四話
重々しい金属は妙に手に馴染んでくる。
というよりも、手に馴染ませる設計をしているのだろう。それは目標を定めやすくするためであり、誤った扱いを避けるためだ。二つ付いた突起物は両方とも引ける仕組みと成っている。両手に収まるほどの金属にはいくつもの重厚な仕掛けが仕組まれて、見た目以上の重さが圧し掛かってくる。少なくとも博は間違いなく断言できた。このファンタジーな世界に、鉛と火薬の臭い、重厚な金属は似合わない。科学の力は似合わない。
博がその金属の推察をしていたところで、獣が呆然と待っていることはなかった。
ジリジリと迫る獣に内心震え上がりながらも、博はこの金属の扱い方を知っている。
上部の突起を引き降ろし、筒状の穴を獣に向け、もうひとつの突起を引く。
すっかり暗くなった空に弾ける炸裂音が鳴り響くと、博の腕に衝撃が走った。
すごいとは聞いたことがあったが、予想を上回る衝撃は恐怖心と別に心臓を鼓動する。
自分が放ったにもかかわらず、甲高い音で筒状の中から飛び出した鉛を、博は目で捉えることができなかった。同様に、獣も見えていなかったのだろう。無論それは必然でもあった。
――博の拳銃が放った弾丸は、運良く獣の片目に直撃した。
おぞましい雄叫びは森に響き渡る。いくら狙い絞ったところでなかなか簡単に命中するものではない。実際に、弾丸は博の狙った場所を反れて獣の目を打ち抜いた。この場合視界を奪うという意味ではむしろ良い場所に当たったのだろう。獣はしばらく激痛にうなだれ、赤い濁った血を地面に流す。グロテスクな光景が広がり、気色悪さと初めて引き金を引いた緊張に博は吐き気を催した。悠然と立ち上がりながら憤怒をあらわにした獣を前に、喉の辺りまでこみ上げた胃の内容物を吐き出す直前で飲み下す。
余計に気持ち悪くもあったが、おかげで気が引き締まる。
「もう一発……!」
片手で口を抑えている暇はない。銃声ははっきりと鳴り響いたが、獣は倒れない。
前の世界の拳銃よりも威力が低いのか、見た目としてはテレビの画面で見たことのある弾丸そのものだが、獣の分厚い筋肉は通さなかった。狩猟用の銃ならともかく、所詮護身用の銃の威力ではこの程度であろう。流れる血は僅かで、致命傷に遠く至らない。
痛みを怒りに代えて歪んだ表情に、博は畏怖した。
「くっ……くそぉ!」
一発、二発、がむしゃらに放った弾丸は獣の横を通り過ぎていく。扱い方も知らないド素人が冷静にもなれなければ当然の結果だ。連続で撃った所為で腕がしびれる。あさっての方向へと飛んでいった弾は牽制にもならず、獣は銃を臆せず迫ってくる。
目と鼻の先まで迫ってくる脅威を、博はどう切り抜けることが出来るだろうか。冷静になれていればまだ何か方法を思いついたかもしれない。哀れだが、博は恐怖を目の前にして冷静になれるだけの人間ではなかった。
恐怖という感情のままに動き出した足は、結局無様にもつれて転倒する。
恐怖に擦れる声は意味を持たず、ただ絶望を喘いでいた。
「あぁ、あっ……来るな……来るなよぉ……」
銃を握った手を持ち上げようとしたが、強烈な重力に引っ張られる。地面そのものを持ち上げようとしたかのような感覚はなんてことはない。錯覚に支配されただけだ。目前と迫る絶望と腕の痺れに握力を失っていた。
両手で支えても依然と持ち上がらない腕に博は苛立ちを覚える。対照的に、頭から流れ出す血が滴る野獣の腕は、簡単に持ち上がっていた。
振り下ろされる腕は博の胴体を目掛けて空を薙ぐ。
片目がつぶれて距離感を麻痺しているのだろうか、獣の腕は博がとっさに屈めた体の横を通り過ぎていった。
頬を撫でていく風圧に無様な悲鳴を挙げて、脳裏に染み付いた幻影にすくみ上がる。
今の博には逃げることしか頭にない。自らの疲労も忘れて、逃げるための算段もないまま立ち上がった。誰の目から見ても明らかに惨憺たる状況は、第三者が唱えずとも本人が認める。生物が平等に備える生命への欲求のみが、今の博を突き動かしている。
それは蜘蛛の糸に捕まった蝶がもがいているだけに過ぎない。
蟻地獄の中で獲物が蠢いているだけに過ぎない。
それでも博は立ち上がることしか出来なかった。命を、無意識に求めている。
ファ=ルゥは無事に里に帰れたはずなのだ。彼女を守るという使命は果たせたはずなのに、博は未だに生きようとしている。誰よりも死を知った博だからこそ、死を恐れているのか。否、誰もが悲惨というしかない前世だが、博としては幾分満足している。後悔のみが胸に穴を開けるが、この新たな命がなければ後悔さえ出来なかったのだ。この世界に来て博が望んだものは、この命を全うすることだ。
