一話
単刀直入に言ってしまうと、博は天国や地獄、あるいは輪廻転生という類のものは信仰していない。理由としては言わずもがな。世間でそういったものの存在を耳にしたこともなければ、恐らく未来永劫現れることもないからだ。少なくとも、博の生きた僅かな時代には照明されなかった。およそファンタジーと呼ばれるフィクションの書物で確認出来るが、それだけで信じるのも愚の骨頂というものである。
もっとも、あればいいなという願望を前提としておくが。
「――ん……うぅ」
故に、ここにある博の意識は博自身でさえも説明できない。
まさか願望と言うのも謙遜してしまうような願望を神様が適当に拾って叶えたというわけではないだろう。それこそ天国地獄同様に、博は神様なんて信じていない。仮にこの場所をその類のものの一部だとしても、博の想像には遠く至らないあまりにも質素な一室である。素朴なベッドに掛けられた布団は若干ごわごわしていて、安っぽい机にはランプが置かれていた。四畳半程度の狭い部屋には他に特筆するものもなかった。
それでも地獄という概念から比べてしまうと、どちらかと言えば天国なのだろう。
あまり釈然としない部分も残しながら、博は考えすぎても仕方ないと、取り合えず結論を保管して声を絞り出した。
「んん……あ、あ、あ、あ」
咳払いの後歌手の発声練習のように上げた声は、何日か口を開かなかったと錯覚してしまうほど声が出ない。実際のところこそ知れないが、喉が張りついている感覚に軽くむせ返り、一気に吐き出ていく酸素を肺が求めている。ひと通り荒れた呼吸も落ち着いて、ゆっくりと吸った空気は徐々に肺を満たしていった。
生物が当たり前のようにやり続けているはずのこの行為が、今の博には妙に心地良い。
こうして呼吸をすることによって改めて感じるものは、残念なことに同じ疑問をループさせるだけだった。
「俺、生きてる……のか?」
力を入れていない掌を軽く握り、また開く。数度繰り返しながら博が紡いだ言葉は、自分が生きていることへの疑心暗鬼を露呈した。
閉じた拳を強く握ってみたり、また力を抜いてみたり。この身体は博の意識に連動している。当然と言えば当然なのだが、おかげで博の疑問は更に強くなる。
生命を否定したくはないが、博が覚悟した死はこんな呑気なものじゃなかったはずだ。自由に身体を動かしてみても、病を培って以降常に付きまとってきた苦痛が一切ないというのは、要するにそういうことだろう。認めざるを得ない現状にどこか腹立たしくもあり、そこはかとない感謝があった。
本来あるはずもなかった博の命に、博自身も信じられずにいる。博の人生を哀れんだ神様が新たな人生を与えてくれたのだろうか。
誰でも想像したことのある死後の世界に、答えを求めようとしてもキリがない。同様に、現在の状況を形容する程の語彙を博は持ち合わせていなかった。
結局、子供のわがままのように認めたくなかっただけだと、博の中で結論もまとまり始める。
博は自分の紡いだ言葉がいつぞや病院のベッドで読んだファンタジー小説の、トラックにはねられて異世界に転生した主人公の呟いた一説と一字一句同じで、少し笑った。
「やっぱり、そういうことなのかなぁ」
博の頭の中を過ぎった記憶の片隅にある言葉は、この状況を的確に説明するに足る言葉だ。
そんな便利な言葉かあるからと言って、博が納得するのも別の問題ではあったが。
「転生……」
それは博の心の中にあった天秤に掛けられた葛藤が傾いた瞬間である。
否定し続けた言葉を紡いだ一言は、部屋のとば口の外から聞こえてくる生活音でかき消された。
あまりにも小さな声ではあったが、博は自分の言葉を否定できない。既に心のどこかで、その事実を認めていた。
見慣れないこの部屋も、苦痛のなくなったこの肉体も、全てが肯定している。
認めたくないわけじゃない、ただ信じられないだけの自分の命に、博は戸惑っている。
博は気を取り直す為のストレッチで、久しく味わった全身に血が巡る感覚にそれだけで感動を覚えるのだった。
◆
どうやら宿屋のようだ。
