泣かざなるまい野に住む蛙
国栖溝椎奈という変わった名字の硝子細工職人がいる。いたと言った方がいいのか、いると言った方がいいのかは不明だ。
彼女は元々修業を積んだ伝統的な職人ではなく、どこかに属しているわけでもなく、そもそも硝子職人として生計を立てているわけでもない。何をしているのか知っている人間はいない。噂では水族館という巨大な水槽で海や河川、湖などの水中の魚や生物、水中植物などを観賞用として展示・飼育しているという正悟たちには想像もできないような施設で働いているという笑い話のような、本当のような話だけが伝わっている。
彼女は元々硝子というものに常人とは異なる感性があり、それを面白がった知人がアトリエを提供したところ、彼女の硝子細工は好事家の間で非常に高値で取引されているのだそうだ。特に硝子細工の好事家ではなく、金魚の好事家に。
しかし、前述した情報だけでもかなり他の人間とは異なるところが多々あるように、国栖溝はその作品の素晴らしさと共に、ずば抜けた変わり者として知れていた。
目の前に大枚をこれでもかと積まれても、正悟でも名前を知っているような有名人に頭を下げられても、国栖溝は決して依頼品作りにも工房への誘いも、作品の買い取りにも、個展の勧めにも首を縦に振らなかった。正確には彼女は指定された交渉の場に顔を出したことがない。彼女の硝子細工はあくまで趣味で、彼女は自分を満たすためにしか作品を作らない。
そんな鬼才であり変人である硝子細工職人がなぜ、遠く離れた地で美術展を開いているかというと理由は単純だった。これは国栖溝が主催したものではないからだ。
彼女は作った作品に興味がない。彼女の作品は作るという目的と過程のためだけに作られるが、出来あがった作品自体は門外不出ではなかった。よって、善意というか自尊心の高いというか、とにもかくにもコレクションを自慢したい好事家が好き勝手に美術展を開いても彼女は何も文句は言わないのだ。
ただ、彼女が手放すのは彼女が作ることに満足するために作った、いわば練習用だ。彼女が心血を注いだ片手に余る数の作品は、本来ならば作品に執着しない国栖溝が手放さないらしい。その美しさは声を失うほどに、息さえ奪うほどに美しいのだと好事家や彼女の支持者の間では専らの噂だった。
「結構人がいるようだ。」
正悟の独り言を微かに拾った華が正悟を仰ぎ見るが、正悟は自身の独り言を苦笑と共にやり過ごすと再度会場となる建物を見上げた。
土曜日とはいえ好事家が開いた美術展には国栖溝以上に一般人受けする作品も多い。来場者はそれなりにいるが、まず正悟たちよりもずっと年上であったり、どこか浮世離れした雰囲気であったりと個性豊かだ。美術に関わる人が個性的なのは知っていたが、それを愛でる人々が個性的というのはあまり聞かない話だ。
会場は普段は古物商を開いている老夫婦の店で、日本家屋と西洋家屋を混ぜ合わせたような不思議な佇まいをしている。正悟自身はあまり馴染みがなかったが、華は古物商の玄関の軒下に淡く掲げられたガス灯を目を細めて見つめている。
「前に来たことがあるのか?」
「え?」
完全に無意識だったのか、華は正悟を仰ぎ見た。その目のあまりの無防備さに一瞬正悟は息が詰まったような気がした。今まですれ違ったようにしか感じなかった言葉が、届いたような気がした。
華と小さな衝突を起こした次の日、正悟は華が待ち合わせ場所にいることを疑わなかった。所詮彼女にとって自分はその程度の存在なのかと思い知らされ、しかし『ソライロアサガオ』として付き合っているのならば華はいつもの場所にいると確信できた。
『ソライロアサガオ』だからこそ、彼女は人間らしい感情の機微を鈍磨させている節があることは、この二カ月少し一緒にいることで把握していた。
