三話
「本当に、本当にありがとうございます」
博とファ=ルゥは何度も、何度も頭を下げた。
博がファ=ルゥの恩人であるように、いくら感謝しても足りないほど、店主は二人にとって恩人である。あのまま疲労の溜まった身体で旅立てば恐らくどこかで行き倒れるだろうし、仮に身を隠しながら街で生活してもこの世界の勝手を知らない博とまだ幼いファ=ルゥでは捕まるのも時間の問題だ。
僅かな時間ではあるが、宿屋にかくまってもらったおかげである程度の疲労も抜けていた。
「まあ、その、なんだ。元気でやれよ」
辺りはまだ暗い。その表情こそ読み取れないが、店主の言葉端からは照れ臭さが滲み出ている。
見送りの言葉もまた、優しい言葉だった。
エルフと言う種族なだけで、蔑まれていた少女。かつて人間との間にどんな因縁が交わっているのか、博は知らない。偏見という醜いしがらみはこの世界でも蔓延している。博の生きた世界でもそうであったように、許されていいものではない。許せなかったが故に、博は街を出て行く。
博は怒りに任せた行動を後悔していなかった。
きっとファ=ルゥを救うことこそ、博がこの世界で成すべきことだったのだろう。結果は苦しい状況となってしまったが、苦しいなりに精一杯生き抜こうと思った。自分自身の決断を咎めようとは思わなかった。
「はい! お世話になりました!!」
博の返事は暗い街に響き渡った。
店主は住人たちが起き出さないかと、不安そうに見渡していた。
◆
本当に店主には何から何まで頭が上がらない。
博は道中の食事として店主に貰ったパンをかじりながら、ファ=ルゥの話を聞いていた。
ファ=ルゥは博には心を許したのか、外見通りの無邪気な少女の笑顔で博に話していた。
「じゃあファ=ルゥは、森の奥地にある里から一日近くかかって街に出たのか?」
「うん。里から森に出るまでで半日、そこから街まででまた半日だよ」
店主のどうせ使わないからと言う言葉に甘えて受け取った地図を広げて、二人は休憩している。街を出る前は暗かった空も、現在太陽は真上に昇りかかっていた。ちょうど地図でも街と森の真ん中くらいに差し掛かるくらいだろうと、博は推測した。
現在二人は、エルフの住むと言う森を目指している。その奥地にあるのはファ=ルゥの故郷だ。
多くの旅人たちによって踏み固められた街道は、当然だが博の居た世界のような十分な整備は施されていない。何処かしらに残っていたピクニック感覚もすっかり打ちのめされた博は、情けないことに子供であるファ=ルゥよりも先に値を上げた。休憩しようと提案したのも博である。
ただでさえ病人で、かつ自分でも自負するくらいにひ弱な現代っ子の博は、ここまで距離を歩いてくるのに既にふくらはぎの辺りを痛めていた。
博は患部をさすりながら、最後の一口となったパンを口に放った。
「この辺りは獣も出るらしいのに、一人で大変だったな」
博はじっくりと租借しながら店主の言葉を借りて感心する。実際どのような獣か分かりはしないが、現代日本に存在する動物の類は想像の中にはなかった。凶暴で獰猛な、頭に魔と付くファンタジーならではの獣を想像している。それを切り抜けてきたともすれば、ファ=ルゥがどれだけの体験をして街まで来たのか、容易に想像が付いた。
少なくとも、街の店の一角で見た獣の皮が博の世界で見たこともないような毛皮だったことは、博の不安を助長しているだろう。
「……うん。獣とは出会わずに街まで出れたから」
博は何かを隠すようにしているファ=ルゥの言動を見逃さなかった。一瞬言葉に詰まったのはためらいからだろう。何を隠しているのか気になりはしたが、ここまで築き上げた信頼を失うつもりも、このか弱い少女を傷つけるつもりもない。心配を掛けたくないからと、ファ=ルゥなりの気遣いという可能性もある。
博は深読みもそこそこに切り上げ、またファ=ルゥに優しく声を掛けた。
娘と話した時のように、かけがえのない時間が蘇った。
「でも、一人だけで森を抜けてくるのも大変だっただろ。頼りにならないかもしれないけど、今度は俺が一緒だからな」
言いながらファ=ルゥの頭にポンと手を置く。心地よさそうな微笑みに博も心温まる。