生きたいと願うのも必然であろう。
絶望の淵に沈みこみかける博は再び獣が腕を振りかぶるのを眺めながら、去り際に残したファ=ルゥの言葉を思い出す。
死んじゃったら駄目だよ。
生前、ファ=ルゥと同様に娘も望んだことだろう。あるいは重ね合わせているだけかもしれないが、ファ=ルゥは娘に似ている。容姿も、仕草も、父親の博から見てそう思うのだから存外間違っていない。僅かな時間を共に過ごしたそのファ=ルゥが望んでいるのだから、娘はより強く望んだはずだ。
世の理とは理不尽なことに、博は娘の知らない世界で新たな命を拾った。
一人の少女を救った立派な生き様を見せることは出来ない。
このまま死んでしまえば意識の最後まで前世と同じ後悔が蝕むことだろう。
だから生きたいと、望んでしまうのは横暴なのだろうか。
新たな命を与えてくれた神様は、都合の良いときだけの懇願は、やはり叶えてくれないのだろうか。
獣の二度目の襲撃は、博の片腹を抉った。
この世のものとは思えない激痛が痛みという概念すら超えて博を刺激する。
絶叫と共に、際限なく流れる血。視界がかすむ。
手で必死に押さえても、指の隙間をぬって血があふれ出る。
死を体感した。
もう助からないと思った。
生前の死を体験した博だからこそ、簡単に死として受け入れた。
生前病床についた頃から吐血を何度か吐き出したものだが、今博が吐いた血は逆流したものだろう。
苦しさで言えば似たようなものだが、尋常ではない痛みを伴うだけたちが悪い。
この状況で、苦痛を吟味する自分におかしくなる。
それを抵抗と言うには、あまりにも逆らう気力が感じられなかった。
つまるところただの余興であろう。冥土の土産だ。
痛みで愉快になった思考が、なんとなくそうさせた。
硬直した指が銃を離さなかったから、持ち上げて、銃口を定め、引き金を引いただけだ。
倒せるとも思っていなければ、倒そうとも思っていない。
力もまともに入らず重たかったが、力を振り絞って引いてみた。
何の因果か、何の奇跡か。博の余興に付き合うように、銃は鳴り響く。
遠のく意識の淵で、博は獣の潰れた逆の目に弾丸が命中したのを確認して、その目を閉じた。
◆
「ファッ!? 無事だったのかっ!?」
ファ=ルゥがその声を聞いてどれほどの安心感に満たされたことだろうか。
恐怖と不安と心配を抱えながら全力で走ってきた。既に脚も疲労ではじけてしまいそうだ。荒れる呼吸にむせ返りながら、あらゆる情緒が涙となって解け落ちていく。年相応に大粒の涙をこぼして、博に見せていた健気な姿を崩してしゃくり上げた。
そっと優しく包み込むように被さる腕は華奢な肉付きだ。
良かったと、震わせた声で何度も呟いているのは端正な顔立ちをした男性である。どこか顔立ちの若さ以上の年齢がにじみ出る、耳の尖った男性。彼はエルフだった。
涙で衣服が濡れるのも気にせずに、ファ=ルゥを抱きしめる。心配の大きさに比例して、次第に抱きしめる力が強くなっていく。
二人が居る場所は、森の中でも既に人工的部分が多くを占めていた。暗くなった森を照らす街灯と、整備された道。そこはもはや、そここそがまさしく、エルフの里といっても過言ではない。目と鼻の先には彼らの居住区が存在する。
二人を割くように、森のどこかで炸裂音が鳴り響いた。
「さっきから何なんだ? 獣なのか? それにしては銃声が狩猟用ではない」
男性はファ=ルゥと身を離し、耳を傾けて分析する。先ほどから、ファ=ルゥは走りながら背中越しに聞いていた。間違いなくファ=ルゥが博に渡した銃の音だろう。銃声が鳴るたび、押しつぶされてしまいそうなほど不安になった。随分と久しく感じる仲間の声に多少和らいだ不安だったが、今も胸を締め付けてくる。博の無事な姿を見ないと、安心できない。
状況の整理をしていた男性は、ファ=ルゥが必死に涙を堪えようとしていることに気付いた。
「お願い……ヒロシを、ヒロシを助けて……」
涙ながらに捻り出てくる声は不安に消え入ってしまいそうだ。ファ=ルゥが儚く紡いだ言葉に男性は問い正す。
「ヒロシ? ヒロシとは誰だ。その者がこの銃声を鳴らしているのか?」
ファ=ルゥは首を縦に振った。
言うまでもないが、ファ=ルゥと比べての通りヒロシという名はとてもエルフが冠する名ではない。それどころか、この世界においては人間にすらユーモラスに扱われるだろう。
聞き覚えのない名前に、浮かび上がってくる嫌悪。男性の脳裏を一つの可能性が占めている。