華は自身を『ソライロアサガオ』という現象として、あるいはそういう役割をこなすべき機能として捉えている節がある。だからこそ正悟の声は届かない。華の中の人間としての、女性としての、何より華としての感情や想いを受け止める器があるとするならば、華の器はぴったりと蓋がしてあって注がれる様々な感情や想いを完全に拒絶している。もしくは器の中に注がれたそれらを解釈し、呑み込み、言葉や態度、表情によって外へと発信するアンテナとの連結が完全に断絶しているようなものだ。
だから華は傷付けられても笑顔で、諦められる。そして同じように傷付ける相手を受け入れ、協力する。協力して、傍から見れば捨てられたも同然の、裏切られたも同然の事実を繰り返す。華にとってはルーチンワーク、単純作業と変わらない。
意図的か、あるいは長年染み付いた自身を守る対応策なのか、華は分からないようにしている。無知であろうとしているし、無垢であろうとしている。それはきっと、『ソライロアサガオ』として一人でいる分にはむしろよかったのだろう。下手をすれば、もしかしたらすでにそうなのかもしれないが、華の感情の器やアンテナが壊れることになる。それは心という機能が異常をきたしている、人間として致命傷になりえることだ。人形と、変わらない。
しかし、華は光流と出会って彼女に身も心も近付いて行った。光流自身が『ソライロアサガオ』を目的としていたのならば話は変わっていただろうが、光流は華を受け入れた。その時点で、一人きりで機能することにのみ長けていた華の対応策は破綻していたのだ。
外界から光流を招き入れ、心を砕いた。
光流は閉じた世界にいるように見えて非常に外界との接触が多い。彼女は好奇心旺盛だからこそ、外界からの刺激を存分に受け、アンテナから時には攻撃的すぎるところもあるが発信を怠らなかった。外界からの刺激と反応、直接性にかけて光流以上の効果は残念ながら正悟には認められない。光流は近しい位置だからこそ、華を人間世界の刺激に巻き込みやすかったのだ。物理的にも、心理的にも。
何より光流は正悟と同じくらい、否それ以上に賢くて聡い。そして孤独だった。公一郎の話を聞く限りでは、学校でも家庭的にも問題を抱えている。華と現状が似通うところが多い。正悟が考えていることにも当然行き当たっているのだろう。必要以上に『ソライロアサガオ』に近付く人間を警戒しつつも華の役割を邪魔しないのは加減が不明だからだ。
人間らしからぬ華を無理矢理引きずり出しても華の心が壊れないか、頑なな守りに徹している現状からいきなり『ソライロアサガオ』という原因でもあるが処世術でもある仮面を取り除いて華は生きていけるか、なにより華が現状から抜け出したいと思うのか。
迷っていたところに正悟との揉め事、華との喧嘩があったのだろう。正悟は自分とのことしか知らなかったが、学校中、同級生から耳にたこができるほど言い聞かされた華と光流の喧嘩模様。脚色がされているだろうが、光流のことだ。感極まって「大嫌い」くらいは言いそうだと正悟は妙に納得した。
自身が心を寄せる人間からの言葉。華には相当堪えたのだろう。
硬すぎる護り、噛み合わない感情と思考が心の負荷を減らそうと一時的に働いたのではないかと正悟は考えた。端的に言えば、光流の言葉に、態度にショックを受け、その光流を想うあまり必死に考え始めた華がゆっくりながらも自身の受けた衝撃を感情として呑み、思考することで理解し始めたのだ。いわゆるショック療法に近い。
その証拠に、三年前に片鱗を見せた感情的で繋がった目の色、反応を暴漢に追いかけまわされた日から目にするようになった。
涙を流し、正悟の抱擁に応えるようにその背に腕を回した。掠めたほどの、しかし明確に握り込まれた制服の布のつっぱりが正悟を赤面させる。
