CHAPTER20『霧の取引と血の真実』
霧の幻影の兵――アオリイカ魚人の男は、動かない。
だが――判断は、すでに彼の手にはなかった。
その沈黙の先に、
もう一つの意思がある。
男は、短く沈黙した。
やがて、低く告げる。
「……わかった。しばし、ここで待て」
クロウを担ぎ直すと、そのまま身を翻す。
霧の奥へ――隠し通路へと、音もなく消えていった。
その背中を、ジルは無言で見送る。
視線は外さない。
ジルが低く呟く。
「……どう思う」
ヴォルグは、周囲を見回しながら静かに口を開く。
「霧の幻影は他の連中のように、無差別に殺しはしない」
「囲まれている可能性もあるが……このまま門前払いという線もあるな」
視線を巡らせたまま、低く続ける。
「だが――あのクロウの口添えがあれば、通されるかもしれん」
ジルはわずかに頷いた。
霧の奥で、水滴が落ちる音だけが響いていた。
しばしの沈黙――
やがて、瓦礫の隙間から人影が現れる。
先ほどのアオリイカ魚人の男だった。
「……来い。影虎様がお前たちに会うと言っている」
ジルは一瞬、息を詰めた。
「あ、ああ」
そのまま、ヴォルグへ視線を向ける。
「……やけにあっさり通されたな」
ヴォルグは周囲から視線を外さず、低く返す。
「……罠の可能性もある。いつでも動けるようにしておけ」
ジルは短く頷いた。
「……わかってる。油断はしない」
そして――
男の後を追い、瓦礫の隙間へと足を踏み入れた。
通路に足を踏み入れた瞬間――
空気が一段、重くなった。
霧が、濃い。
数歩先すら見えない。
霧が、呼吸の中にまで入り込んでくる。
視界は白く閉ざされ、輪郭が曖昧に溶けていく。
足音だけが、やけに大きく響く。
ポタ……ポタ……と、どこかで水滴が落ちる音。
その音の位置さえ、掴みきれない。
ジルは手を伸ばし、壁に触れる。
冷たい。
湿り気を帯びた石の感触が、指先にまとわりつく。
「……先が見えないな」
低く呟く。
ヴォルグがすぐ後ろで応じる。
「視界を奪うための霧だ……感覚を狂わせる作用もあるかもしれん」
ジルは壁に手を沿わせたまま、一歩ずつ踏み出す。
足場を確かめるように、ゆっくりと。
前を行くアオリイカ魚人の男の姿も、すでに霞んでいる。
ただ――
「……こっちだ」
低い声だけが、霧の奥から届いた。
ジルは足を止めない。
壁を伝いながら、その声を追う。
背後で、ヴォルグの気配が音もなく揺れる。
互いの距離を測るように、足音が重なる。
――やがて。
前を行く男の気配が、ふと止まる。
「……ここだ。入れ」
低く告げると、壁の一部に手をかけ――軋む音とともに、隠された扉が静かに開く。
ズズズズ……
その先――
霧が、途切れる。
重く澱んだ空気だけが、そこに満ちていた。
奥に、一人のクロマグロ魚人の男が座していた。
重厚な椅子に深く腰掛け、こちらを見ている。
「……よく来たな」
低く、静かな声。
ジルの視線が鋭くなる。
(……こいつが、影虎……!?)
確かに、そこにいる。
だが――
存在していないかのように、気配が薄い。
目を離せば、次の瞬間には消えていそうな錯覚。
ジルの指先が、わずかに強張る。
それでいて――
一歩踏み誤れば、即座に喉元へ刃が届く。
そんな、張り詰めた殺気だけが、確かにそこにあった。
「……蒼海の解放軍か」
「派手に動いているようだな」
ジルは視線を逸らさず、低く返す。
「……派手に動いてるつもりはない」
「ただ――勝手に周りが絡んでくるだけだ」
影虎は、微動だにしない。
「……あのレヴィアス相手に、よく生き残れたものだ」
抑揚のない声。
評価とも断定ともつかない、淡々とした響き。
ジルの目が見開かれる。
(……!? なぜそれを……!)
影虎はわずかに視線を動かす。
「……第二階層で起きていることの大半は、把握している」
ヴォルグは影虎の言葉を聞き流しながら、視線だけを静かに巡らせる。
壁、天井、足元――
逃げ道になり得る箇所を、無意識に拾い上げていく。
(……出入口は――入ってきたあの扉、一つしかない……)
影虎はヴォルグを一瞥する。
「安心しろ……ここで殺すつもりはない」
「クロウの件で、借りはある」
ヴォルグはわずかに力を抜いた。
だが、構えは崩さない。
影虎の視線が、静かにジルへ向く。
「……それで、私に何の用だ」
ジルは視線を逸らさず、口を開く。
「……あんたの真意を聞きたい」
「何で沈黙の牙と戦争を始めた?」
影虎はわずかに首を傾ける。
「……なぜ、それが気になる?」
「我々が潰し合った方が――お前たちにとっては都合がいいはずだが?」
ジルの反応を、静かに測る。
ジルは一切視線を逸らさない。
「……俺たちにとっては、この第二階層をあんたらが支配しようが、沈黙の牙が支配しようが関係ない」
喉の奥で、小さく息を吐く。
「だが――何のために血が流れてるのかは知る必要がある。
そこを見誤れば、俺たちもこの監獄の渦に呑み込まれるだけだ」
影虎は、わずかに顎を引く。
「ほう……ならば、嵐が過ぎ去るのを――隠れてやり過ごせばよい。
それが、この監獄で生き抜く知恵だ」
その言葉に、温度はない。
「弱者が選ぶ、生存戦略でもある」
ジルは首を横に振る。
「……いや、それは選ばない」
「隠れてやり過ごしても――何も変わらない……だから、あんたも動いたんじゃないのか?」
ジルの視線が影虎の腰の刀をかすめる。
影虎は、わずかに目を細めた。
「フッ――邪魔なものを排除しただけだ。それに奴らが反応した、ただそれだけの話だ」
静かな声が落ちる。
「戦争など――結果に過ぎん。
ドゥームが来るなら来ればいい。処理するだけだ」
ヴォルグは影虎を見据えたまま、低く問う。
「……なぜ沈黙の牙の幹部を消した?
