわけではないけれど、それなしにできているわけではない。
切っても切れないのだ、だから諦める。だから抗う。ただ、最初からその性質のことを知らなければ、違った生き方ができるかもしれないと言う可能性があるだけだ。
「叔母さま・・・。」
山吹を、華は幼い頃から強い人だと思っていた。家に縛られず、親に縛られず、常識に捕らわれず、何より自由な人だと。そして何でも器用にこなし、頭の回転が速く、恐れない人だと。
しかし、垣間見た山吹は寂しそうだった。苦しそうだった。必死に、愚直に、こうと決めてことをたとえ間違っていると叫ぶ自分がいても、ただただ護ろうとする盲目的な人だった。
そこには憧れた強さはなく、純粋さと非情さがあった。そして決意に燃えるその瞳の炎の影に、蹲って泣き叫びそうな弱々しい何かがあった。
それらを隠すように山吹は穏やかに笑った。笑うことで何もかもを覆い隠すように。
「わたくしはね、つまらない人間なのよ。」
「山吹叔母さま?」
雰囲気の変わった山吹に、華は瞬く。月明かりがだいぶ傾き、薄雲がかかったのか青白く浮かび上がった部屋の中が暗くなる。窓を背にした山吹からは華の動揺や戸惑いがよく見えるのに、華からは山吹がよく見えない。ただ、声が、するだけだ。
「ねえ、華。自分の周りにこんな人間ばかり集まるのは、もしかしたらこの群がる亡者の姿が・・・自分の本当の姿なのだと思ったことはなくて?」
どきりっと、華の心臓が悲鳴を上げた。
「答えなくてもよろしくてよ。貴女は聡い子だもの。」
山吹の言葉は、答えも応えも必要としていなかった。
「わたくしは・・・貴女がお友達にそう指摘されたと泣いた時、来るところまで貴女は来たのだと思ったわ。」
わたくしにはそんな人はいなかった。山吹は掠れてよく聞こえない程の声で自嘲した。
「でもね、華。わたくし、貴女がそれに気付いて泣いた時、とても嬉しかったわ。」
山吹は眩しそうに華を見上げていた。細められた瞳は羨ましそうなのに、どこか遠いところを見ているようにも見えた。
「だって、群がる亡者の中、貴女にそれを指摘した気高く、誇り高い方が貴方のすぐ傍にいたのよ。」
脳裏を一瞬で駆け抜けたのは、華が愛してやまない友人と愛したいと願った青年の泣き顔、寂しそうな笑顔。あの二人を笑顔にすることが、できなかったということを、今さらになって華は思い至った。思い至って、喉の奥が詰まったように痛んだ。
「人の本性の欲の中、その方は貴女の傍にいて、貴女が傍に寄ることを許してくださったのでしょう?」
その発言に、はっとした顔をすれば、薄暗闇の中山吹が目を閉じて囁くように吐息を吐いた。
「貴女を気遣う優しさが、一途に思ってくれる誠実さが、ひたむきに貴女を想ったのでしょう?」
傍にいろと、いたいと言われた。好きなのだから、だから自分自身を苦しめるなと言われた。華の幸せを願ってくれた、人達。
「それらは、貴女が惹き付けた、貴女の中にあるものなのだろうと、わたくしは思うの。」
幼い日、初めて見上げた山吹がふと華の脳裏に浮かび上がる。荒んだ表情、痩せこけた頬。あまり顔色がよくなかった。
今思えばあの時丁度、山吹はマヤをこの国に捨てた時期だったのだろう。そんな山吹にはきっと、幼い華は目の毒だったろう。それでも山吹は華を撫で、祖父との会話の時に抱き締めてくれた。
可哀想だと、可愛いと、護ろうとでも言うように抱きしめてくれた。
忘れてもいい、知らなくてもいいと、我が子を突き放したその手で姪を守ろうとした。護るために、今ここにいてくれる。
我が子の顔も見ないまま、見える位置で遠くを見つめながら、近くに置いた華を庇護してくれる。
「華、わたくしは確かに自分の性質でお金に困ったことはないけれど、どうしようもない孤独や裏切りにあってきた。身に覚えのない悪意や嫉妬に苦しんできた。」