あの雨の日、無意識に求められたのとは違う。あの時何も知らなかった正悟の腕の中、拒絶を示しながらも一人の少女として存在していた雨の強い匂いと微かな花の香りを纏う人が、帰って来たのだと、何故か直感でそう思った。
そして、その感覚が間違っていなかったことを最近感じる。
正悟の手を握り返すことのなかった小さくて薄い、柔らかな掌が正悟の掌の輪郭に沿えるように微かに指先を握り込む。質問に対して、今まで模範的な『ソライロアサガオ』としての答えだったのが、閊えながらも一生懸命言葉を選んでいることが窺える。周りの視線を気にしている素振りも見せる。
今まで貼り付けた様な笑顔だったのが、困惑や不満、不安、楽しさに合わせて表情を滲む程度に変化させる。
今も、正悟の言葉にどう答えるか、考えて難しそうな顔をしている。
どう話したらいいのか、迷っている。そこには未だに『ソライロアサガオ』としての習慣や目覚めたばかりの、もしくは生まれたばかりの心と体の連携した機微への動揺、不慣れさがあるが無機質でどこか倦怠感さえ覚える暗い瞳が時々揺らぐ。明るくなることさえある。
今はどちらかというと、少し沈み気味だが。
「その、私がまだ本当に小さい時に、何度か・・・」
「古物商が好きだったのか? それとも、何かの催し物で?」
そこで華が、乾いた痛みを、遠い同情を感じるような表情をした。
「おじい様と叔母さまに付いてきただけです。」
初めて華の家族について触れたことに、正悟は躊躇した。表情から察するに、華にとってはあまり愉快な話ではないように思われたが、正悟の戸惑いを察したのかどうなのか判別しづらい声音で、華は淡々と話を続ける。古物商を見つめる目は、何処か遠い。
「おじい様も叔母さまも私と同じような体質でしたから、その関係で町や市の会合に出席していました。会合と言っても、本当の目的はおじい様方との関係を結ぶことに重きを置かれていたようです。実際、固定される人員は少なく、町の住人以外の大人の豊富が多かったように思います。この街に居を構えるならば阻むことは難しくありました。その頃には既におじい様は高齢を理由にほぼ欠席で、叔母さまも出席に関していい顔はなさいませんでした。ただ、こちらの建物は私が好きだったので、せがんで連れてきていただいたのです。今にして思えば、思惑に乗せられていたというところです。」
華はその頃の自分が見えるのか、目を細めて古物商を眺めていた。
正悟は返す言葉もない。華から聞かされた家族内に『ソライロアサガオ』的な存在が複数いることもそうだが、華以外に付いて話を聞かないのも不思議だった。華の祖父は高齢で俗世と離れたようだから分からなくもないが、叔母については腑に落ちないことが多い。
そもそも今の話では、同じ体質だという華もそういったものに巻き込まれている可能性が高いのではないか。正悟が口を開きかけた時、華は正悟を振り返った。
苦笑いを浮かべて、寂しげに言葉を落とす。
「でも、不思議です。事情を知った今では幼い私の行いも会合のことも辛いのに、ここはやっぱり、どうしても、懐かしく思ってしまうのです。」
それが正悟を慮っての言葉なのか、本心で思っていることなのか、正悟には判断が付かなかった。ただ、離れていた華の手を、無意識に握り込み、出来るだけ穏やかに言う。
「そうか。」
かける言葉を、正悟は持たない。それは、どんな気持ちだろう。
近しい者を傷付けていたかもしれないという思い、利用される運命にある自分を含めた一族、それでも好きだと思ってしまう背徳。それは、一体どれほどに御し難いのだろう。
「・・・そうだな、難しいな。」
難しい。人間の感情は、本当に難しい。