部屋を出て辺りを見渡した博は、扉が立ち並ぶ廊下に結論付ける。文字の刻まれたプレートが部屋ごとに打ち付けられていて、博の目覚めた部屋と内装が同様であるならば恐らく間違いない。
ただし、それは博の常識の中にある宿屋とは大きくかけ離れたものだ。ホテルや旅館と言うには安っぽ過ぎるというか、どうにも中世的である。博が歩くたび、前面木製の床と壁はギシギシと音を立てた。
言ってしまえば漫画の中だ。どことなく、埃っぽい印象だった。
自慢ではないが、高校卒業後に生前の妻と同姓を始めた博は、頭の出来が決して良くはない。日頃使い慣れた文字はともかく、ローマ字など見たことある位はあったが、このプレートの文字は記憶に引っかからなかった。
部屋の照明がランプであることからも薄々感づいてはいたが、改めて踏み出した部屋の外の情報と照らし合わせても、ここは博の生きた世界ではないのではないか。
意外にも、博はその事実をすんなりと飲み込めた。
「階段は……あそこか」
部屋を出る前にした深呼吸が効いたのか、不思議と落ち着いている。
足元から聞こえてくる生活音を頼りに探した階段は、下へ向かっていた。どことなく騒がしい声はこの階まで聞こえてくる。博は緊張している足取りで歩き始めた。
「こうして歩いてることでさえ信じられないのに、下の人たちにここはファンタジーな世界ですって言われたら倒れちゃうんじゃないか、俺」
自分が死んだと言う意識は今にもなって残っている。おそらく、この世界での博がどんな最後になるにしろ、最後まで付き合うことになる意識だろう。転生という実感が涌き切らない現状、覚悟と言うにはいささか中途半端ではあったが、準備は出来ていると言っていい。というよりも、この身ひとつを投げ出されて適応していくしかないといった次第か。
この世界に適応するためにも、まずは人に話を聞くしかない。
言語が通じればいいが。
不安といえば全てが不安でもある中、目先に問題を残しながら、博は階段を下りた。
「――あぁ、君か。飯の準備は出来ているよ」
階段を下りた先のカウンターには、すっかり禿げ上がった大柄な男が居た。口元の立派に蓄えられた髭からニッコリと白い歯を零す。人の良い笑みで博を向かいいれる。
博の懸念は取り合えず問題ないらしい。男の言語は、紛れもなく博に通じていた。違和感があるとすれば、言語が通じるにもかかわらず男の顔立ちがとても日本人じみたものではない事くらいか。無論予測は出来ていた。この状況の中では、驚きにはならなかった。
「え……っと?」
「いま持っていくから、あの席に座って待っててくれ」
言われるがまま促された席に着く。置かれた状況の理解に苦しむが深く考えず待つ。短絡的かもしれないがなんとかなるだろう。
ただ待っているだけにしても暇で、辺りを見回した。
宿泊客だろうか。皆がそれぞれ談笑を交わしながら、大きなパンをほおばって、ゴロゴロとした具の白いシチューで飲み下していた。シチューから立ち上がった湯気につられていい香りがただよっている。博の鼻をくすぐるように、濃厚な香りが吹き抜ける。
思い出したように気付いたが、腹が減っているらしい。
気付けば口の中はよだれに溢れていた。
小気味いい音を腹が鳴らしたところで、ちょうど良く客たちと同じものが運ばれてきた。
「お待たせ、遠慮せずに食ってくれ」
「あ……はい」
どういう事情にせよ、今の博は紛れもなく腹を空かしている。遠慮するなという言葉で、博は欲望のままに手を伸ばした。
美味い。
ザクッと音を立てながら、パンに歯が沈み込む。硬すぎない絶妙な焼き加減で、パンの耳の香ばしさが口に広がった。ふわふわとした食感の身は深い甘みがある。焼きたてのパン特有の温もりと言うか、別格の美味さに更に食欲が掻き立てられ、気付けばスプーンでシチューを掬っている。
また欲望が囁いているのか。
博はスプーンを口に運んだ。
これもまた野菜の旨みが濃厚なシチューだ。コクのある味が博の空腹を徐々に暖めていく。
食器が木製と言うのもまたなんとも趣深い。
手も口も止まることなく、人の目を気に留めることなくがっつき、あっという間に食べ終えた。