大切な、宝物だと言う麻耶を、一生手放した。信じたいと思う人に、もう二度と会いたくないと思うくらい嫌いになるように仕向けて、一生会えないようにした。
それでもまっすぐ、山吹はいる。
「でもね・・・」
微笑む姿は、今まで見たことがないくらい優しかった。ほの暗かった部屋が徐々に明るくなる。雲が切れる。
「貴女に道を示すという、誰にもできないことをなすことができるのよ。」
爛々と輝く瞳は、『玉の山吹』でも、自由奔放な叔母でもなく、ただ独りで歩いてきた女性の強さを映していた。
「裏切りの苦しみや恨みを知って、孤独を知って、普通では知ることのできないことを知った。」
優しい、けれど強く、誰よりも強く。山吹自身が、そう願う『山吹』としての自分。
「そしてそれゆえに、見えてくるものがあった。気付きにくいものに、出会った。」
目の奥に走馬灯のような煌めきを宿して、山吹は首を傾げた。
「得難い人に、巡り合えた。」
寂しそうに唇を歪める。
「わたくしの宝物に、運命に出会えた。」
目に浮かぶのは華を見つけて走り寄る小さな姿。あまり似ていない茶がかった黒髪、垂れ気味の大きな瞳。憂いを纏う優しい雰囲気。けれど目の輝きやひたむきさが、どこか似ている。
「こんな碌でもないと思う様な性質のせいでひどい目にあったけれど、何にも脅かされない、誰よりも幸せだと胸を張れる自分になった。」
決して世間一般が言う様な幸せではなくとも、手に入れたというには切ないそれを、それでも幸福という。そんな自分を誇っていると強がりでも言う山吹の瞳には。
「華もきっと、そうなのでしょう?」
何かを決意する様な輝きで満ちていた。
その光と言葉に、華は息を詰まらせた。
人を好きになるのに、どうして誰かを傷つけていくのかと、華は我が身を呪った。
そんなことも厭わずに誰かを手に入れようとするその姿は、華にはたいそうおぞましく映った。
誰も華の名前を知らず、声を知らず、意志を知らない。
母は恨むな、妬むなと華を抱きしめた。
ただその言葉だけを繰り返す母に、どうして華の気持ちを分かってくれないのかと心の底で失望した。父は普通ならばはしたないとさえ言える華の恋愛遍歴を当然のように黙認するばかり。兄弟たちも、何とも言えない瞳で華を見つめ、成長するごとに華に話しかけてこなくなった。
幼い頃から性質を持つ祖父と叔母だけが、華の味方だった。その叔母も、遠くに行ってからは耐え忍ぶ日々を過ごした。
素晴らしいと称賛される恋愛が、愛情が、誰もが求める運命を。
汚い。
華は思った。
そしてその汚さを引き出す恋と、それを司る自身がひどく穢れているように思えて、華はやっと諦めた。
諦め、単調に日々を過ごしていれば息苦しいばかりの時はやがて終わるのだ。
諦めて楽になった華の前に、光流が現れた。彼女の物事への一途さや誠実さに惹かれ、自分もこうだったらいいのにとひたすらに憧れ続けた。憧れ、傍にいてもきちんと華に応えてくれる光流の傍が心地よくて離れ難くて、しかしこんなふうに傍にいては自身の体質でいつか光流を巻き込みはしないか、本当に彼女と共にいていいのか迷った。
そんな日々の中、光流が華の名を呼び、華を外へ外へ連れ出してくれるようになり、傍にいることを許されているような気がした。ぶっきらぼうな遠慮のない温かさの傍にいることで、人の優しさを思い出した。
そして、正悟に出会った。雨の日、名も知らない他人である華に手を差し出してくれた少年。正悟は忘れてしまったかもしれない。気付かぬふりだってできただろうに慰め、強引にでも落ち着くまで一緒にいてくれた。
光流と身内以外、もしかしたら身内にすら名前を呼ばれないにもかかわらず、異性に、華が出会いたいと唯一思った少年に「華」と名前を呼ばれて、出逢いたかったと言われ、好きだと言われ、涙が出そうになった。
貴方は私を、華と呼んでくださるのですね。私を、私として向き合ってくださるのですね。