自分では制御できない、天災にも似た厄介な代物で、以前はそれが面倒で仕方がなかった。全て理性の支配下であればいいのにと苦しむこともあった。感情があるから、苦しいし、悲しいし、辛いのだ、と。
しかし、それがなくても、結局は苦しいのだ。
華と出会って、恋をした。焦がれた。そして諦めようとして、諦めきれずに今に至った。光流に出会い、悔しく思った。華の心が掴めないもどかしさに折れそうになった。
華の在り方を知って、愕然とした。辛い、しかし諦めきれない。
その複雑な想いの中、思い知る。
正悟を占める、華の大きさを。華が抱える、正悟とは違う世界を見つめる瞳の中の交り合いを。
「難しいからこそ、想うのだと思う。」
正悟がらしくなく曖昧なことを口にする。それに気付いて華の手を引きながら受付に向かう。その微かに見える頬が少し朱が差しているのを、華は目を細めて見つめた。
受付嬢に正悟が手にした招待券を見せると、それを恭しく受け取った受付嬢が案内図を二人に手渡してくれた。それを頼りに廊下の所々に置かれた作品を見ていく。
メインは彫刻や硝子細工だったが、中には出店者の名前がない物もある。
少し薄暗く設定された室内の灯りの中、浮かび上がる絵画や彫刻は陰影が強く、美しくも不気味だった。空気が古い物特有の甘ったるさを含んでいるというだけではない、内臓を撫で挙げられているような寒気が作品をより幻想的に見せる。夢か現か、境界が曖昧になる。
入り口にはそれなりに人がいたのに、ゆったりとした廊下にはまばらな数の人しかいない。他の客の行方が気になったが、華は正悟に手を引かれたまま案内表示の通りに順路を進んでいく。そこは子どもの時、華が好んで忍び込んだ屋根裏に登るための階段に向かう、細い廊下。
正悟は案内図と先ほど受付嬢が手渡してくれた半券を見比べながら、歩を進めていく。時々足が迷うが、それでも少しずつ屋根裏部屋の方に進む。古物商は増築や改修を繰り返しているので、華が幼い頃に見知っていた建物とは少し違っているようだった。
屋根裏部屋へ続く階段の横に、茶室の躙口のように小さい開閉式の特別室のドアの前に付いた時、周りには誰もいなかった。
限られた人が入れるように工夫されたその演出に少しの感心を覚えながら、正悟は小さなドアを押し開け身を屈めると中にそっと身を押し込めた。
中は思った以上に天井が高い、ほとんど真四角の部屋だった。
天井には正方形の天窓が、部屋には等間隔で同じように真四角の嵌め殺しの窓が並んでいる。部屋自体が屋敷の中心辺りに位置しているせいか、陽光はあまり入らず窓が多い割に部屋は薄暗い。その室内で、金属のフックで吊り下げられた球体の硝子細工のランプが光を滲ませていた。
そこは、まるで金魚鉢の中に放り込まれたような室内だった。
ランプ自体が国栖溝の作品なのか、薄い硝子を二枚重ねたランプのそのほんの薄い隙間を色の付いていない透明な金魚が飛んでいるかのように優美な鰭を広げている。しかし、灯りに照らし出された壁に映し出された金魚の影はくっきりと陰影で模様や鰭の流動を浮かび上がらせ、部屋自体が一種の絵画のような様相だ。
部屋をぐるっと見渡しても、まるで金魚が周りを泳いでいるかのような錯覚に見舞われる。圧巻の光景だった。
「すごい・・・。」
どちらともなく零れた言葉だった。
綺麗というのとは違った。美しくあっても、そこには威圧感と幻想の隙間に放り込まれたような不安定感がある。圧巻であると同時にひどく息苦しい。惹き込まれたら現実との境目が分からなくなってしまいそうな、危うい均衡の上に成り立つ硝子。
硝子でありながら、まるで水が形を成したようでもあるし、床に叩きつけても壊れない金剛石のようにも思えてしまう。
それが今現在、目の前に存在しているのかも分からなくなるほどの希薄さ、後ろ髪引かれるような鮮烈さ。まるで実態が掴めない。