ヒロシという者は恐らく人間だ。仮にその名が愛玩動物やその他であるとしても、ファ=ルゥの泣き方は尋常ではない。ファ=ルゥがエルフの里に居ない間に接触し、信頼を深めたのだろう。
だとしてもなぜ人間なのだと、不満が湧き上がる。
エルフと人間は忌み嫌い合い、互いに住居を分けた。エルフが森に追いやられ、人間が外界を支配する。そんな関係であり、その中に憎悪が乱れ狂う関係だ。
それは、男性にとって究極に迫られる決断だったことだろう。
人間を助けるのか、放置してしまうのか。本音としては、人間を助けたくはない。そのまま獣の糞となってしまえば良いとさえ思っている。エルフという種族が人間を嫌うように、彼個人紛れもなく人間に対し憎悪を抱いている。だが、男性の心事を揺るがすように、目の前の少女は人間の為に泣いていた。尋常ではない心配を人間に寄せて、頼ってきた。
どうすればいいのか、どれが答えなのか。
エルフと人間の関係の根幹を覆してしまいそうな問題が迫ってくる。男性はそれが怖かった。
そんな決断を一人に任せるなと、この場で言えたのならどれだけ楽だったか。
いっそのこと既にその人間が食われていればいいのだ。
そうすれば誰も責められずに終われる。
そうすれば、一人の少女が悲しむ。
こうして悩んでる間にも人間に危険が近づいているのだろう。
エルフの里の中といっても、ここは獣が彷徨う森だ。男性が肩に掛ける銃は、それこそ獣を一撃で仕留められるような狩猟用の銃である。
男性は銃を構えて、銃声のあった方角を鋭く睨む。
「行こう。悩んでる暇はない。ファ=ルゥ、案内してくれるな?」
言葉の端々がどこか辛辣であれど、その言葉にファ=ルゥの表情が多少和らいだ。
本日だけでどれだけその小さな脚を酷使したことか。翌日の筋肉痛が容易に想像できる。
ファ=ルゥは男性を引き連れて走り出す。銃声の場所とファ=ルゥの案内を頼りに、男性も走った。
懸命に、それこそこの脚が千切れても構わないほど、ファ=ルゥは走った。それからそう長くもない距離を走った頃、悲鳴を上げる脚に叱咤しながら、銃声が途絶えたことに気付く。
嫌な想像しか出来ない。あの状況から博が逃げ切れたとも考えれない。かといって、獣を撃退できたとも思えなかった。頭を振って、想像を振り切る。自然と、また涙がこみ上げてくる。
「大丈夫だ、ファ。ヒロシという者もそうやわでもないのだろう?」
男性は何処に根拠もなく言った。頭の中では最悪の、彼にとっては望み通りの、言葉とは矛盾する結果を想像しながら言い張った。明らかに疲労が色濃く出ているファ=ルゥの姿は、あまりにもいたたまれない。そんな言葉で慰められているのだろうか。少なくとも耳には届いているようだ。うんと、ファ=ルゥは相槌を打った。
「――獣の声っ……!」
獣の咆哮が、まだその姿も見せない先から威圧してくる。
「ここから先は危険だ。ファはここで待っててくれ」
心配そうな表情はより強くなっている。目前に差し掛かるほど、胸を締め付けられたことだろう。
ヒロシという者を連れて来なければファ=ルゥが喜ぶ姿を見せることはない。なおも聞き分けず付いてこようとしたところを制止した。酷だが、仮にも最悪の想像通りの姿を幼いファ=ルゥに見せるわけにはいかない。ファ=ルゥの膝から手を掛けると、簡単に抱き上げれる。この通り疲労で抵抗する力も残されていなかった。そのまま道の端に座らせと、腰が砕けてしまったように立ち上がることが出来ない。
男性は一人道を突き進んでいった。
咆哮の主は直に見つかった。
無造作に、我を失ったように暴れている。振り回す腕は全て空を薙いでいた。
「何をしているんだ?」
理解不能な獣の行動に触れられない程度に、近づいてみる。
憤怒のままに振り回す腕は、何を目標としているのだろうか。銃を突き出して前進していく。銃口を獣の頭部に定めて、男性は気付いた。
獣の目が両方潰れている。
おぞましい雄叫びを吼え散らし、盲目の目で怒りの対象を探している。
潰れてなお鋭い眼光に一瞬震え上がってしまうものがあった。
獣を憤怒に陥れている者を、男性は簡単に見つけた。
獣の腕が当たりそうにないところで、人が血を流して転がっている。
耳は尖っていない。人間だ。
死んでしまっているのではないか。ピクリとも動かない。
幸か不幸か、肩がほんの僅かに上下しているような気もするが、気のせいと言われてしまえば気のせいと思ってしまう。
ファ=ルゥの不安に触発されたのか、男性は自分の中にどこかこの人間への心配があることに苛立ちを隠せない。
男性は、改めて銃口を獣に向けて、突起に掛かる指を引き絞った。