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片袖濡れようはずがない

都都逸自己解釈編です。


Pixiv様にも同時投稿

 劇的な、もしくは運命の出会いなんて絵空事だと正悟は思っていた。

 同じ年代の学徒と比べてみても抜きん出て本を読んでいた正悟ではあったが、自他共に認める現実主義者である彼にとって本の中の出来事は本の中、つまり想像上のことでしかなかった。

 人が想像できることは常識の範囲内、現実で起こることもあると知っていたにもかかわらず、だ。

 その日、正悟はその人に出会った。

 発売されたばかりの本を買った帰り道、心なし足取りも軽い正悟だったが、店を出たとたんに雨脚が強くなった。本が濡れはしないかとそれだけを考えながら蛇の目傘を傾ける正悟の視界に、鮮やかな朱塗りの傘が飛び込んできたのは偶然ではないのだろう。

 雨でけぶるような視界の中、濡れてその瑞々しさを増した柳の葉が、頭を垂れるように覆い隠す朱塗りの傘は、緑と朱の対比で目を見張るほど鮮やかに写った。

 その下で、小さな少女がどこか焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。柔らかに容貌を包む黒髪は湿気のせいか色を増し、艶やかさを帯びている。桃色の唇は何かに耐えるように引き結ばれ、その頬は心なし蒼褪めているのを、正悟は残念に思った。

 そして隠れるように柳の下で川を見つめる少女が何をしようとしているのかが異様に気になった。悲しげな眼差しに、今にも身投げでもしてしまいそうな不穏さを感じたからかもしれない。

 気付けば正悟は声をかけていた。

「・・・もし。」

「・・・!」

 少女が息を詰めたのが傍らに立った正悟には手に取るようにわかった。見上げてくる瞳は分厚い涙の膜が張り、黒曜石の瞳はより輝いていた。正悟はそれを見て、自身の心がざわつくのを感じた。

「どうかしたのか。困っているのなら手伝うが?」

「・・・いえ。何も、何も困っておりませんよ。」

 視線を反らし、明らかに泣き腫らした目元や涙の跡が残る頬では全く説得力がない。正悟は普段の言葉よりも幾分丁寧な言葉を使いながら、あまり動かない表情に不愉快を表した。眉間の皺が深くなる。

 見れば、少女が使う朱塗りの傘は大人用で、小柄な少女が使う物としては大きい。それなのに、少女の落ち着いた色合いの着物の袖は、色が濃くなっている。その裾を握り込む繊手は爪が白くなるほど力が込められている。

「だが、貴女はこんなに濡れている。」

「・・・。」

「このままでは風邪をひく。」

 わざと気付かないようなふりをして言う。とりあえず自殺しそうなほど気落ちしている少女を落ち着かせなければと正悟が考えを巡らせていた時だ。

 少女は何を思ったのかハッとした表情を浮かべると正悟から距離をとった。縁同士がぶつかりそうになるほど近くにあった蛇の目傘と朱塗りの傘が、水滴を滑らせながら名残惜しげに離れた。

「おい?」

「ひとりに・・・して・・・ください」

 その絞り出すような声を、叫び声のようだと思った。それゆえに、正悟も少女の言い分を聞けなかった。

「駄目だ、聞けない。」

「後生ですから・・・お願いです。行って・・・ください。」

「駄目だ。」

「どうして?」

 少女は先ほどまで白いだけだった容貌を蒼褪めさせ、季節外れの寒々しい空気に白く息を落としながら正悟をまっすぐに見つめた。

「どうして貴方は・・・見も知らない私を放っておいていくださらないの?」

 ただ何もかも分からないと語る瞳は、しかし今まで見たどんな目よりもまっすぐに正悟に向けられていた。その瞳は何の思惑も含まないけれど、無知でも無垢でもない。知性を兼ね備え、少女の年にしては不釣り合いなほど世の様々な事情を知っていることが容易に窺える凪いだ眼差し。しかし、子どものように正悟を見つめ返す様は少女の中に確固とした意思があるように思った。

「俺は成すべきことを知っている。それを成すだけだ。」

 少女を落ち着かせること。無事に家族の元に帰すこと。人として成すべきことを成さないのは怠惰であり罪であると正悟は自分を律していた。その正悟がとる行動は正しいけれど、この場で正悟を突き動かすのはそんな厳格なものでも誇れるものでもなかった。

 ただ、そうでもしなければ正悟の前から少女が消えてしまうことが分かっていたから。だからこそ、少女を逃がしたくなかった。正悟から離れることを許したくなかった。あるのはいきなり降って湧いたような激しい焦燥感と、少女がここに留まることを懇願する気持ちだけだ。

「貴方が私に成すべきことなどないのです。ご迷惑をおかけしました。でも、本当に・・・」

 少女がさらに離れていくのを、濡れた袖ごと腕を掴んで止める。自分でも分かるほど、手に込められる力は強かったが、少女は痛みを感じていないのか、はっとしたように俯いていた表情を上げた。驚きに見開かれた瞳はそれでも真っ直ぐに正悟を射抜く。