華を『ソライロアサガオ』としてではなく、きちんと向き合ってくれた。華を『華』と言う人間として知ろうとして、優しい眼差しで見つめてくれた。ただ、甘やかさと慈しみを向けてくる正悟に、誰かを求めることの切なさと愛しさを教えられた。
それでもあの日常に、華は邪魔なのではないかと思ってしまう。
光流とも、正悟とも離れたくない。どちらも、大切だからこそ、華はどちらも手放した。
きっと優しい彼らは、華を想って傷付くだろう。誰かから大事にされた記憶の薄い華では、大切な者に返せるものも、誰かを守る術も、戦う術も持ってはいない。ならば、そんな弱い華のせいで傷付かないように、遠くに行こう。
華の親愛は、恋情は、彼らが大切だからこそ、手放すことだった。
馬鹿だろうか、きっと他の人からしたら、愚かな選択だっただろう。
求め続けることが本当は強さなのだとしたら、きっとそれができないのは華が弱いからだ。誰かを傷つけることも、傷付くことも怖かった。大切なものを、どう大切にしたらいいのか分からない、幼い少女の独り善がりで自己満足でしかない、そんな愚行だ。
これ以上傷付きようがないほど傷付いて、それでも二人の手を切るという選択をしたのは、それでも彼らが大好きだったからで・・・。
こんなに汚い自分が、どうして人を好きになったのだろう。
人を好きになった時の誰かを傷つけるのも厭わない恐ろしさも醜さも、孤独も妬みも痛みも知ってなお、華は好きになった。
親愛を光流に、恋を正悟に。
それは、華が一番知っていた。一番近くで、そしてそれらから一番遠い場所で、いつも願っていた。それでも与えた物の意味も本当は知らなくとも、『ソライロアサガオ』としてたくさん嫌なことがあって悲しくても、誰よりも華は傍にいたのだ。
運命の相手と出会うことで、誰かが誰かを救うことを。誰かが本当に幸せになることを。
奇しくも裏切られた日に、遠くから眺めるしかできなかった幸せに焦がれ、自分の周りの人があんな風に笑ってくれたら素敵なのにと、華は思った。
「華。」
誰かが華に話しかける。ぼやけた視界では、相手が笑っているのか泣いているのかもわからない。ただ、すぐ近くまで近寄っていた華とそう変わらない大きさの影が、細い腕が華を抱きすくめた。
「愛しているわ。わたくしの可愛い姪っ子。わたくしの綺麗な、優しい、家族。」
その影は温かくて、そこか切ない様な香りがした。マヤを抱きしめた時の様な感覚。
「貴女なら、幸せになれるわ。」
もう、十分だと思った。もう十分、自分は恵まれていると。
こんなにも自分を想ってくれる人がいてくれるだけで、全てが、今までの何もかもが、華の糧になる。
だからこそ、その想いを伝えないといけないと華は抱きしめてくれる温もりの腕に縋りながら声をあげて泣いた。それは幼い頃一度だけ許された、目の前の人が許してくれたこと。きっと最後になるだろうと思う、意思を決めるための儀式のようだった。
「私も・・・私もですっ! 山吹叔母さまが大好きです、大好き・・・」
どうか届けと、泣き叫ぶ。届かないほど遠い境地まで達して、そして振り返ることのない、血を分けた家族へ。
「大好きです・・・叔母さまっ、だからどうか、どうかっ!」
宝物、山吹はマヤのことをそう言った。華が象徴する、運命の相手。山吹が出会えたなら、一生会うことはないけれど確かに山吹を支える運命となれたなら・・・
残酷で優しくて切ない。それでも想い続け、護り続けることが糧になると言うのなら。
──こころ洗えば根は白い
私も祈り続けよう、私の運命の人、どうか笑っていて、と。
それ以来、華は二度と山吹に出会うことはなかった。その人生をどのように終えたのかさえ知ることなく、華が息を引き取る瞬間まで、その行方は分からずじまいだった。
某年、某所。