「――それじゃ、行こう」
十分に休息も取れ、地図をたたんで立ち上がった。歩き出す博の後ろについてきて、ファ=ルゥは横に並ぶ。道中他愛もない話をして歩いた。あることないこと、ファ=ルゥの笑顔の為に脚色した話はおおむね好評だったと言えるだろう。ほとんど生前の体験だったり、創作物の引用だったことはこの際置いておく。
しばらく、ちょうど街を出てから半日くらい歩いた所辺りで、二人は森を見つけた。件のファ=ルゥの故郷の森で間違いないだろう。地図上でも同じ位置にあたることはわざわざ広げずとも分かった。
陽は真上に昇ったところだ。
今から森へ入っていけば、ファ=ルゥの話だと陽が落ちた頃に里へ着くことだろう。気付けば博の内に好奇心が湧き上がっている。
漫画でしか見たことのない、エルフの里。博の中で彼等はおおよそ知的な種族だ。そして生前では考えられないような長寿でもある。いくつ年齢を重ねても若々しく、ファ=ルゥを見ての通り麗しく芳しいイメージだ。
ともすれば、思考を巡らせていく内にふと気になる。
「そういえば、ファ=ルゥはいくつになるんだ?」
数々見てきた漫画の中に、エルフや長寿の種族の年齢を聞いて驚くといったシーンがある。博は無意識にファ=ルゥは年相応の少女だと思っていたが、あるいは年上という考えもでてきた。頭を振ってその可能性を頭の隅へ追いやり、森を目の前に見据えて尋ねるのもどこか無粋かもしれないが、なんとなく聞いてみた。
「うん? 六歳だよ?」
ファ=ルゥはどうしたのとばかりに小首をかしげる。白々しさなど一切なく、純真に純粋な答えだろう。ファ=ルゥの大きな瞳はぱちりと閉じた。
六歳とは、まさに娘と同じだ。
博はこの世界に着てからというものの、如何せん疑り深い。無論ファ=ルゥのことは信頼しているが、どうにも疑心暗鬼である。こんな無粋な疑問が浮かび上がってくるのは疑念だろうか。博は胸の内にあるものが好奇心と同時に、不安であることに気がついた。
街で垣間見た、人間とエルフとの確執。
疑心暗鬼のままの自分が里に訪れて、エルフは人間である博を受け入れるだろうか。ファ=ルゥに石を投げた老人がかつてエルフに何をされてきたのか、何が怒りに染められたのか、博には想像もつかない。ただそこにあったのは偏見と差別であり、あまりにも醜い惨状だった。か弱いエルフの少女が、優しいファ=ルゥが、何かをしたわけではないだろう。
傷つき泣いていたのはエルフの少女であり、人間は見世物のように取り囲んでいた。
博は自分の行動に誇りを持っている。隣の少女を守る覚悟を持っている。
だが、エルフが博をどう思うのか――恐らく、人間に対する嫌悪的な感情を刺激するだけだ。
博一人の行動で根強い確執が解消されるはずもない。理屈ではなく、染み付いた汚れはいくら綺麗に洗っても跡は残ってしまうものである。顔を見せただけでファ=ルゥと同じ状況に陥るかもしれない。さらにひどい仕打ちというものを想像したくはなかった。
それでもせめて、ファ=ルゥだけは里まで送り届けよう。
博は意志を固めて森へと足を踏み入れた。
◆
鬱蒼と茂る草木が視界を奪う。野蛮な獣の声が遠くのほうに聞こえるのを勤めて気にせず、博は歩を進めた。森の中は博の想像より良く手入れされている。踏み固められた地面が伸びていき、道となって博たちを誘っていた。
「それにしても本当に獣の一匹、二匹、出てきてもおかしくない雰囲気だな」
街道と言うには若干拙い道に、歩を止めることなく博は言う。疲れた身体に気合を入れるため呟いた小言だが、実際その可能性もある。天が差し込むのは既に赤み掛かった木漏れ日だ。辺りがより暗くなるにつれ不安が加速していく。木々に隠れた陽がどこまで沈んでしまっているのか分からない現状は、博に焦りを生み出していた。心なしか足早な足取りは本人が気付くこともなく、疲労を溜め込んでいる。
博の隣に歩くファ=ルゥにも、色濃い疲労が見え始めていた。
「私たちの里はもうすぐだよ。あと少し、頑張ろう!」