これだけ食したのはいつ以来だろうか。生前、点滴で命は繋がっても腹は膨れなかった。満たされた腹の満足感と、久々の食事の感動と、生前の記憶に浸る。それを食休みとでも受け取ったのだろうか、人のいい笑みを浮かべながら近づいてきたのは、その体躯に似合わぬ器用さで両手に食器を積み上げた男だった。
「ヒロシ=ヤマシタ君だったか? 人は見かけによらないもんで、いい食いっぷりだぁ。美味そうに食ってくれて俺も嬉しいよ」
名乗った覚えこそないが、ここが宿屋であると言うならばチェックイン時にでも手続きしたのだろう。 外国人が日本人の名前を言いにくそうに読み上げるのと同様に、片言で博の名前を思い出しながら満面の笑みを浮かべる。更に博の食器を両手に積み上げて、豪快な笑い声を上げながら引き下がった。
彼が博の食いっぷりに喜んでるともすれば、彼こそ宿屋の店主だろう。
本日目覚める以前の記憶が生前に直結する博が、情報整理するにもまだ早い。朝飯を食べただけだ。始めにこの階に降りた目的の通り、情報収集が先になる。
博は人見知りするタイプでもなかったが、博以外の宿泊客が皆日本人離れした顔立ちから先入観で何となく話しかけづらい。
二、三言ではあるが会話もした店主が一番話しかけやすかった。
とりあえず店主の仕事が一息つくまで、博は食休みでもしながら暇をつぶすことにした。
◆
「なにか用かい? ヒロシ=ヤマシタ君」
店主が一息つくまで待つつもりでいたが、博があまりにもちらちらと様子を伺っていた所為で店主の方が気に掛けたらしい。忙しそうではあったが人のいい笑みで聞いてくる。博は若干後ろめたさもありつつ、店主の人のよさにあやかることにした。
「すいません、忙しいときに」
「いやあ、いいんだよ。生き抜きも必要ってモンだ。なんでも聞いてくれぃ」
博の申し訳なさそうな断りは豪快に笑い飛ばした店主に、改めて情報を聞きだす。
「実は僕旅をしていて、自由に街を渡り歩いているんです。何分行き当たりばったりで生きてるので地図とか持ってないんですけど、次の目的地の参考にするため見せてもらえませんかね」
言ってから思ったが、少し無理のある質問かもしれない。むちゃくちゃな話だ。我ながら胡散臭い言動に見えた。
とはいっても、転生したのでこの世界のことを教えてくださいとは、流石に言えないだろう。
取り合えずこの世界の地形を把握したい。
「へえ。獣も出るってのに大変だな……ちょっと待ってろ」
博の怪しい言動に気付いていないのか、店主はひとしきり感心した後カウンターの奥に身を隠した。それから数分も待たないうち、店主は筒状の紙切れを持って戻ってきた。紙切れに付着したほこりをふき取った跡は、まだ真新しい。
「しばらく使わなかったもんだから探すのに手間取ったよ。とりあえず、これがこの街の付近にあたる地図だ」
随分と大雑把であるというか、この中世的世界には詳細に描くだけの技術に欠けるのだろう。博の目の前に広げられたのは、地図帳と言う便利なものから比べてしまうと大きく見劣りする地図だ。線だけとは言わないが、山や川の位置が曖昧である。ある程度予想通りであるだけに、文句のひとつも出てこない。
見れただけでも、十分な情報を得られたとしよう。
「……なるほど。ありがとうございました」
ひと通り見終わって、改めて異世界と言う事実が博の頭を過ぎっていく。インクの線ではそこにある景色こそ分からないが、地形は博のいた世界とは違う。
博のいた世界では失われつつある森が、この地図では人の手がほとんど加えられていないことが分かった。店主は獣がいるといったが、森の中に生息しているのだろう。
博のいた世界の人々のように森林を開拓して生活することと、この世界の人々のように森に手を加えず生活することのどちらが良かったのかは、博には分からない。森林破壊で地球を汚してまで技術を進歩することが進化と言うのなら、やはり元の世界の方が良いのだろう。
博が地図上の森を眺めているのを気にしたのか、店主はばつが悪い顔で博に注意を入れる。
「その森にはエルフが住んでるから近づかない方がいい。悪いことは言わないから、迂回して行きな」
聞きなれない幻想的な言葉。
思った以上のファンシーな世界観に、博の心境は好奇心と不安に揺らいでいた。