しんっと静まり返った会場内に、機械で拡張されて届く流暢な言葉。その声は低くはあるが間違いようもなく、女の声だった。
『・・・この遺伝子は他の検査の結果からも特有の色素を生み出すものだということが分かっています。このことから・・・』
内容自体は非常に画期的なものだ。発表をする年若い女性は近年稀にみる女傑で、その若さゆえに妬みを覚える者も多かったが、そんなものでどうにかできるほど彼女は馬鹿ではなかった。そして孤独や四面楚歌に対して強かった。
優秀で融通のきかないパトロンをバックにした彼女は驚くほど手強く、そして彼女の研究成果は他の追随を許さない程には恐ろしい功績を積み上げていく。
最早、彼女の地位は不動のものとさえ言えた。
『これで私の発表は以上です、何か質問がおありですか?』
鋭い眼差しが会場を睥睨するとあちこちからやっかみと威圧的で、しかし好奇心を押し隠しきれない質問が飛ぶ。それを当然のようにいなし、やがて彼女は壇上を後にした。
その若さに似合わない落ち着きぶりは崩れることなく、廊下を駆け寄ってきた彼女を慕う数少ない研究員の一人が興奮気味に話しかけてくる。
「さすがです、ミス。」
興奮気味な若手の言葉にしかし女性は顔色を変えることなく素っ気なく短く返す。
「別に。」
颯爽と廊下を歩く姿は外国人に囲まれているからとても小さく、頼りなく見える。しかし、取り巻きが小走りにならなければ付いていけない様な速さで歩む姿は見た目を裏切ってあまりに高潔だ。
そして素っ気ない彼女の言葉に気分を害した様子もなく、取り巻きの一人がさらに言葉を続けた。
「謙遜が過ぎます、これは研究会にとっていまだかつてない大発見ですよ。これでミスの偉業がより認められるわけですね。」
「そうね、それで君は何をしに来たの?」
心底解せないと言った様子の女性に、取り巻きたちは一様に驚き、嘆く様な動作をして見せた。それに対して女性はより一層機嫌を損ねる。馬鹿にした様なリアクションの大きさは外国人特有のものか、それとも単に今の若者はそういった風潮があるのか。あまり他人に興味のない女性には分からないことだった。
必要もないことだと、彼女は切り捨てさえした。
「え、ミス、忘れているんですか? これから会食ですよ。」
「行かないわ、そんなもの。」
「ミス!」
非難の声はおそらく会食の重要性を理解しているからだろう。女性もそれは知っている。知っているけれど、優先しなくてはいけないことがあるのだ。
「所長に呼び出されているの、至急の用事。それは先方にも伝えてあるから、会食は却下。」
それだけを言い残した女性は、控室に向かわずにそのまま会場の玄関で待たせていたタクシーに乗り込む。
かつてこの国に来た時はどうしても馴染めなかった近代技術も、数年もいれば便利以外の何物でもないし、驚くほどのことでもない。
「じゃあね。」
お情け程度に手を振って、女性は運転手に有名な三ツ星レストランでも高級ホテルの名前でもなく、ほとんど名前も知られていない様な店の名前を告げた。
しかし、女性の注文を受けた運転手はどこか感心したように、そして年齢は若くともとある業界でしか知らない名店に招かれている実力に微笑み、恭しく車を発進させた。
流れる夜景、それは数年たっても美しいのに、この国に降り立った時の焦燥感と万感の思いに酔う彼女にはただの光の塊だった。
何より彼女にはこれよりも美しい情景を思い出すことができる。
「ここまで来た。やっとだよ。」
幼い日、ただただ一緒に浅瀬に降りて幾百もの蛍の明滅を切なそうに、細めた瞳で見つめる友人を。
「絶対、見つけるよ。華。」
呟きは彼女の母国の言葉。この国でその言葉を話す数少ない人間の一人に会うために、女性はただひたすらタクシーが目的地に到着するのを待った。
次の日、遺伝子学の権威であり女性学者のヒカルが、世界各国の紙面を飾った。