「『狂う硝子』とは、よく言ったものだ。」
国栖溝椎奈の作品は狂いから生まれた。だからこそ人々が恐れ、嫌い、しかし惹きつけられて止まない。それは元来人間すべてが持っている常識や型からの解放だ。人間は生まれながらに束縛から解き放たれたいと思う。狂うというのは、ある意味呪縛からの解放だ。
危険ではあるが、故に抗いがたい。
正悟と華は無言で、部屋の中の作品を見て回った。
硝子細工に題名はなく、ただケースすらかけられることなく、クッションに置かれることもなく素のままの作品が無造作に黒いクロスのかかった机の上に置かれている。クロスはよく見れば濃い青色で、それが見たこともない海の底を連想させて息が苦しいような気がした。
色硝子を一切使っていない硝子はランプで陰影を使っていたように、硝子の厚みや形だけで表情を作っていた。ランプの残り火や僅かな陽光を受けて陰影を浮かび上がらせる。
首飾りの先端に付けられた硝子玉の中には絡み合うように泳いでいる。今にも零れ落ちそうな水滴の中に閉じ込められながら踊るようだ。金魚のいる水はあまりにも小さいのに、あまりにも自由だから胸が締め付けられる。
横からは見えず、真正面から見たときのみ浮かび上がるその金魚は特に細工自体に大きな違いは見えないにもかかわらず、何故か白い金魚と黒い金魚に見えた。
小瓶に飾られた硝子の花。花自体は金魚草だ。一見して今まで見ていたよりも普通の作品だが、正悟が興味本位で花の隙間から花瓶の中を覗き込むと、そこにはとぐろを巻くように長い胴体の魚の鰭が金魚草と融け合うように鎮座していた。さながら、朽ちた巨木から若木が成長しているような、神秘性と不気味さがある。すんでのところで悲鳴を抑えた正悟を、華は複雑そうな表情で見上げていた。
小さな部屋にはおよそ十点ほどの作品が並んでおり、そこには一切の説明がない。ただ、そのほとんどに金魚が取り入れられていることだけが、唯一国栖溝椎奈が作ったと言えるものだった。
「これほどの作品が、この世にあったんだな。」
「・・・。」
圧倒され、もう何も口に出来ない華に苦笑しながら、さてそろそろ部屋を出ようかと正悟が作品から視線をドアの方に向けた時、ふと気が付く。
小さな部屋に異様な存在感を示す映写機が一台、脚立に乗せられ、真四角の部屋の均衡を崩すかのように窪んだ収納空間に、もしくはそれすら部屋の壁を演出しているようにぴったりと嵌め込まれたまま、ただ静かに佇んでいる。
何年も使われていないのか、かけられた布は少し埃を被っている。
近付いて見ればフィルムがきちんと嵌められ、電源も使えるようだった。脚立の足元に転がっているフィルムの缶には『Kuzumizo Memory』と英語で表記がされている。
「これは・・・?」
「どうやらこれも国栖溝に関係する資料のようだが・・・フィルムもセットしてあるし、開始すれば見られると思うが。」
正悟がかけられている布を取り、映写機の電源を入れると、映写機は微かに何かを焦がすような音を立てて回り始めた。
丁度窓のない場所に映し出された映像は、どこかの部屋を映し出した。見たこともない部屋。本や机という見慣れた物の中に、飾り気のない家具が並べられている。その一つ、脚の短い机の上に何か硝子細工が乗せられている。それに目を向けていると、若い女性の声と男性の声が響いた。
『撮るなと言っているのに。』
『いいじゃないですか、もったいないですよ。』
『私にはもったいなくはない。こういう形にしたのはあいつの提案だ。私の一存じゃない。』
『俺にはもったいないですよ。せっかく綺麗なのに。』
映写機の映像が、硝子細工を映し出す。
それは、今までこの部屋で見た硝子細工とどこか違う趣をしていた。
映像越しにもかかわらず、その細工の美しさに鳥肌が立つ。