 諦めと悲しみと激しい絶望の色が濃い、しかし折れることのない視線が、未だに焦燥感ばかりが占める感情をより鷲掴みにする。

「傘を・・・」

 正悟は少女の袖を掴んだまま、口を開いた。傘の縁や骨同士が当たって、傘に乗っていた雨粒が音を立てて地面に降り注ぐ。

「傘を二つも持ちながら、片袖が濡れている。誰かを自分の傘に入れて濡れたとは考えにくい。おまけに、濡れているのは袖口だけだ。余計に雨で濡れたとは考えにくい。」

 みるみるうちに少女の蒼白な顔色が変わっていく。青白い色から頬にかっと朱が差す。正悟は内心で何も気付かれていないと思っていた少女を嘲笑った。あまりにも短慮なことを、そして目の前の少年が少女を逃がす気がないのを知らないことを。

「袖が濡れるのは昔から相場が決まっている。」

 正悟が少女の腕を力一杯引くと、少女は足場の悪さからほとんど抵抗なく蛇の目傘の中、正悟の腕の中に納まった。朱塗りの傘が地面に落ち、ひっくり返る。傘の内側に少しずつ水滴が落とされるのを横目に捉えながら、正悟は腕の中に納めた小柄な少女を見下ろした。

 咄嗟のことに全く反応を示さない少女は、頬を正悟の学ランに押し付けるようにして、ただでさえ大きな双眸を零れ落ちそうなほど見開いている。

 長時間外気に晒されていたからか、少女は思っていたよりずっと冷たくて、雨の匂いを強く纏っていた。

「何を泣いている?」

 少女は正悟の胸元を控えめに押す。首を横に振り、話す気はないと必死に意思表示をしてくる。少女の動きによって、肩に立て掛けるようにしてさしていた蛇の目傘の雨粒が振り落とされる。

 その様はいじらしいと思うが、所詮少女の身では男の正悟に敵うはずもない。肩に回した腕により力を込めると、少女は苦しそうに正悟を見上げた。輪にした腕の中から顔を覗かせている様は、木葉に埋もれた小動物がひょっこりと顔を出しているようで、正悟は緩みそうになる頬を懸命に制御する。

 皮肉そうな笑みを何とか浮かべながら、正悟は少女に問いを重ねた。

「何が貴女を苦しめている?」

 その瞬間、少女が小さく悲鳴を上げ、肩を大きく震わせた。

 そしてがむしゃらに抵抗し始めた。その細腕でそこそこ鍛えているはずの正悟の胸を叩くと、内臓に響く鈍痛が走った。蛇の目傘が激しく揺れるのを、正悟は少し動きづらい体で何とか支える。

「離してください!」

「離したら自殺しかねない顔をして何を言っている。」

「そんなことっ、しません!」

 離せ、離さないの攻防をしばらく繰り返していると、少女は理由を言わなければ決して正悟が離してはくれないことをようやく悟ったようだった。

 抵抗をやめ、しかし正悟に縋ることはなく、俯いてしまう。

 このままでは埒が明かないと正悟が次の手を考えていると、少女は雨音に紛れてよく聞こえない声で、しかし何故か強く聞こえる声を零した。

「こんなことをしても・・・貴方だってきっと・・・」

 何のことか分からないと正悟が首を傾げた時、意を決したように少女が顔を上げた。

 正悟が見惚れた、少女の体躯に不釣り合いなほどの静けさを秘める、真っ直ぐな瞳が攻撃的に正悟を射抜いた。

「離して・・・貴方もっ!」

 その時、学ランの裾が少し突っ張った。

「貴方もいずれ私の元から・・・っ!」

 去るのだから。

 少女の言葉は予想ではなく、託宣のようだった。確実な未来を突き付けている少女は、そんな弱い言葉で正悟を退けようとする。嫌だからではなく、離れていく誰かを想って。

 言葉で、視線で、行動でこれほどまでに正悟を拒絶する。それなのに、学ランの裾を手が白くなるほど握りしめ、離すまいとする無意識が正悟を絡め捕る。

 来ないでと言いながら、拒絶しながら、離さないでと、どこにも行かないでと裏側から欲望が漏れ出している。まるでちぐはぐなその少女の様子に、正悟は思った。

──嗚呼、この少女の欲望を自分が貰いたい、と。

 少女の欲望を踏み躙る全てなんて、正悟にはどうでもよかった。少女の想いに気付かない輩に興味もなかった。先にそれに気付いて手に入れようとしているならば腸が煮え繰り返っただろうが、少女の様子からしてそんな人間はいないのだ。託宣のような、少女の言葉から予想するのであれば。

 だから、正悟は賭けることにした。少女の託宣とその想いの深さに。

「そうだ、俺は貴女の元から去るだろう。」

 少女の顔は安堵した。それは諦めと安寧を含んだ、力ない笑顔だった。それを見ながら、正悟は言葉を繋いだ。

「だが・・・俺を覚えていてほしい。今はそれだけでいい。」

 困惑したような少女の髪に鼻先をうずめ、息をゆっくりと吐き、吸う。微かに香る花と雨の匂いに、自然と抱擁は優しく、深くなった。

 今、少女がどうしても受け入れられないというのならば、正悟を信じられないというのならば、証明するために。このまま、ただ通り過ぎて終わるだけの関係に、決してならないのだということを少女が信じられるように。

 弱々しい雨と柳の葉のこすれる音、二人の息遣いだけが聞こえる世界で、正悟の学ランの端がつんっと少し強く引かれた。


──片袖濡れようはずがない


 今でなくともいい。この先少女との運命が交わると思えるのならば、正悟のことを思い出して少女が袖を濡らすように、正悟の存在を刻みつけておきたかった。

 それがどんなに微かな、日常に溶け込んでしまいそうなことだったとしても、日常にあるからこそいつでも思い耽ることができるものであるようにと。


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