息を切らしながら紡いだファ=ルゥの健気な励ましの通り、見渡してみれば人の手らしき痕跡が森の入り口付近よりも多く伺える。情けないことに大人である博が子供の激励に勇気付けられつつ、博からしてみれば壮絶な長旅に終焉が見え、言いようのない感動がこみ上げてきた。
舞い上がりそうな内心をどうにか抑制して、残り僅かとなった道のりを一歩ずつ踏み締める。上げるごとに岩よりも重く感じる足が、今となってはこの疲労も心地よい気がしてきた。いわゆる、ランナーズハイという現象に近い状態だろう。
心地よさとは裏腹に、何故か良いようのない不安がこみ上げてくる。
どうやら気を紛らすために呟いた小言は、現実となってしまったようだ。
野蛮な咆哮が、博たちを襲う。
「――なんだっ!?」
張り上げた声を向けた先には、ほかでもない――獰猛な獣が居た。
脇道から飛び出してきたのは動物園で見たことのある見世物として調教された動物ではない。生前見たことのある動物たちとは比較にならないほど筋肉が膨れ上がり、そして巨大な身体を揺らすたび地面が揺れる。あるいは疲労と緊張と、何よりも恐怖から来る足の震えが、博に地面の揺れを錯覚させているのかもしれない。熊に近い獣の飢えた視線は、紛れもなく博たちを獲物として捕らえている。
博は震える足で、ファ=ルゥを庇うように立ち塞いだ。
「……なんとか無事にここまでたどり着いたのに、お前のおかげで台無しだ」
一歩ずつ近づいてきては、博たちもジリジリと後退していく。その熊のような生物が一歩進むたび、不安を煽るように喉を鳴らす。鋭利な牙が生え揃った口元に溢れる唾液が獣臭さを演出していた。
博は心のどこかで、この獣の餌となってしまう未来を見ている。
疲労した足では逃げ切る自信もなく、当然退治なんて出来るはずもない。冷静になればなるほど絶望的な状況で、距離を詰められて状況はより悪化していく。
諦めかかっている思考を振り切るように、博は頭を振った。
「くそぉ! ファ=ルゥ、逃げろっ!」
せめて目的だけは果たそう。
ファ=ルゥを守る、そう誓った覚悟だけは誤魔化したくない。なにより手段を選んでる場合ではなさそうだ。博はこの命を失おうとも、ファ=ルゥだけは守り抜かなければならないと思った。
無事に里にたどり着いてくれさえすれば良い。そうしていつか博の存在を忘れていき、平和に、幸せに暮らしてほしい。ファ=ルゥの幸せを願う願望を覚悟に置き換え、心事を決める。
ファ=ルゥも怯えていたことだろう。博の張り上げた声に、ビクリと身体を跳ね上げた。
「でも……!」
ファ=ルゥの中には恐怖心とは別に、心配と戸惑いが見える。
博の身を案ずる心配だろう。気持ちはありがたいが、博はファ=ルゥが生き残ることを望んでいた。案外生前のように、ファ=ルゥを守れて死ねるのなら悪くないかもしれない。
「いいから、ファ=ルゥだけでも早く逃げるんだっ!」
より強い喧騒で張り上げた声に、ファ=ルゥはまた跳ね上がる。
決心はついたのだろうか。ファ=ルゥは自分のバッグを漁って何かを取り出した。
それを博に渡すと、望みに答えるように走り出す。
「それを使って! すぐに里の皆を呼んでくるから、死んじゃったら駄目だよ!」
去り際に、ファルゥは言い残していった。
里の者を直に呼んでこれるような所まで来ていたのか。呑気なことだが、博は死を目前にして達成感に満たされている。達観と言うのだろうか、覚悟は出来ていた。
獣がファ=ルゥを追うことはなかった。目の前により大きな獲物が居るのだから当然だろう。
改めて、ファ=ルゥが残していってくれた物を眺めてみた。
それはあまり大きな物ではない割りに重々しく手に乗りかかり、金属のひんやりとした冷たさが伝わってくる。歪な形に付いた突起物が二つと、筒状の穴。鉛と火薬が混じった臭い。
この世界はファンタジーだ。
そんな世界でありながら、それはこの世界の雰囲気にはあまりにも似合わない物だ。
それは博には馴染みがないものの、生前の世界では間違いなく誰もが知った物だった。
『エルフの森』を楽しんで読んでくださっている方、いつもありがとうございます。
申し訳ないですが、最近多忙につき次回の更新が遅くなるかもしれないことを報告しておきます。