砂時計を横にしたように二つの球体を、細く優美な曲線を描く蔦のような硝子の絡まる中央がくびれた太い管で連結された水槽。きらきらと眩しい水で満たされた両端の球体に閉じ込められた硝子細工に華は声を奪われた。
まるで、生きているようだ。しかし現実にはあり得ない、優美な鰭をもつ金魚。
色硝子を一切使わない金魚は、右は鰭の襞が何重にも折り重なり薄絹のような透かしさえ見せる。硬質なはずなのに今まさに風で、水流で動き出しそうな躍動感。それにもかかわらず、どこまでも静かな。
左のもう一匹は片方の優美さとは異なり、ずいぶんと荒い。猛々しい傷付き、破れた鰭や裂けた胴体の傷が透明にも関わらず何とも生々しい。浮力で浮いている片方に対して、こちらは今にも頭が底に付いてしまいそうだった。それでも、僅かに残った上空の空気に向かって顔を懸命に持ち上げている。
『言葉も出なくなる。国栖溝椎奈の作品を見ていると。』
画面の中に、背を向けた女性の姿が映し出される。洋装に身を包んだ、肩口で髪を切り揃えた後ろ姿。とても寂しそうに見える、細い背。
『この子たちを見ていると、どうしても言葉に詰まる。こんなに綺麗なのに、片方はこんなにも苦しい。近いのに、救い出すことも癒すこともできないって感じです。』
『感傷的だな。』
自嘲気味な声だったが、男性は気にせずに続けた。
『生きるのに必死で自分が傷だらけなのにも気付けないのと、それをどうすることも出来ずに見守るしか出来ない状況では、どちらが残酷なのだろうかと思うんだ。』
ぎゅっと、華は正悟が握っている手に力を込めた。その手の震えごと、正悟は握り込む。
『きっとどちらも辛いですよ。俺が先輩に仲間に入れてもらえないように。』
『よく言う。』
すると、男性は悲しそうに硝子細工を撫でた。
『会いたいって言ってくれないから俺が言うのに、先輩はこれを俺にくれるんですね。』
男性の声は穏やかで、震えもない。ただ、想いだけを込めるように映像の中の女性に語りかける。それでも正悟たちに聞かせるように語り続ける。
『これが高校からの付き合いの後輩に対する態度って、ひどくないですか?』
『別に。これはお前にやったものだ。好きにすればいい。』
『じゃあ、『完成』のさせ方なんて教えないで欲しかったですよ。』
苦笑しながら、男性が硝子細工を持ち上げる。カメラが固定されたのか、不自然に見にくい位置で画面が固定された。
持ち上げられた水槽は、しかし水が揺れるだけで浮いているようにしか見えない金魚たちは一切動くことがなかった。
『いきますよ。』
『ふん。』
悲鳴を上げる暇もなかった。
パンっと小気味よく、静かな音でうっすら二重になっていた硝子のうち、内側の硝子のみが砕けると、左の金魚がふわっと浮き上がり管を伝って右側の球体に吸い込まれるように移動し始めた。ゆっくり、息を飲むような速度で近付いた金魚が同じ空間で鼻先をぶつけた瞬間、壊れたのは元々右側にいた金魚だった。
残滓さえきらきらと光って傷付いた金魚だけを残したその水槽を立てると、底に溜まった砂が重力に従ってゆっくりと落ちていく。しかし、不思議なことに先ほどは管を通った金魚が今度は移動することなく、一匹だけ上段の球体の中にいる。
『『あなたに逢いたい。』の答えがこれなんて、ひどいですよ。椎奈先輩。』
『そうか。』
女性が振り返る。一瞬映った表情は、何故か氷のように冷たいのに、どこか歪んで泣きそうに見えた。まるで、硝子で歪められた背景のように、映像が潰えた。
静寂に包まれた部屋の中、華が小さく嗚咽を零した。呆然とする正悟の掌から小さな手が零れ落ち、声を漏らす。ただ、涙の雫は落ちていない。
まるで叫び声を殺すように、華は口元を覆った。
何が悲しいのか、何が苦しいのか分からない。