第二階層の勢力図を塗り替える意図があるのは分かる。
だが――それだけのために、あんたが動いたようには見えん」
ヴォルグの視線が、鋭さを増す。
「狙いは何だ?」
影虎は一切表情を変えず、低く口を開く。
「……本来なら、貴様らに話す義理はない」
その視線が、ジルとヴォルグを静かに射抜く。
「だが――勘は悪くないようだ。
それに、クロウの件もある」
影虎は、ひとつ息を落とした。
「……あの沈黙の牙の男は、ある囚人を消そうとしていた」
ジルの眉がわずかに動く。
「ある囚人……?」
影虎は微動だにしないまま、淡々と口を開いた。
「第三階層に幽閉されていた男だ」
ジルの目がわずかに見開かれる。
(第三階層の囚人……!?)
影虎は続ける。
「沈黙の牙の男は――その囚人を拷問にかけ、必要な情報を吐かせた後、秘密裏に消そうとしていた」
一切の感情を乗せずに言い切る。
「……だから、先にその男を処分した。それだけだ」
ジルの目が見開かれる。
「……沈黙の牙が、なぜそんな動きを……!?」
影虎の視線が、静かに沈む。
「……以前から、沈黙の牙が何らかの方法で外部――それも政府上層と接触している気配は掴んでいた」
静かな声が落ちる。
「そして今回の件で、確信に変わった」
「少なくとも、ギルバートら看守の系統とは別の意思が動いていたはずだ」
ヴォルグの思考が、静かに走る。
(……看守どもとは別の命令系統が、この監獄の中に潜んでいるのか……?)
影虎は、わずかに目を細める。
「それが、誰の差し金かまではわからんがな」
沈黙が落ちる。
ジルは眉をひそめた。
「……だとしても」
低く、言葉を継ぐ。
「第三階層の囚人……何故そいつを助けたんだ?」
影虎は、わずかに口元を歪める。
「フッ……その男を失うことは、我々にとって――いや、この世界にとって損失が大きいと判断したからだ」
ジルの喉が、ひくりと鳴る。
「世界……!?」
息を呑む。
「……何者なんだ、その男は?」
影虎はジルを見据えたまま、静かに告げる。
「……今は潰えた反政府組織、ブルータイドの戦士――」
「名を、ゼオンという」
その瞬間。
ジルの背筋に、冷たい戦慄が走った。
「……ゼオン……!?」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
影虎は、ジルの反応を見逃さない。
「……知っているようだな」
ジルは影虎の言葉を、すぐには飲み込めなかった。
(ゼオン……隊長……)
喉が、わずかに震える。
「……ゼオンは……」
かすれた声。
「……生きているのか……!?」
ヴォルグがジルに視線を向ける。
「……お前は確か、元ブルータイドと言っていたな」
ジルは短く頷く。
「ああ」
拳を握る。
「ゼオンは――俺たちブルータイドの隊長だった」
喉の奥で、声がわずかに沈む。
「だが、政府海軍の壊滅作戦により……死んだと聞かされていた」
影虎は静かに言った。
「ゼオンは生きている……奴は今、深手を負っているが――沈黙の牙の手が届かぬ場所に移してある」
ヴォルグの思考が巡る。
(……政府が、情報を操作していたのか……?)
ジルは一歩踏み出す。
「……ゼオンには、会えないのか?」
影虎は首を横に振る。
「沈黙の牙の男に拷問を受け、生死の境を彷徨っている」
影虎の目が、わずかに細まる。
「今は、我々の持つ医術と秘薬で、かろうじて命を繋いでいる状態だ」
「だが――死なせるつもりはない」
静かな声が落ちる。
「そして、奴が死線を越えたなら――お前たちの出方次第では会わせてやってもよい」
ジルは、わずかに息を呑む。
「……俺たちに、何を求める?」
影虎はわずかに口元を歪めた。
「そうだな……」
視線が鋭くなる。
「沈黙の牙の幹部を――ひとり、始末してもらおうか」
ジルの眉が、ぴくりと動く。
「……何だと?」
影虎は淡々と続ける。
「ドゥームの“片腕”と呼ばれる男だ。
そして――今もゼオンの行方を追っている」
静かな声が落ちる。
「そいつを生かしておけば、いずれゼオンに辿り着く」
影虎の視線が沈む。
「……その前に消せ」
「結果として、沈黙の牙の動きも鈍るだろう」
影虎はジルを見据えたまま、淡々と続ける。
「……悪い条件ではないはずだ」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「我々にとっても――お前にとってもな、ジル・レイヴン」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
深海監獄アビスロック。
この監獄では、真実に近づくたび、新たな血が流れる。
その静かな取引の先で、次の戦いは、すでに始まっていた。
そして今――
ジルの止まっていた過去が、再び動き出す。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