ただ、正悟の胸を締め付けるような痛みと共に掻き乱すような想いがゆっくりと流れ落ちた気がした。
華がその部屋に入ったのは、久しぶりのことだった。
偏屈な祖父同様、変わり者として一族に認識されている叔母の部屋。この部屋の鍵の管理を任されているのは、同じ縁結びの華だけだ。掃除も定期的には行っているが、目的を持って部屋に入ったのは初めてといってもいい。
重厚な造りの椅子や机、同じ色合いの木の本箱。飾棚の中には多くの用途不明の物品が並べられている。幼い頃はそれに興味があったが、最近は壊してはいけないと触れなかった戸棚の扉を開ける。
一番奥に仕舞われていた両手に乗るくらいの宝石箱。記憶の通りの場所にあったそれを手に、華は大きな窓を背にした執務机に箱を慎重な手つきで置いた。いつの間に日が傾いたのか、青白く眩しい光が目の奥を焼く。
華は数瞬躊躇しながら鍵の壊れた宝石箱をそっと押しあけた。鍵は、叔母の手に渡った時から壊れていたものだ。そもそも、この宝石箱の中身はずっと前に役目を終え、壊れる時を待ち望んでいる。それをしないのは、後世にまで影響を与える人物が関わっているからだろう。
ゆっくりと押し上げられた箱の中、ベルベットの赤いクッションの上にそれはあった。
砂時計を横にしたように二つの球体を、細く優美な曲線を描く蔦のような硝子の絡まる中央がくびれた太い管で連結された水槽。きらきらと眩しい水で満たされた両端の球体に閉じ込められた硝子細工。
透明な砂のような残骸と、傷付いて今にも壊れてしまいそうな金魚の硝子が納められた砂時計。
箱の裏には銀色のプレートに文字が彫られている。
『To C From S.K.』
「『貴女に逢いたい』の答えは・・・『傷付けるから逢いたくない』と、いうことですか?」
魚が水を求めるように、それがなくては生きていけないものを欲するのが当然のように求めた。焦がれた。壊れてもいいと願って、壊して、出逢った。
しかし、その一瞬の邂逅で壊れたのは、自分ではなく相手で。
──そしてそんな世界に一人取り残されるのならば、いっそ最初から逢わずにいよう。
「・・・そういうことですか、叔母さま?」
正悟が用意した招待券は、正悟が幼い頃より慕っていた兄のような幼なじみに貰ったものらしい。彼自身が貰ったが行けなくなったと言って。
その出所は、あのフィルムを見た華にはすぐに分かった。
国栖溝椎奈の作品である、あの砂時計は、華の叔母が所有しているものだからだ。当然、あの部屋のフィルムも叔母のものだ。正悟が華を元気づけようと誘ったこの逢瀬に、叔母が絡んでいた。それは、縁結びとしての体質が、華の今の状況に水を差したことになる。
今の状況を、変えろと。誰の何を変えるのか、それは分からないけれど。
「・・・貴女は、だから、世界中を飛び回っているのですか?」
叔母は賭け事が好きだ。無意味なことに、脈絡のないことに賭け、それでも自身のところに届くもの、相手に届いて気付いて自分の元にまで来るものにのみ初めて相手をする。そして今回、華に賭けたのだ。
このメッセージが、いつ華に届くのか。届かずに終わるのか。
届くということは、華にとってそれが必要だという理論で。届かなければ、気付かなければ、意味のないことで。
「・・・嗚呼。」
華は呻いた。
満月が欠けていく。硝子のように無機質な光を纏いながら、砂時計の砂のように滑り落ちる光の粒。確実に擦り減る砂が時を露わしているのならば、その刻限が示すものは何だろう。
「三つ目の月が、満ちる。」
カーテンすら掛けられていない部屋の中、煌々と照らし出された明るい部屋の黒い電話が、小さく啼いた。
──みずにあわずにいられよか
でも、出逢ったことが、変わったことが、全てを削り取っていく。知らなかったはずの、痛みを伴って。




